特別企画|新型コロナウイルス感染症と日本の音楽文化―5―|戸ノ下達也
新型コロナウイルス感染症と日本の音楽文化 ―5―
Text by 戸ノ下達也(Tatsuya Tonoshita)
◆はじめに
本稿では、8月中旬から今月上旬に至る、新型コロナウイルス感染症と音楽文化の課題について、内閣を軸に音楽界の対応などを整理する。
現在の新型コロナウイルス感染症対策は、内閣官房に設置された「新型コロナウイルス感染症対策本部」(以下「対策本部」)が、令和2年5月25日変更として発表した「新型コロナウイルス感染症対策の基本的対処方針」(以下「基本対処方針」)が基本となっている。さらに新型コロナウイルス感染症対策分科会(以下「分科会」)の提言等や基本的対処方針に基づき、8月7日付けで都道府県知事に事務連絡された「今後の感染状況の変化に対応した対策の実施に関する指標及び目安について」(以下「対策の指標及び目安」)及び、8月24日付けで都道府県知事に事務連絡された「9月1日以降における催物の開催制限等について」(以下「催物の開催制限」)のほか、9月11日に分科会が発表した「今後のイベント開催制限のあり方について」(以下「イベント開催制限」)に基づいて実施されている。
この状況下の音楽文化を取り巻く現状を考えてみたい。
1.内閣(首相官邸・内閣官房)の対応
(1)安倍内閣の姿勢
安倍内閣総理大臣は、6月18日の記者会見以降、新型コロナウイルス感染症対応に関し、記者会見を行わず(広島と長崎の平和記念式後の記者会見は、あくまで恒例となっているものであり、新型コロナナウイルス感染症対策のために記者会見したわけではない)、ようやく開催された8月28日の記者会見で、持病の悪化を理由に辞任を表明した。第一次安倍内閣に続き、二度も責任を中途で放棄した。しかも、それまでの記者会見やメッセージで「文化の灯を絶やしてはならない」と述べているのにも関わらず、今後の対応方針には何ら言及されないままの退陣である。
文化政策から見た安倍内閣の新型コロナウイルス感染症対策が、いかに口先だけのその場しのぎの施策であるかは、この連載で明らかにしてきた通りである。しかも、国会は開催されることもなく、分科会こそ継続しているものの、安倍首相の辞任によって首相官邸や内閣官房に設置された政策会議や諮問機関は停止している。他の政治課題が山積し、また新型コロナウイルス感染症の影響により、国民生活や文化芸術活動の危機が切迫する状況が続いているにもかかわらず、何の責任を負うこともなく総理大臣が辞任するという政治の展開は、全く予断を許さない。
国会は開催されず安倍首相の辞任表明となっているが、内閣では、分科会において感染症対策が進行している。
8月24日開催の第7回分科会で文化芸術に関する事項として、AI等シミュレーション開発事業進捗報告と、イベント開催制限のあり方についてが、議事となった。
https://www.cas.go.jp/jp/seisaku/ful/corona7.pdf
スーパーコンピューター「富岳」による感染リスク評価は、既に「コンサートホール内近接飛沫感染リスク評価」のシミュレーションが、7月16日の第2回分科会で報告されている。今回の報告は、さらに試験事例の検証とマスク着用のシミュレーションなど、開発状況の進捗が報告されている。またイベント開催制限は、当初は9月1日以降、制限緩和を想定していたものを撤回し、従前の制限を9月末まで継続させることを決定した。
しかし、芸術文化の領域では、本稿で報告したとおり、既に実演家や実演団体、ホールが、自ら費用負担して、実演での検証実験を実施し、結果を公表している。本来ならば、補正予算は、このような芸術文化の早期活動再開と継続に向けた取組にこそ直ぐに支給や助成をすべきではないか。これを怠った内閣、特に文化庁の見識は、文化振興を軽視したものと糾弾せざるを得ないだろう。
今後は、AI等シミュレーション開発事業で得られた知見と、実演による実証結果を連携させ、より精度が高く、わかりやすい検証を文化芸術に関わる全ての方と共有し、有効な対策を講じることが課題であろう。
