NHK交響楽団 第1952回 定期公演 池袋Cプログラム |秋元陽平
NHK交響楽団 第1952回 定期公演 池袋Cプログラム
NHK Symphony Orchestra No. 1952 Subscription (Ikebukuro Program C)
2022年2月12日 東京芸術劇場 コンサートホール
2022/2/12 Tokyo Metropolitan Theatre
Reviewed by 秋元陽平(Yohei Akimoto)
写真提供: NHK交響楽団
<演奏> →English
指揮:鈴木雅明
<曲目>
ストラヴィンスキー/組曲「プルチネッラ」
ストラヴィンスキー/バレエ音楽「ペトルーシカ」(1947年版)
『プルチネッラ』に『ペトルーシカ』とくれば、もちろんどちらも人形劇だ。この人形劇への愛好はそれじたい、作曲技法とともに己の姿を変え続け、形式と戯れる芸術家ストラヴィンスキーのある種の演劇性、「うそごと」への傾斜をものがたる。同時に、この人形は道化でもあり、どこか操り人形のようでもある。つまり、チャイコフスキーの『くるみわり人形』には、おとぎ話の世界を覗きこみ、人形のもつ愛らしさと子どもの夢を見出すまなざしがあるが、ストラヴィンスキーの音楽が描き出す人形は、残酷劇、グラン・ギニョールのそれであって、糸に操られ、体中をぎしぎし言わせて、滑稽で不自然な恰好で引きずり回され、最後には引きちぎられてしまう。このとき作り話は、その誇張によってかえって、現実の、残酷な美しさを反照する。
さて、タクトを握ったのは、かの鈴木雅明。私は直近では昨年末、普段古楽を聴かない面々も誘い合わせて彼とBCJによる『第九』を聴きに行き、そろって感銘を受けたばかりだ。バッハ演奏で世界的評判を我が物とした団体とその創立者という組み合わせからは想像も付かぬほどに熱狂的に、若武者のごとくオーケストラを駆る鈴木の指揮、そして決して落とし所を探りに行かず、学生オケの定期演奏会にかける意気込みをも凌ぐ、たった一回の「いま、ここ」を逃すまいとするBCJの前のめりの熱意。そんな鈴木が、ストラヴィンスキーの、つくりごとめいた夢幻世界をどう演出するのか、というのが関心の焦点だった。
果たして、彼は「人形遣い」となることはそもそも望まなかったように見える。N響の面々を信頼し、人形と同じ地平に降りていき、各々の自発性に任せる、そうしたヒューマンな態度が如実に感じられる。結果として、『プルチネッラ』に内在するバロック音楽の「贋作」としての遊戯性は後退する。レガート、ヴィブラート、豊富な残響で満たされ、全体にきびきびした舞曲の輪郭は少しまろやかに、アンサンブルはややゆったりと、しかしつねに和気藹々とし、ロマンティックな間奏に耽溺する楽しみが、主として弦のトップや管楽器奏者たちの自発的な歌心によって生み出される。バロック音楽の名手がにせバロックを演奏するという枠組みにこだわらず、鈴木がN響に内在するものを信頼して引き出そうとした結果のように感じられる。ストラヴィンスキーがいわば興行主として自ら挨拶に姿を現す「終曲」において、最も溌剌とした息遣いが感じられたことも興味深い。
『ペトルーシカ』でも、N響のもっている豪奢なまでのパレットの広さが存分に引き出される。『ペトルーシカ』は、『プルチネッラ』以上に切断的な音楽だ。縁日の音楽でさえ、ただ縁日の情景を描きだしているのではなく、いわば既に録画された縁日の映像を再編集、カットアップし、空間と時間の継ぎ目が変拍子や打楽器によってはっきりと意識させられる、そういった意図された不自然さがある。だがむしろ鈴木とN響の音楽は、こうした不自然さを解きほぐし、ペトルーシカたちが踊ったり、いがみあったりする場面に降りていって、その様子をひとつひとつ描き出すようだ。私にとって、ストラヴィンスキーは高みから舞台を設計するアイロニーの人でもあり、ある流れがブツリと切断され、気づけば別の流れに乗り換えてしまっているような、もっと暴力的な聴取体験を期待していたのもまた事実であるが、鈴木の導きに素直にしたがって、身構えずあらためて耳を傾けてみれば「地の部分」に仕掛けられた、ひとをほろっとさせる色彩の綾も、たしかにもちろん、ストラヴィンスキーの妙味なのだ。
(2022/3/15)
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<Performers>
Conductor: Masaaki Suzuki
<Program>
Stravinsky / “Pulcinella,” suite
Stravinsky / “Pétrouchka,” burlesque (1947 edition)