京都コンサートホール×ニュイ・ブランシュ KYOTO 2020『ながれ うつろう 水・線・音』|能登原由美
京都コンサートホール×ニュイ・ブランシュ KYOTO 2020『ながれ うつろう 水・線・音』
Kyoto Concert Hall×NUIT BLANCHE KYOTO 2020 « La fluidité et le passage – de l’eau, la ligne, le son »
2020年10月3日 京都コンサートホール1階エントランスホール
2020/10/3 Kyoto Concert Hall Entrance Hall
Reviewed by 能登原由美(Yumi Notohara)
写真提供:京都コンサートホール
〈出演〉 →foreign language
フルート:上野博昭
声明:吉岡倫裕
打楽器:上中あさみ
伊藤朱美子
樽井美咲
〈曲目〉
ドビュッシー:シランクス(1913)
武満徹:雨の樹(1981)
イベール:フルートのための小品(1936)
ケージ:龍安寺(声明バージョン)(1983-85)
ヴァレーズ:密度21.5(1936/rev.1946)
「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」。100年に一度とも言われる疫病の大流行で世の中の姿は一変し、あまりにも有名なこの『方丈記』の一文がつくづく身に沁みる年となった。だが考えてみれば、それは今に始まったことではない。時代の流れや移ろいの激しさを言えば、技術革新やグローバル化による生活様式の変化、価値観の多様化など、近年ますます増大している。「よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし」と、800年以上も前に詠まれた言葉は現代にも当てはまるような気がしてならない。
漠然と胸にくすぶっていたその思いがこの夜、にわかに掻き立てられた。「ながれ うつろう 水・線・音」との詩趣に富むタイトル、京都コンサートホール1階エントランスホールで行われた無料コンサートである。パリでは毎年10月第1土曜日に現代アートの祭典「ニュイ・ブランシュ」が行われており、当市と姉妹都市提携する京都市はそれに呼応して2011年より「ニュイ・ブランシュKYOTO」を開催している。その一環でもある。今年の全体テーマは「流れ/フロー/Flux」。それに対し、当ホールが打ち出したのがこの公演というわけだが、タイトルやプログラミングなど、企画自体は全てホール独自のものとのこと。1時間余り、休憩なしのコンサートはその全体がまさしく、「ながれ うつろう」一つの作品となっていた。
会場のエントランスホールは、建物1階から2階の大ホールへと続くスロープに囲まれた場所に位置する。ここは2階まで吹き抜けの構造になっており、教会堂内部のような響きをもつ。そのため、こうした無料コンサートが年に数回開催されてきたが、現在はウィルス感染拡大予防のために入場者数が大幅に制限されている。今回も抽選制をとっており、受付開始早々にファックスで申し込んだ私は、幸いにも当選の通知を受け取ることが出来た。
事前に番号で割り振られた私の席は、正面よりやや右寄り、前後で言えば中ほどにあった。とはいえ、中央に設置された打楽器類を囲むように客席が配置されている上、ホールの構造からすると、音響的にも場所の優劣はあまりないのかもしれない。
開始時刻となり、照明が一斉に落とされると、あたり一面暗闇となった。と、彼方から笛の音(ね)が聴こえてくる。ドビュッシーが死に瀕した牧神パンに奏でさせた調べだ。主人(あるじ)の姿は隠したまま、不規則に揺れながら長い下降形を成す音の連なりだけが、螺旋状のスロープを伝って緩やかに舞い降りてくる。生死を超えた幻想的な世界が一挙に現出した。
やがて音が消えると、中央のスペースにほのかに明かりが灯り、ヴィブラフォン、マリンバを前に3人の奏者が照らし出された。その一振りによって、音の粒が雨の雫を描くように一つ一つ解き放たれると、宙へと投げ出されたそれらは無造作に漂い、時に渦を巻き、時に相互に離合しながらやがて泡のように消えていく。武満は宇宙を循環する水と言ったが、むしろ永遠と繰り返されるその生滅の様は、生きとし生けるものの輪廻をも描くようであった。
再び、フルートの音が聞こえてきた。今度の響きは耳に近い。振り向くと、客席後方、スロープの2階に奏者が照らし出されている。その体の動きに合わせてしなやかに舞い上がるイベールの音の軌跡は、前の武満に比べると慣れ親しみを感じさせ、体が現実の世界に引き戻されるようであった。いや、むしろそのような気がしたのは、西洋の語法にどっぷり浸かりすぎてしまった私自身の感覚ゆえかもしれない。
けれどもその後、法衣をまとった僧侶が現れると再び夢幻の闇が襲ってきた。衣擦れの音、数珠のかちあう音だけが静かに響き渡る。これから演奏される「偶然性」をうたったケージの作品は、このときすでに始まっていたのかもしれない。僧侶は中央のスペースに毛氈を敷き、座して呼吸を整えると、静かに声を発し始めた。あらゆる情緒を排したようなその声音は、くっきりと弧を描きながらホールの隅々を旋回していく。
程なくして、どこからともなく一筋の香りが漂ってきた。僧の喉元から流れ出る音の動きとは対照的に、その薫香は茫漠と空気に溶け込んで鼻腔をかすかについてくる。さらに、あらかじめ録音された僧侶の声がスピーカーから放たれると、それぞれの声と香りが幾重もの層になって、重なり合い交じり合いながら大きなポリフォニーを形成していったのである。もはやこの時、ケージにインスピレーションを与えた庭やその思想のことなどは頭から消え、ただ延々と続くその流れや移ろいに無心に身を委ねていた。
異色の共演が終わり、僧侶が身づくろいして立ち去っていくと、フルートが最後の演目となるヴァレーズを演奏し始めた。奏者が客席のすぐ後ろに配置されたのは、楽音のみならず、キーを叩く音や息の破裂音など微細な噪音さえ本作の重要素となっているからであろう。一方で、冒頭のドビュッシーへのオマージュと考えられているこの作品を終わりに置くことで、ここまでの音の流れは再び始まりへと回帰する。それにより、全てはとどまることなく永遠に循環し続けることになるのだ。実に見事な発想ではないか。
そして再び場内が闇に包まれ、一連の「舞台」が終了した。
プログラムには、企画やプログラミングの趣旨が書かれており、タイトルにもあるように水や線、音の流れを通じて様々な「うつろいゆく流れ」が表現されたとある。そればかりか、コロナ禍の状況を受けて、「現実・非現実」、「偶然・必然」、さらに「過去・現在・未来」の3つの側面が追求されたともいう。今さらここでその一つ一つを説明する必要もないであろう。確かにこの夜私が見たものは、これらの要素がそこかしこに感じられるものであったのだから。だが何よりも、「いま、ここ」という音楽の生体験の醍醐味をこれほど味わえたこともなかった。危機的状況にある中でホールの存在意義を改めて示したこの企画と関係者に、心から賛辞を送りたい。
(2020/11/15)
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〈program〉
C. Debussy: Syrinx (1913)
T. Takemitsu : Rain Tree (1981)
J. Ibert : Pièces pour flûte seule (1936)
J. Cage : Ryôangi(1983-85)
E. Varèse : Density 21.5 (1936/ rev.1946)
〈cast〉
Flute : Hiroaki UENO
Shômyô : Rinyu YOSHIOKA
Percussion : Asami KAMINAKA
Percussion : Sumiko ITO
Percussion : Misaki TARUI