また、イベント開催制限は、分科会の提言を受けて、8月24日に前述の「開催制限等について」が事務連絡された。
https://corona.go.jp/news/pdf/jimurenraku_0824.pdf
その骨子は、
●屋内、屋外ともの5,000人以下
●上記参加人数に加え、屋内にあっては収容定員の半分程度以内の参加人数にすること、屋外にあっては人と人との距離を十分に確保できること(できるだけ2m)
の二点で、従前の方針を踏襲してそのまま制限を延長していた。
しかし、この決定は18日後の9月11日になって大幅に変更された。9月11日開催の第9回分科会では、前述の「イベント開催制限」が提言され、「徹底した感染防止対策の下で安全なイベント開催を日常化していく」ために、「業種別ガイドラインの見直しを前提に、必要な感染防止策が担保される場合には緩和することとし、当面11月末まで、以下の取り扱いとする方針」として、
●収容率要件については、感染リスクの少ないイベント(クラシック音楽コンサート等)については100%以内に緩和する。その他のイベント(ロックコンサート、スポーツイベント等)については50%以内とする。
●人数上限については、5000人を超え、収容人数の50%までの可とする。
とした緩和策を9月19日から実施することの可否を議事とし、同日、西村内閣府特命担当大臣が緩和を発表した。
https://www.cas.go.jp/jp/seisaku/ful/corona9.pdf
この「イベント開催制限」では、さらに「収容率及び人数上限の緩和を適用する場合の条件」「感染防止のチェックリスト」のほか、「各種イベントにおける大声での歓声・声援等がないことを前提としうる/想定されるものの例」「コンサート・演劇・スポーツイベント等の収容率目安」「展示会・お祭り・野外フェス等の収容率目安」「イベントの人数上限の目安」など、目安となる基準を細かく例示したことが特徴で、感染リスクや感染防止策についてもポイントを列挙した。
「このイベント開催制限」は、文化芸術の活動再開と継続の足がかりとなることは事実だろう。しかし、実演による検証ではなく、あくまで既に7月に公表されたスーパーコンピュータ―富岳のシミュレーション結果を知見としていること、人数上限の数値の根拠が明示されていないこと、「業種別ガイドライン」を開催の根拠とし、さらに各都道府県が個別のイベント開催について適切に判断することも付言して内閣の責任を回避していること、参加者把握のため、接触確認アプリ(COCOA)のダウンロード促進を明記していることなどの限界もある。
この段階での緩和策発表は、GoTo事業の実施や、来年に延期された東京オリンピック・パラリンピックと連動した多分に政治的な思惑が色濃いのではないか。いみじくも、この「イベント開催制限」は、「大声での歓声・声援等」の可否を最大の判断基準としているが、ならば、当初から「大声での歓声・声援等」と無縁の文化芸術ジャンルの当事者が、可及的速やかな活動再開の声を上げ続けていたにも関わらず放置し、9月11日になって突然緩和を発表という矛盾をどのように捉えたらよいのであろうか。
安倍内閣が、いかに場当たり的で、国民目線が欠如しているのか、この一ヵ月の推移を見ても明らかだろう。次の内閣がどのように文化芸術の感染症対策に取り組んでいくのか、今度こそ、私たちが注視しなければいけない。
2.内閣(文化庁)の対応
文化庁が所管する令和2年度補正予算の施策のうち、「文化施設の感染症対策事業(補助金)」(予算額20億8400万円)は、劇場・音楽堂だけで、採択数732件、採択総額12億1712万5千円で決定した。ちなみに博物館は、採択数647件、助成総額7億4912万円で、事業の総額は、19億6624万5000円である。また、「文化芸術収益力強化事業」(予算額50億円)は、8月31日に、応募件数71件、採択件数10件、採択総額57億2000万円で決定したことが発表されたが、この問題は後述する。
そして、現在進行中の案件は、以下の三事業である。
