ヴィンコ・グロボカール《表象の森を通り抜け》|西村紗知
ヴィンコ・グロボカール《表象の森を通り抜け》
VINKO GLOBOKAR “Par une forêt de symboles”
2021年1月11日 トーキョーコンサーツ・ラボ
2021/1/11 Tokyo Concerts Lab.
Reviewed by 西村紗知(Sachi Nishimura)
写真提供:ナヤ・コレクティブ
<演奏> →foreign language
太田真紀(ソプラノ、パフォーマンス)
村田厚生(トロンボーン、パフォーマンス)
神田佳子(打楽器、パフォーマンス)
黒田亜樹(ピアノ、パフォーマンス)
山田岳(ギター、パフォーマンス)
佐原洸(エレクトロニクス、パフォーマンス)
宗像礼(《表象の森を通りぬけ》音楽監督、作曲)
<プログラム>
ヴィンコ・グロボカール《クヴァドラ(四角形)》4人の打楽器奏者のための(1989)
宗像礼《tteii》声、トロンボーン、2人の打楽器奏者、ギター、ピアノのための(2020委嘱 世界初演)
ヴィンコ・グロボカール《表象の森を通りぬけ》6人の自由な奏者のための(1985)
舞台には四角形に囲むように長机が置かれ、その上に種々雑多な物が配置されている。奧の机には白菜、メトロノーム、ホース。下手の机にはエルモのぬいぐるみ、黒猫をかたどった時計、灰皿、観葉植物。観客から見て正面の机には、パイナップル、木魚、スーツケース、数珠、じょうろ。上手の机にはポリバケツ、花瓶、風船。このほかにも、さながら地方のさびれた雑貨屋のごとく、物がたくさん置かれている。なかには、タンボリン(?)、ギロ、ウッドブロック(四角いもの)など、打楽器も混ざっている。それと、時節柄もあって消毒液も。
観客にはどれが鳴り物か、鳴り物でないか、わからない状態となっている。そもそも時計は無音で刻む物である。音具となるかどうかは、4人の奏者次第だ。それだけで音というものに対する批評眼が光る。音の存在を、メタフィジカルな側面から現実の方へ取り返していこうというわけだ。音というのは飽くまで個別具体的で、その瞬間に存在して、そのまま消えていくものなのである。それは当たり前のことだけれど、この当たり前のことから構成的なものが出来上がっていく。
ヴィンコ・グロボカール《クヴァドラ(四角形)》。奏者の最初の席は、正面が太田、下手は神田、正面奥が村田、そして上手が山田である。途中、メトロノーム、タイマー、クマのおもちゃが鳴るタイミングで席替えをする。
最初は単音の反復リズムパターンを正面、下手、奧、上手の順に一人ずつ回していく。最初、太田はちらとパイナップルに目をやるが、タンボリンを手で叩き、次に神田がウッドブロックをマレットで叩き、村田はマラカスと足踏み、そして山田は風船を手でキュッキュとこする。こうして一周したのち、今度はウッドブロック+マラカスなど、2人のアンサンブルが展開され、やがて4人のアンサンブルとなる。
途中席替えをはさむので、4人の奏者が手にする物はその都度変わる。印象的だったのは、ギロ、ホース、スーツケースのアンサンブル。似たような凹凸の構造をもつ物が、それぞれ異なる奏者の手により、微妙に違った音色で重なりあうことに、素直な感動を覚えた。
最後は起立し、手拍子や足踏みなどのボディーパーカッション、そして合唱で締めくくられる。
楽音には噪音がともなう。2つは光と影の関係のようだが、そもそもこの区分も認識上のものでしかなく、現実には1つの音として鳴り響く。けれども、ヒエラルキーが存在する。楽音に比べ噪音は行儀の悪い音として聞こえてしまう。
そこで、楽音に従属してきた噪音が復讐する。宗像礼《tteii》は、行儀の悪い音が、誠にきめ細やかな音響をつくっていくので、そのギャップにはっとさせられる。
奏者はそれぞれ一枚の紙をもち、上下に泳がせパラパラと鳴らす。「シュー」という息の音、トロンボーンはキュルキュルと高音部を旋回し、ステンレスのカゴがザーン……と鳴る。なにかしらの金属音とカサカサした子音とが繊細に組み合わさり、総奏でもmfくらいの音量にしかならない。
ギターとピアノは演奏するが、音というよりも音響を全体に足すために演奏する。ギターの弦は叩かれる。ピアノはダンパーペダルをわざと急に離し、ドンッ……という強いパルスを会場に轟かすのだが、この存在感は本当に並々ならぬものだ。ペダルは静かに踏まなくてはならないというピアノ教育を受けた者には、この音響から感じ取られる解放感は素晴らしいものがある。
総奏の中に鳴る拡声器の音。舞台の左右に配置されたスピーカーが音響全体を振り分け、小さく鳴る金属音。トロンボーンは最後舞台袖にはけてバンダとして吹く。金属音とピアノのダンパーペダルの轟で、この作品は閉じられる。
音がはじめて生まれるとき、その音に意味はない。噪音には意味はない。けれども楽音にだって、本当は意味がない。ただ生まれて、消えていく。現実の出来事の大半もまた、そういうものではないのか。
万事そういった具合で、ヴィンコ・グロボカール《表象の森を通りぬけ》は、音の無意味さをして現実の無意味さを語らしめる、そうしたパフォーマンスとなった。
奏者は適宜必要に応じ舞台上を歩き回る。鳴らす音も行動も、かなり偶発的だ。鼻をむずむずさせたりくしゃみしたりするのも、パフォーマンスに組み込まれる。コロナ禍に入ってからというものの、他人のくしゃみの音を聞くことはほとんどなくなったというのを、ここで気づかされる。
奏者は舞台の床に寝そべる。その上にグロッケンが置かれ、演奏される。ガラス瓶は吹かれ、スプレーは噴射される。ある奏者は急に「助けてくれ」と叫ぶ。またある奏者は書道(?)をはじめる。
鈴が床に転がされる。ピアノ奏者はベートーヴェンのピアノソナタ〈アパッショナータ〉の冒頭を弾く。
不意にある奏者が「お静かに!」と叫ぶ。その後すぐにエレキギターのソロが続く。
奏者全員で「ハレルヤ」を急に歌う。
床はいつの間にか紙テープで覆われている。ピアノには日の丸がかけられている。ある奏者の顔に墨が塗りたくられている。
ある奏者が「12時よ、起きて」と言う。風船を膨らませ、それを別の奏者が割って、パフォーマンスは終わりとなる。
最後の《表象の森を通りぬけ》では特に、観客は黙って見守っているだけではあるものの、盛り上がっているという実感が筆者にはあった。
観客の聞きたい音楽がまさにそこに鳴っていたのだろうと思う。
(2021/2/15)
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<Artists>
Maki Ota(Soprano and Performance)
Kousei Murata(Trombone and Performance)
Yoshiko Kanda(Percussion and Performance)
Aki Kuroda(Piano and Performance)
Gaku Yamada(Guitar and Performance)
Ko Sahara(Electronics and Performance)
Rei Munakata(“Par une forêt de symboles” Director, Composer)
<Program>
Vinko Globokar : KVADRAT(1989)
Rei Munakata : tteii(2020 world premiere)
Vinko Globokar : Par une forêt de symboles(1985)