日本フィルハーモニー交響楽団 第723回東京定期演奏会<秋季>|西村紗知
日本フィルハーモニー交響楽団 第723回東京定期演奏会<秋季>
Japan Philharmonic Orchestra The 723rd Subscription Concert
2020年9月4日 サントリーホール
2020/9/4 Suntory Hall
Reviewed by 西村紗知(Sachi Nishimura)
Photos by 山口敦/写真提供:日本フィルハーモニー交響楽団
<演奏> →foreign language
指揮:山田和樹[正指揮者]
チェロ:横坂源
ピアノ:沼沢淑音
<プログラム>
ガーシュウィン:アイ・ガット・リズム変奏曲
ミシェル・ルグラン:チェロ協奏曲(日本初演)
※アンコール カザルス:《鳥の歌》
五十嵐琴未:櫻暁(おうぎょう) for Japan Philharmonic Orchestra(世界初演)
ラヴェル:バレエ音楽《マ・メール・ロワ》
今回の日本フィルハーモニー交響楽団の定期演奏会は、新型コロナウイルス感染防止対策につき予定されていたプログラムを変更し規模縮小の上実施された。メイン・プログラムは元々、水野修孝の交響曲第4番だったが、これを五十嵐琴未作品とラヴェル《マ・メール・ロワ》に置き換えるかたちとなった。指揮者・山田和樹の意図は、ガーシュウィン、ルグラン、水野を並べることで、クラシックとジャズの融合というテーマにまつわる諸々を浮かび上がらせることにあっただろうと思う。
改めて、コンサートのプログラム構成は重要である。無くなって初めてそのありがたみがわかるというものだ。致し方ないとはいえ、メインが無くなってしまっては、今回はなかなかに気の抜けた聴取体験だったと振り返えざるをえない。けれども、これは却ってコンサートというメディアの特性がわかった、というようなもの。クラシックのコンサートはプログラムを聴くものなのだろう。プログラムに配置された作品は、いずれもただ漫然と時間を埋めるのでなく、各々何かしらのかたちで連関し合って、時間経験の先導を切る。
そしてコンサートには人間の身体がある。共に音響体験を分かち合いつつ次第に疲労していく演奏者と聴衆との身体が。サブスクリプション・サービスにおけるセットリストには意図はあっても身体がない。自宅では、めいめい疲労する前に聞くのをやめて、それっきりだ。
さて、最初のガーシュウィン「アイ・ガット・リズム変奏曲」は、ミュージカル用小品をコンサートピースに発展させたもので、その成り立ちゆえのことか、なんともいえないどっちつかずな印象の作品。というのも、キラキラした大味なサウンドをぼんやり楽しみたい一方で、変奏の推移もとらえなくてはならない。ガーシュウィンの他のオーケストラ作品同様、ピアノソロが中心的な役割を担うが、ピアニストの技を楽しみたいなら正直に言って「ラプソディー・イン・ブルー」の方が佳曲である。演奏は、変奏の推移をきちんと耳で追える繊細で上品な仕上がりだった。しかしその技巧ゆえに、あっけらかんとした明るさ、あるいは消費文化的な奥行のなさといったものが、損なわれてしまう。こういう作品の弦はカスケーディング・ストリングスのようなものが理想なのだろうか。木管のソロに必要なものはなんであろう。もっとビッグバンドみたいに量で圧倒するサウンドの方が全体として相応しかった気もする。
映画音楽の大家、ミシェル・ルグランの晩年の大作「チェロ協奏曲」には驚嘆した。本当にあの《シェルブールの雨傘》の? ルグラン・ジャズの活動など、もっぱら商業方面の音楽として受容され続けてきた作曲家の、おそらく最後の仕事ともいえるこの作品のどこにも、彼の代表的な仕事を直接思わせるような音はない(彼の映画音楽をあますことなくフォローする人にはわかるのかもしれないけれども)。
