Books | 従順さのどこがいけないのか|谷口昭弘
将棋面貴巳著
筑摩e BOOKS
2021年9月出版 924円
text by 谷口昭弘 (Akihiro Taniguchi)
著者の将棋面氏は西洋史学者・政治学者ということだそうだが、本書が扱っているのは、最終的に、市民 (citizen) の政治参加の大切さ、ということになるのだろうか。といっても最初から何か壮大な「運動」を促すというアプローチではなく(世界的に見ても「運動」そのものは民主主義社会では一般的であり、そういうことを射程に入れることは当然考えているのだろうが)、そこに至るまでのマインドをどのように育成させていくか、それが日本において難しいと思われるのはなぜなのかを、歴史的・地理的に幅広い視点から、無駄なく分かりやすく、そして要点を簡潔に、知的に抜けなくまとめている一冊といえる。「若い読者」を想定しているそうだが、おそらくこの新書の性格からいって高校生辺りを読者層と捉えているのではないだろうか。ちなみに、本書の出発点の一つは、スウェーデンの環境運動家グレタ・トゥンベリーの地球温暖化に反対する運動である。
本書のタイトルを見た時にまず感じたのは、日本は「従順」に生きることが美徳とされており、それが一見「良さそう」に「大人」から思われているということである。ここから私はもう一つ「我慢」という言葉も日本人が美徳の一つとして覚える言葉として思い起こすことになった。多少嫌なことがあってもじっと耐え、文句を言わず物事を実行するというものだ。こういった考え方は「苦行」を伴う修行が何らかの「道」とされる宗教に端を発しているのではないかと思うこともある。
ただそういった精神修養は別として、現実的な社会問題の中で「従順」に生きることは、おそらく世の中の出来事がすべてうまく行っているという場合は悪くなさそうに思えるのだが、現実は「この世の楽園」は存在しないのだし、我々の生きる社会に多くの問題が山積しているのは明らかだろう。著者が特に問題にしているのは、政治的「不正」・社会的「不公正」が行われた時、それに対して声を上げることを、大人を含め多くの人々が行わないということである。それは単に政治に関心がないといった単純な問題意識で解決するものではなく、日頃の生活レベルでも、社会問題に興味関心を持ち意見を表する行動が推奨されてこなかったということだ。すなわちもっと我々の生きるこの日本全体で考えるべき問題といえる。
将棋面氏自身の体験として、そういった日本全体の問題の端緒として学校を挙げているが、これは本当に大きな問題ではないだろうか。こういう「学校社会」において「市民」となるための教育、あるいは身近なところでは、例えば自分たちが学校運営に疑問を持ち、それに対して意見を表明し、それが何らかの形で反映されるといった成功体験をするということが、おそらくほとんどないのでは、ということが考えられる。一部の「先進的」な学校で行われている「校則」に対する問題提起などは稀な例だろう。そういえば先日どこかの弁護士がツイッター上で言っていたことをおぼろげな記憶で書くと、学校で法律について話をすることになったが、教師からは「法律を守ることの大切さを教えてください」と言われたという。しかしその弁護士は、「守る」ことよりも、自分たちがその法律に問題意識を持つことの重要性を意識させたい、ということを書いていた。
冒頭にグレタ・トゥンベリーの話を持ち出したが、社会問題に「子ども」が関心を持つことについては、(これも曖昧な記憶で申し訳ないのだが)アメリカの公共放送における、小学生をターゲットとしたアニメ番組を思い出した。その番組では、自分の地域にショッピング・モールができる計画が持ち上がり、自分たちの住む地域の自然が破壊される恐れがあり、それに対して小学生の主人公が疑問を持つというエピソードであった。この子どもの主人公が疑問を両親に話すと、まずは署名活動からやってみたら、ということを言われた。やがて少年たちはショッピング・モールを作ろうとする人たちを、タウン・ミーティングで告発するというところまで話は進んでいたように記憶している。
本書で将棋面氏も述べておられたが、こういった「社会参加」「政治参加」といった行動とそのための知識は、学校での知識の獲得と同様に、あるいはそれ以上に、市民社会を形成する上で、先進国において重要視されているという。となると、日本の場合は、子どもに教育を「授ける」大人から、社会や政治に対して意見を持ち、議論することが必要ということにもなりそうだ。よく「政治と宗教の話はタブー」という言い方も耳にするが、少なくとも大学院時代を過ごしたアメリカでは、割と普通に政治の話は行われていたし、私自身、アメリカ人の友人に向けてアメリカの中東地域に対する攻撃に強く抗議したことがあった。日本では私も「従順」だったが、お国変われば…だったのかもしれない。
「従順」になってしまう、あるいは何らかの「権威」に服従してしまう日本の要因としては、社会の不正を告発しても「何も変わらない」という諦観、「長い物に巻かれる」という処世術が大きな意味をもつ「大人」(この「大人」とは一体何者なのか)の世界、強い「同調圧力」や、人任せの決定にしたがうことによって自らの責任を回避してしまう傾向など、いちいち耳の痛い指摘ばかりが書かれている。
著書はまた「忠誠心」が生み出す危険性についてもページを割いている。それが「判断を曇らせる」「思考停止」を生み出す可能性はこれまでも多くの言論人に指摘されてきたとは思う。しかし例えば「主君への絶対条件的な忠誠」というのは、実は『論語』等中国の書にはなく、江戸時代の日本以降に定着したことなど、教えられることもあった。ただ我々は何者にも依り頼むことなく物事を決めることはできるはずもないので、では何を基準に判断をすればよいのか、というところまで突き止めて考えている点も重要であろう。そのことについても書かれている。詳細はぜひ、本書を一読されたい。
これら以外にも、近年日本を蹂躙している「自己責任」という言葉が、そもそも市民に対してではなく政府に対して宛てられた言葉であったことなど、本書から学ぶことも多い。その一方で、これまで社会問題や政治問題に高い関心を持ってきた人、あるいは10月にジネールのオペラ《シャルリー〜茶色の朝》を観て問題意識を持った人にとって、この本の内容は真新しいアイディアに満ちたものではないと思ってしまう可能性はある。ただ、今後の未来を決める選挙の投票率が低い現状、大人も含めた日本の中で政治に対して意見を表明したり社会の不公正に対して怒りをあらわにすることがないというのも、この本の著者が指摘するように事実であり、そういった「大半」の人に向けて、本書は大きな意味を持っている。あるいは、問題意識を持った人であっても、きちんと知識を整理するために本書を紐解くのも良いし、社会問題・政治について人と話し合う際の心構えを得るためにも本書は役に立つ。そういった意味で、将棋面貴巳氏の『従順さのどこがいけないのか』は、想定した読者がたとえ高校生であったとしても、「いま日本は何か変だな」と思った大人が一度は目を通すべき一冊である。
(2021/12/15)