三和睦子チェンバロ・リサイタル|西村紗知
三和睦子チェンバロ・リサイタル
MUTSUKO MIWA Cembalo Recital
2021年4月14日 近江楽堂
2021/4/14 OUMI GAKUDO
Reviewed by 西村紗知(Sachi Nishimura)
写真提供:宮森庸輔
<演奏> →foreign language
三和睦子(チェンバロ)
<プログラム>
F.クープラン:プレリュードハ長調(クラヴサン奏法より)
F.クープラン:第15オルドル(クラヴサン曲集第3巻より)
摂政、あるいはミネルヴァ
ドド、あるいはゆりかごの愛子
軽はずみ
温和と辛辣
シャブイユの王女、あるいはモナコのミューズ
J.Ph.ラモー:女神たちの対話(クラヴサン曲集1724年より)
つむじ風(クラヴサン曲集1724年より)
A.フォルクレ&J.B.フォルクレ:組曲第3番
ラ・フェラン
ラ・トロンシャン
ラ・アングラーヴ
ラ・デュ・ヴォセル
ラ・モランジまたはプリセー
J.Ph.ラモー:トリオレ(新クラヴサン曲集1727年より)
優しい嘆き(クラヴサン曲集1724年より)
タンブーラン(クラヴサン曲集1724年より)
※アンコール
フォルクレ:シルヴァ
J.S.バッハとほぼ同時代でありつつ様式的にはそれ以前のバロック音楽。その多くは可憐で素朴に聞こえる。もちろんデモーニッシュな曲調のものもあるけれども、いずれにしてもあまり技術的に洗練されていないように感じてしまう。しかし、そんなふうに技術的な不足として聞いてしまうというのは我ながらいかがなものか、その印象をどうにかして拭えないものか。そんなことを考えながら会場に向かった。
ところで、批評家・丹生谷貴志が「もし私の顔が青いなら」という論考のなかで、古楽演奏家のデイヴィッド・マンロウの夭折に触れて次のように書いていた。マンロウは古楽の再生を通じて「現在から見れば異常と言ってよい幼児死亡率と相対的な生の短さ(二十六歳から三十二、三歳に限定された平均寿命……)からなる生の型、それでいてそれが不思議なほどに死の不安や死に於ける擾乱というプロブレマティゼーションと直接結びつくことのなかった、そうした生の型そのものの再生にまで結びついたのではないか」(註1)と。そんなことをこの演奏会中に思い出していた。もっとも丹生谷の言う「生の型」とは中世・ルネサンス期についてのものだったのだが。
というのも、クープランでもラモーでもフォルクレ父子でも、音が短命なのだ。チェンバロだからすぐに減衰する、などという意味ではない。特にフォルクレ父子の作品に顕著だったように思うが、この日の作品の音の数々は、小節線をまたいで延命することができない。鳴ったそばから、同じ音型が反復されようと、その度に亡くなってしまうのである。過去も未来も音は知らない。「今、ここ」でしか鳴ることはできない。
それはJ.S.バッハ以降の西洋音楽にはない特徴だ。この日の作品はいずれも、時間的に前の方に鳴った音を引き継ぐ技法が未発達なのである。半音階的に和声の解決を引き延ばすこともなく、繋留音で声部の間に何らかのずれをもうけることもない。そうして、物理的な時間の流れるままに身をまかせ、音楽独自の時間をつくりだすことを知らないのである。
クープランの「プレリュードハ長調」は下鍵盤のみで演奏される。あまりテンポを揺らさず、素直な音調に惹かれる。
「第15オルドル」は5つの曲に分かれている。1曲目「摂政、あるいはミネルヴァ」は、上鍵盤を奧に押し込んでから下鍵盤のみで演奏される。左手はシンプルなベースラインを辿っている。両手が同時に止まることも多く、音の線が交わることが少ない。2曲目「ドド、あるいはゆりかごの愛子」は左手が上鍵盤に置かれる。特に中間部の言いよどむような左手のアルベルティ・バスがいじらしい。3曲目「軽はずみ」は下鍵盤のみで軽快に。実に簡素なコード進行と歌心である。4曲目「温和と辛辣」にて左手は右手のメロディーの三度下を弾きハーモニーをつくる役割を担っている。5曲目「シャブイユの王女、あるいはモナコのミューズ」は上鍵盤のみで弾くところからはじまり、高い音域の響きが印象的であった。
ラモーの「女神たちの対話」は哀しい音調に、右手の長いトリルが聞かせどころであった。「つむじ風」はタイトル通り速いテンポで、これもまた右手の速いパッセージが豪奢に響き渡る。
A.フォルクレ&J.B.フォルクレの「組曲第3番」には、上鍵盤と下鍵盤とで同じ音域で被さるように演奏する書法があり、興味深かった。音域が被ると全体的にくぐもった音響体ができあがり、そこに含まれる音の断片は存在を主張しなくなる。そして、低い音域を中心に鳴らすところでは、これもまた音響体としてのニュアンスが先に立ち、ひたすらぞわぞわとした音響が進む方向もなしに反復されるのであった。それはもはや、音楽というより情念を写し取ったもののよう。
そうしてフォルクレ父子とラモーとは対照的であることがよくわかる。プログラム最後3曲はラモーの「トリオレ」「優しい嘆き」「タンブーラン」。どれも可愛らしい、そよ風のようなキラーチューンである。音の跳躍や和音の乖離配置が、いかに音楽を音楽らしくする技巧であるか。こういうちょっとした技巧がなければ、音楽はすぐに音楽以前のなにがしかに還っていってしまうのである。
「今、ここ」に鳴っている音楽を言祝がねばなるまい。耳を澄ますことをやめた途端に、それはもう音楽以前に還っていってしまうような、ささやかな音調を。その辺りの細やかな差異を、技術的な不足として受け流してはならない。
「今、ここ」を聴くということ。だがそれは、一番単純なようでいて、一番難しいことなのかもしれない。
(註1)丹生谷貴志「もし私の顔が青いなら」『現代思想』18(13)、青土社、1990年、73頁。
(2021/5/15)
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<Artists>
Miwa Mutsuko(Cembalo)
<Program>
François Couperin:Prélude en do majeur(L’art de toucher le clavecin)
François Couperin:Quinziéme Ordre(Troisième livre de pièce de clavecin)
Le Régente ou la Minerve
Le Dodo ou L’amour au Berçeau
L’évaporée
La Douce et Piquante
La Princesse de Chabeüil ou La Muse de Monaco
Jean-Philippe Rameau:L’Entretien des Muses(Pièces de clavecin 1724)
Les Tourbillons(Pièces de clavecin 1724)
Antoine Forqueray&Jean-Baptiste Antoine Forqueray:Troisième Suite(Pièces de clavecin)
La Ferrand
La Tronchin
La Angrave
La du Vaucel
La Morangis ou La Plissay
Jean-Philippe Rameau:Les Triolets(Nouvelles Suites de Pièces de clavecin 1727)
Les Tendres Plaintes(Pièces de clavecin 1724)
Tambourin(Pièces de clavecin 1724)
*Encore
Forqueray:La Sylva