パリ・東京雑感|憎悪の哲学「大交代」陰謀論と資本主義|松浦茂長
憎悪の哲学「大交代」陰謀論と資本主義
Origins of The Great Replacement Theory
Text by 松浦茂長(Shigenaga Matsuura)
保守を標榜する佐伯啓思氏によると「資本主義」が近年論壇をにぎわしているのだそうだ。その証拠に、地球の荒廃を救うためにマルクスの知恵を借りようという「人新世の『資本論』」がベストセラーになったこと、岸田首相の所信表明演説にまで「資本主義」の語が堂々と登場したことをあげている。
海の向こうでは意外なところに「資本主義」が顔を出した。ちょっと込み入った話だが、いきさつをたどってみよう。
フランスで、「移民を追い返せ」と主張するジャーナリスト、エリック・ゼムールが、大統領候補に名乗りを上げ、一時はマクロン大統領に迫る人気になった。右翼ルペンに投票するのは気恥ずかしいと躊躇する知識階級や企業家も、大新聞『フィガロ』の人気ライターだったゼムールならOK。インテリ階層の抱く「イスラム憎し」の本音を代弁してくれるゼムールは、ルペンより広い層にアピールするらしい。
驚いたのは、人気ナンバーワンの左翼哲学者、ミシェル・オンフレがゼムールを、聴衆3700人の公開討論に招いたことだ。ゼムールが登場すると聴衆は「地中海の南から来た遊牧民を追い出せ」などとお気に入りのスローガンを大合唱。さながらゼムール応援集会だった。
オンフレは国営ラジオで1時間の講演番組をもっていた。無神論快楽主義アナキズムを称揚し、フロイト、サルトル……知の偶像を滅多斬りにする手際の良さに感嘆したものだ。ところが、近年彼の宗教批判はイスラムに集中し「最も恐るべき宗教」と決めつけた。かくして、極右ゼムールと極左オンフレの接点が出来、応援まがいの大討論会となったのだろう。
この2人共通のスローガンはまだある。「フランスは内戦前夜だ」「ヨーロッパ文明は衰亡の危機」「大西洋からウラルまでの大ヨーロッパを視野に、ロシアに接近すべきだ」
社会学者フィリップ・コルキュフに言わせると、これは「政治的境界が入り乱れ、ぼやけてきた」証拠だそうだ。そういえば、冒頭に引いた日本の保守論客とマルクス研究家の言い分がぴったり同じ方向を向いているのも、政治的境界がぼやけたしるしかも知れない。
移民対策を選挙スローガンにするのは、右翼ルペンも、共和党の大統領候補ヴァレリー・ペクレスも共通だが、ゼムールのユニークなのは「大交代」陰謀理論を堂々と掲げたことだ。「大交代」とは、祖国が「植民地化」され、異人種(中東アフリカのイスラム教徒)の大量入植により「土着人種」(白人)と伝統文化(キリスト教西欧文明)が衰弱し、滅亡の危機にさらされている――白人文明が異文明に置き換えられ「交代」する――しかもその総入れ替えは意図的かつ計画的に行われているという理論である。(かつて西欧が行った植民地支配の語彙をひっくり返して使い、自分達が植民地化されるとするレトリック)
2019年3月ニュージーランド、クライストチャーチのモスクを襲い、51人のイスラム教徒を殺したオーストラリア人テロリストの犯行声明には「大交代」というタイトルが付けられていた。同じ年の8月、アメリカ、エルパソのショッピングセンターを襲い、22人を殺した犯人が、「クライストチャーチの声明を支持する。私の攻撃は、ヒスパニックによるテキサス侵略への反撃だ」と宣言している。
フランスの世論調査によると、「我が国のエリート層(政治家・知識人・メディア)は、最終的にヨーロッパ人を移民によって置き換えることを目指し、意図的計画的に移民を導入しているか?」という問に対し、4人に1人がウイと答えるそうだ。
物騒な陰謀論!極右ルペンでさえ注意深く「大交代」という言葉を使うのを避けてきたのだが、ゼムールのおかげで「大交代」がにわかに脚光をあびるようになった。そもそも「大交代」理論はフランス発なのだ。
移民排斥の極めつきのイデオロギーを組み立て、アメリカ、オーストラリアのテロリストとフランス大統領候補ゼムールにインスピレーションを与えたのは、ガスコーニュの古城に住む作家ルノー・カミュ。同性愛を描いた『トリックス』は日本でも翻訳が出ている。
でも一体なんのための「大交代」なのだろう。カミュの頭の中をのぞいてみよう。
アフリカからの移民(主としてアルジェリア人を指す)が白人に取って代わり、先祖代々からのフランス人が消滅の脅威にさらされているのは、グローバル主義者・交代主義者エリートの画策だ。その目的は、白人のアイデンティティを奪い、取り替え可能な存在に作り変えること。
だれか特定の個人がこの陰謀を考え出したわけではなく、「グローバル交代主義」とでも呼ぶべきメカニズムが働いており、それによっておびただしい移民が発生している。グローバル交代主義を完璧に体現するのがマクロン大統領だ。
資本主義の目標は市民一人一人を、「取り替え可能な」消費者に作り変えることなのだ……
