プロムナード|2年半の嬉遊曲|齋藤俊夫
2年半の嬉遊曲
Two and a half years Divertimento.
Text & Photos by 齋藤俊夫(Toshio Saito)
私が、私にとっての「ホンモノの音楽」と出会ったのは、今から25年以上昔、栃木県立宇都宮高等学校(以下、宇高〈うたか〉と略)の講堂で開催された部活動紹介集会においてであった。曲目は記憶していない。だが、指揮棒をダイナミックに振る学生指揮者に率いられたオーケストラ部(以下、オケ部と略)先輩方の演奏を聴いて、上手いとか下手とか言う範疇を超えたホンモノの衝撃を受けたのは紛れもない事実である。
集会を終えてすぐであろうか、真っ先に音楽室へ行ってオケ部に入部し、先の演奏で指揮をしていた先輩はどなたかと尋ねた所、私(当時も今も身長162,3センチ)とそう変わらない短躯の3年生であった。これは驚いた。指揮棒を振っていた後ろ姿のあの大きさは何だったのかと。これはますますホンモノだ、と私は確信を改めて強めた。ここにこそ私の青春があるに違いない……などというませた感情は当時本当にあったかどうかわからないが。
宇高は県では学力トップの由緒正しき男子高校であり、制服も古風な黒の学ランと決まっていたが、少なくとも私のように服装などに気を使わない人間にとっては校風ははなはだ自由。奇貨居くべしというか、奇人こそが宇高を創る、といった人間観が生徒・教師の間で共有されており、それもまた私のような人間にははなはだ風通しの良い高校であった。その中にあって、人数が多いこともあるが、大立者の巣窟と化していたのがオケ部であった。
そんな宇高オケ部の思い出は……思い出そうとすると現れるのは断片的な記憶ばかりで、1つの流れを持つ文章とするのが難しい。
例えば、1年生時、文化祭(12月の女子校との合同第九演奏会と並ぶオケ部2大イベント、9月初日頃開催)の曲目選定会議でJ先輩がCDをかけた『キアニア』が私の生涯初めてのクセナキス体験であった、とか……
木管の練習室でインド産のお香を焚きしめて「異臭事件」を起こした先輩たちと、その中で平然とファゴットの練習をしていた先輩と……ちなみにその部屋には踊るシヴァ神の小さな銅像が安置され、「躁」「鬱」と書かれた張り紙が天井にどうやってか貼り付けられていたりして、「幸庵(さちあん)」と呼ばれていた、とか……
文化祭、部室でのアンサンブルコンサートで謎の集団が(もちろん部員であるが)――今思えばリュック・フェラーリの集団即興か何かに影響を受けたのではないかと思われるが――謎の集団即興を始めた、とか……
曲目選定会議のために「シベリウス讃」の詩を自作してきた先輩がいた、とか……
部室の窓から手の届く所に生えている柑橘類をもいで食って美術の先生とオケ部顧問のA先生にこっぴどく叱られた奴がいた、とか……
何故か部室に置いてあった竹刀を何故か解体して大弓(弦楽器演奏用の弓ではなく、狩猟・戦闘に使うあの弓である)にした奴が私の代の部長だった、とか……
これら音楽とは関係ないような数々のエピソードにこそ宇高オケ部の精神は宿る、と豪語しても、要するに変な奴らがいっぱいいただけ、と昨今では流されてしまうのであろうか。いや、決して流してはならない。これら一見バカバカしいエピソードの深奥にこそ宇高オケ部の精神、すなわち自由が宿っている。カント的に言えば己の内にある格律のみに従っての自由、フーコーに習えば社会の規律訓練から解き放たれた自由、それを持たずしてホンモノの音楽は鳴り響かない。
大切なことを失念していた。私が1年生後半から2年生時のいつか、低弦パートが交流のための交換日記のようなノートを始め、その名前を『低弦のうねり』とした。その略称『低うね』に割り込んで私が「打楽器のおたけび」というコーナーを作って書き散らし始めたのが現在に至る私の執筆活動の原点にある。何を書いたと言うと、毒にも薬にもならない意味のないエッセイというよりネタ・ノートのようなもの。あるいは2年生の後半、自分が最上級生の代になってからは部活運営についての悲憤慷慨のなぐり書き。他にも3回くらいで完結してしまったリレー連載小説。〈好きな女の子のことを考えて〉書いたがどう読んでもそうは思えない謎の現代詩、などなど……。
そんなこんなで、低弦パートが始めた『低弦のうねり』は私の「打楽器のおたけび」をはじめ、部員たちが色々と書き散らす謎本と化したのであった。クラスルームにこのノートを置き忘れて担任の先生に読まれ、「これ齋藤が書いただろ。こんな変なことを書くのはお前しかいない」と言われたのも懐かしい。
無論、楽しいばかりでオーケストラという大集団が活動することはできない。特に、2年生の9月から指揮者となった私はオケ部のあり方、自分のあり方について相当に悩み苦しんだ。私の精神状態があまりにも悪化してしまい、部員たちが相談して指揮をするのを1月くらい休まされたこともある。
そんなこんなであっという間に色々と濃すぎる2年半が過ぎ、指揮者としての私の晴れ舞台にして最後の舞台である3年生9月の文化祭に至った。
私が指揮したのはブラームス交響曲第4番。だが、25年を経た今なら平静を保ったまま語れるが、長年自分を苦しませることとなる大失敗をその晴れ舞台でやらかしてしまったのである。
指揮をするに当たり顧問のA先生は大判のスコアを使っていたが、私はずっと音楽之友社のポケットスコアを用いてきた。本番でも、書き込みだらけのそのポケットスコアを使用したのだが……ページをめくるのを失敗したのである。
ポケットスコアは常備して譜読みしていたのだが、鞄の中まで水浸しになるほどの豪雨に見舞われてそれは本番時には表裏の表紙がなくなり全体がよれるほど劣化していた。さらに普段は指揮台上の椅子に座って指揮していたのだが、本番では椅子なしで立っての指揮だったため、体と譜面台の高低差によってスコアのページを開いたまま保つことが出来なかった。第1楽章の途中でスコアが閉じてしまい、なんとか復帰できないかと指揮しながら焦ってスコアを手繰るもどうにもならず。こうなりゃ暗譜でやるしかない、と演奏中に腹をくくってスコアは閉じたまま指揮棒を振った。
そしてやってきた第4楽章冒頭、緊張と疲労で呼吸もままならなくなっていた私は、あのシャコンヌの第1音を異常に長く伸ばしてしまい、そうしてそれに続くシャコンヌ全てが異常に長い音価となり、結果超スローモーな第4楽章となってしまったのである。なんとかして、というか、自分でも具体的にどうしたか思い出せないが、テンポを徐々に上げて、最後には通常に至った、はずだが……。終演後の喝采をなんとも表現し難い心持ちで受け止めていた。
演奏に失敗していたのか?演奏を立派にやり遂げたのか?それは今でもわからない。それでも、これこそが私と仲間たちの「ホンモノの音楽」だったのは間違いない。
この演奏を録音したCDは今でも大切に保存しているが、聴くことはない。自分の黄金時代たる宇高オケ部の思い出と自分たちの「ホンモノの音楽」は、CDではなく、私の中にこそある。どんな名演よりもホンモノな、自分たちで創り上げた音楽。それに思いを致すとき、私は小汚く乱雑なあの部室とかけがえのない仲間たちの存在を感じるのだ。
(2021/12/15)