第一楽章のはじめ、無表情で淡々と刻むオーケストラの縦割りの合奏の合間を、三連符で縫うチェロの独奏。シンプルで短い動機が着実に発展し、オーケストラとチェロの間で受け渡されていく。「自由な無調」期の諸々の作品のような、伸びやかさと不穏さ。そぞろにはじまるチェロとストリングスとの穏やかな合奏も、チェロの高音のビブラートにほんの一瞬甘さがあるだけで、それにすぐ次のなだれ込むような音型のかけ合いに入ってしまって、酔いしれる暇がない。
第二楽章は、チェロの「D-A-D-Fis-A-D-C-D」の音型が、音程を変えつつ繰り返し登場する。オーケストラの重苦しい伴奏は、ロシア音楽の緩徐楽章らしい叙情性を兼ね備えている。
第三楽章。ふいに《春の祭典》でも始まったのかと思うような変拍子。まもなく、チェロとピアノの洗練の極みとも言うべきデュオが始まる。そのまま、またオーケストラ全体の合奏に戻り、今度はこの作品において最も光あふれる時間が訪れる。チェロの歌唱は静かに下降していき、やがて終わる。
つまりは、20世紀前半の前衛音楽の成果が、こんなにも無駄のない手つきの主題労作でまとめられて、これが映画音楽とジャズの領域で名声を欲しいままにした作曲家の晩年なのかと思うと、しばらく考え込んでしまうようであった。職人芸と、作家性と、それから世間からの人気と。
実際、コンセルヴァトワール出身ならあれくらい当然のように書ける……そういうものかもしれない。もしそうだとして、職人芸を身に着けているにも関わらずそれに見合った音楽を書かない、としたら、そこにはどういう行動原理があるのだろうか。単に仕事の巡り合わせの問題?
自らの名前ではなく作品を後世に残したいと思ったとき、自らのトレードマークとなっている作家性を排することを作曲家は選択したのではなかろうか……というのは、私の何の根拠もないただの妄想である。
職人芸とは何であろう。これは必ずしも、自らの作家性と相手側からの要求との狭間で悩んだ、その悩みの記録ではあるまい。むしろ、相手の要求のうちに完全に消えること。
五十嵐琴未「櫻暁」は、弦楽器のアンサンブルを主体とした心地のよいアダージョ。これもまた職人芸である。ガーシュウィンともルグランともラヴェルとも違う。プログラム変更に伴い、急遽一ヶ月で作曲したとのこと。のびやかで素直な、実直なまでの祈り。祈りは作家性を消し去り、作品が人々の元に届く。西洋音楽がかつて担っていた宗教的な役割は、今日の状況にあって回復してきているのかもしれない。
音楽の役割。その祈るような性格。本来演奏されるはずのなかった《マ・メール・ロワ》も、コンサートホールにいる人々の元に慰むようにして舞い降りてきているけれど、それはいたずらっぽい可愛げと共に。
それに、ラヴェルの職人芸により、たくさんのお喋りが仕込まれているようだ。木管楽器たちは、人間たちにわからない言葉でささめきあっている。コントラファゴットのぼそぼそ声がユーモラス。チェレスタやハープのキラキラした音色で、聴衆はずっと夢の中に居続けることができるように思った。
一日も早く、日々の状況が好転しますよう――祈るような気持ちと共に会場を後にした。
(2020/10/15)
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<Artists>
Conductor: YAMADA Kazuki, Permanent Conductor
Violoncello: YOKOSAKA Gen
Piano: NUMASAWA Yoshito
<Program>
George GERSHWIN: ‘I Got Rhythm’ Variations
Michel LEGRAND: Concerto pour Violoncello (Japan Premiere)
*Encore
Pablo Casals: El Cant dels Ocells
IGARASHI Kotomi: “Ogyo” for Japan Philharmonic Orchestra (World Premiere)
Maurice RAVEL: Ballet Music “Ma Mère l’Oye”