フランス人はこだわりの強い消費者かも知れない。なにしろ365種類のチーズが売られているし、オートマチックの自動車はほとんど見かけない。クラッチを踏みギヤーを切り替える運転にこだわりがある。グローバル資本主義にとってなんとも不都合な文化を誇る国だから、資本にとっては「取り替え可能な」消費者にするメリットも大きいわけだ。
資本主義の目から見れば、国民性とか文化的伝統とか(フランス保守派の用語では「アイデンティティ」)は、商売の邪魔になる贅沢にすぎない。だから、アフリカ大陸からどっと人を送り込んで、フランス人を、無個性なのっぺりした純粋消費者に変質させようという陰謀が……どこかマルクスの影が見える理屈だが、だとすると、移民を追い出す闘いは、結局資本主義との闘いに行き着くのだろうか。たしかに保守と革新の境界線に破れが生じたようだ。
荒唐無稽な陰謀論がはびこる背景には、フランス人の自信喪失がある。いまフランス人の3人に1人が祖国の衰退を感じているという。
偉大なフランス文明の凋落を招いたのは誰だ?――移民さえいなければ、こんなことにはならなかった。移民を追い出しさえすれば、幸福だったかつてのフランスを回復できる。――移民は格好のスケープゴートにされてしまったのである。
『ルモンド』の論説委員フイリップ・ベルナールは「昔は良かった」を繰り返すのはやめようと警告している。
いま私たちは歴史の節目を生きている。グローバリゼーション、気候変動、インターネットのもたらす変化は、必然的に、ものの見方・考え方の大変化をともなうのだが、それは苦痛に満ちた困難な過程でもある。
過去を反芻し、懐かしむのをやめ、未来を構築しよう。世界は変化してやまない。肝腎なのは、最良の未来をもたらすよう、この変化に寄り添うことだ。
さて、最初に触れた日本の論客に戻ると、若い斎藤幸平氏も老練な佐伯啓思氏も「進歩」そのものに激しい攻撃をかけている。佐伯氏は、「昨日よりも今日の方が豊かであり、明日はさらに豊かでなければならない」という、近代人の意識を断罪してこう言う。
より多くの富を、より多くの自由を、より長い寿命を、より多くの快楽を求めるという近代人の欲望の方こそ問題の本質ではなかろうか。
近代社会とは、人間が、己の活動や欲望について無限の拡張を求める社会であった。科学や技術によって自然を支配し、それを自らの自由や欲望の拡張に向けて改変する時代であった。そこに無限の進歩があるとみなした。資本主義は、近代のこの進歩への渇望に実にうまく適合したのである。(佐伯啓思『資本主義の臨界点』朝日新聞)
保守の側が進歩を批判するのは分かるが、マルクス研究者の斎藤氏が更にラディカルに進歩を攻撃するのには驚かされる。反進歩史観のマルクスなのだ。
害悪をもたらす成長や効率化を目指すのではなく、地球の特定の限界の中で生きていく。これが脱成長のメッセージです。
脱成長というと一般には、清貧とか、貧困のイメージがあるかもしれません。しかし、むしろ経済成長を求め続ける間に、労働条件も、地球環境も悪化しているじゃないですか。飽くなき成長を求める資本主義から脱出したほうが、99%の私たちは、豊かになれるはずです。
実は資本主義より以前の社会は劣っているわけではなくて、むしろ「持続可能性」や、「社会的平等」の観点からみると、資本主義より優れている。(斎藤幸平インタビュー『脱成長コミュニズムは世界を救うか』)
フランスの知識人に読ませたら「過去を反芻し懐かしむのをやめろ」と叱られそうな文章だが、日本人の心には響くところがありはしないか?近代以降の西欧人は骨の髄まで「進歩」に凝り固まっているのに比べ、日本人はそこまで「近代」人になりきっていないのかもしれない。
ちょっと話が飛ぶが、モスクワ生活で最大の楽しみだったボリショイ劇場のオペラ。僕は毎回大満足していたのに、アパートの隣人のドイツ人ジャーナリストは「いつも同じ演出だ」とご不満だった。我々には数百年も変わらない雅楽や能もあることだし、良い演出なら無理に変える必要もないと感じるのだが、ヨーロッパ人は日々新しい演出を「創造」しなくてはいけないと、せき立てられるように変化を追い求める。
近年ヨーロッパのオペラ演出は、ますます時代を反映した新しさに取り付かれたらしく、カルメンは終幕で殺されないし、『さまよえるオランダ人』のヒロインも自殺しない。男を救済するために自分を犠牲に捧げるなどという物語は、フェミニズムのコードに抵触するからだろう。歌手を裸にするのも進歩の証明なのだろうか。ショスタコヴィッチのオペラで、男がズボンをズリ下げてお尻を見せ、強姦するシーンがあった。
芸術は社会の変化を先取りする。「進歩」を信じ、「独創性」を追い求める西欧近代そのものが袋小路に迷い込み、グロテスク化して行くなれの果てを、私たちはオペラに見るのではないのか。トランプが退場したと思ったら、ゼムールが登場。オペラだけでなく現実世界の方もグロテスクの度を増しつつある。
(2022/1/15)