文化芸術活動への緊急総合支援パッケージと位置付けられた、実演家やスタッフ・実演団体助成である「文化芸術活動の継続支援事業」(予算額509億円)は、9月6日時点で、7月31日に締め切られた第一次募集申請件数が11,239件、8月28日締め切りの第二次募集申請件数が22,250件で、合計申請件数33,489件に対し、採択件数は、4981件(採択率14.9%)である。採択件数が増加傾向にあるものの、申請の複雑さや、度重なる募集案内の改訂など問題が指摘されていて、速やかに進めなければならない支援とてこの状況であり、後述する文化芸術推進フォーラムが当該事業の制度見直しを表明する事態となっている。当該事業は、現在、第三次募集中であり、最終的な応募件数と採択件数がどのような結果となるか、またその内実など、引き続き注視しなければいけない。
他の事業だが、「生徒やアマチュアを含む地域の文化芸術関係団体・芸術家によるアートキャラバン」(予算額13億1700万円)は、公益社団法人日本芸能実演家団体協議会に委託され、「ライブ・ライブ・フェスティバル」として、開催地募集が8月24日に締め切られている。また、「子どものための文化芸術体験の創出事業」(予算額13億200万円)は、株式会社近畿日本ツーリスト首都圏に事務委託し、9月3日で実施校募集を締め切っている。
しかし、「最先端技術を活用した文化施設の収益力強化事業」(予算額14億2000万円)は、いつの間にか「文化芸術収益力強化事業」に統合し縮小されていた。5月29日に文化庁ホームページで公表(ホームページ上では6月12日となっている)された「令和2年度補正予算案等における文化芸術関係者への支援(令和2年度第2次補正予算案閣議決定後)」では、「最先端技術を活用した文化施設の収益力強化事業」が独立した事業として「最先端技術鑑賞モデル構築事業」と「博物館異分野連携モデル構築事業」の二本立ての事業内容が発表され、支援として舞台芸術(5分野6事業)に7億2000万円、博物館(4分野5事業)に2億円、異分野連携の5億円(16事業)を支援と明記されていた。
https://www.bunka.go.jp/koho_hodo_oshirase/sonota_oshirase/pdf/20200709_01.pdf
しかし、文化庁ホームページで6月23日時点(pdf文書の日付は7月10日時点となっている)として公開された「新型コロナウイルス感染症に伴う文化芸術に関する各種支援のご案内」では、いつの間にか当該事業が「文化芸術収益力強化事業」に統合され、「1・2次補正64億円」と変更されていた。
https://www.bunka.go.jp/koho_hodo_oshirase/sonota_oshirase/pdf/202006231400_01.pdf
そして結局は、前記のとおり「文化芸術収益力強化事業」の採択予定件数だった10件しか採択決定されていない。「最先端技術鑑賞モデル構築事業」として補正予算で想定された趣旨や金額は、一体どうなっているのか。文化庁は、7月10日時点で変更した「文化芸術収益力強化事業」と「最先端技術鑑賞モデル構築事業」の合算64億円という記載が、実際には、両事業合わせて10件の57億2000万円の採択に止まっている。この点については、文化庁は何ら公式見解を明示していないし、メディアも全く報じていない。当初発表した、博物館の新しい鑑賞モデル導入や、博物館とエンタメコンテンツとの連携支援という骨子と目的を、国民に周知することなく勝手に、中・小規模な文化芸術団体支援を目的に設定した「文化芸術収益力強化事業」に包含させ、「最先端技術鑑賞モデル構築事業」ともども採択件数と予算額を減じて縮小させたことをどのように認識しているのか。文化庁はこの変更の理由と根拠をきちんと明示し、補正予算執行の項目と金額を、国民に説明すべきであろう。この現状が、文化芸術を所管している文化庁と内閣の姿勢である。
本連載で再三指摘している通り、文化庁の新型コロナウイルス感染症対策は、「子どものための文化芸術体験の創出事業」が「新型コロナウイルス感染症の影響により,中止せざるを得なかった文化芸術鑑賞・体験 教室等について,文化庁が支援することにより,子供たちが質の高い文化芸術に触れる機会を創出し,冷え込んだ文化芸術への関心を取り戻す」という停止となった活動への支援策であるが、それ以外の事業は、全て今後の活動支援であり、活動停止となった実演家・実演団体、スタッフに対する補償・補填ではない。また現在様々な団体や組織が取組んでいる、再開に向けた検証や試みに対する支援も、全く予算化されていないし、施策が打ち出されているわけでもない。この現実を見据え、文化芸術の活動が停滞することなく、また実演家・実演団体、スタッフが生活し活動継続が可能となる、持続可能性を追求していくべきではないか。令和2年度補正予算の適正な執行を、納税者である私たちが監視し、内閣が切り捨てている支援を、文化芸術の享受者である私たちが、主体的に進めていかなければと思えてならない。
3.音楽界の動き
8月中旬以降も、音楽界では、演奏会再開や新たな方向性の模索が継続している。
一般社団法人全日本合唱連盟が、8月23日に飛沫拡散検証実験を実施したほか、クラシック音楽公演運営推進協議会は、9月26~27日に「「#コロナ下の音楽文化を前に進めるプロジェクト」について~クラシック音楽演奏会・音楽活動を安心して実施できる環境づくり~」の第二弾として声楽・合唱の検証実験の実施を発表している。特に、声楽や複数の人声によるアンサンブルである合唱、オペラは、活動が制約され、劇場やホールのみならず、社会教育施設や学校教室の使用が制限されているほか、部活動にも深刻な影響を及ぼしている。検証実験がこの閉塞状況を打開する科学的根拠となることを、またこれらの知見に基づいて、劇場・ホール、社会教育施設を所管する企業・団体や地方公共団体が前向きに対応するよう強く促したい。
また、公益社団法人日本芸能実演家団体協議会は、9月1日に声明「「イベント等開催の制限緩和」及び「PCR等検査体制の拡充」を求めます」を、また同日には、文化芸術推進フォーラムが「「文化芸術活動の継続支援事業」改善についての要望」を発表し、全国会議員に配布して制度改善を要望した。この意見表明も、文化芸術に当事者の切実な声を代弁するものであり、音楽界が、活動再開と継続のための施策に自らの負担で向き合わなければならない現実を物語っている。
これら音楽界の懸命かつ必死の努力が続けられていることを、私たちも常に意識し、支援し、協調していかなければいけない。
◆おわりに
安倍首相の責任放棄で、次期首相の座の行く末ばかりが取りざたされている現在だが、文化芸術のみならず、医療体制、私たちの日常生活など、早急に取組み進めていくべき課題は山積している。新型コロナウイルス感染症対策は、待ったなしである。可及的速やかな支援策を講じ、活動再開と継続のための取組こそが、文化芸術の求めるものであることを、内閣や立法はどこまで真剣に考えているのか、今こそ、その真価を私たちが見定めなければいけない。
そして、引き続き、実演家、実演団体、スタッフといった文化芸術関係者の懸命の努力と願いを積極的に支援することが何よりも重要なのである。
(2020年9月14日脱稿)
(2020/9/15)
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戸ノ下達也(Tatsuya Tonoshita)
1963年東京都生まれ。立命館大学産業社会学部卒。洋楽文化史研究会会長・日本大学文理学部人文科学研究所研究員。研究課題は近現代日本の社会と音楽文化。著書に『「国民歌」を唱和した時代』(吉川弘文館、2010年)、『音楽を動員せよ』(青弓社、2008年)、編著書に『戦後の音楽文化』(青弓社、2016年)、『日本の吹奏楽史』(青弓社、2013年)、『日本の合唱史』(青弓社、2011年)、『総力戦と音楽文化』(青弓社、2008年)など。演奏会監修による「音」の再演にも注力している。第 5 回JASRAC音楽文化賞受賞。
7月29日に、㈱ハンナより、ヴィタリ・ユシュマノフとの共著『ヴィタリ~人生って不思議なものですね~ 日本の「うた」に魅せられたロシア人歌手』を刊行。