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Bach and Beyond 無伴奏ヴァイオリンの300年間|多田圭介

Bach and Beyond 無伴奏ヴァイオリンの300年間
Bach and Beyond, 300 Years on unaccompanied Violin

2020年8月26日 札幌コンサートホールKitara
2020/8/26 Sapporo Concert Hall Kitara
Reviewed by 多田圭介(Keisuke TADA)
写真提供:札幌コンサートホール

<演奏>
飯村真理(Vn.)        →foreign language
<曲目>
J.S.バッハ:無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ 第3番ホ長調 BWV1006
E.A.イザイ:無伴奏ヴァイオリンのためのソナタ 第2番 イ短調 Op.27-2
G.クルターク:無伴奏ヴァイオリンのための「サイン、ゲームとメッセージ」
L.ベリオ:セクエンツァⅧ
J.S.バッハ:無伴奏ヴァイオリンのためのソナタ 第3番 ハ長調 BWV1005

 

“Bach and Beyond 無伴奏ヴァイオリンの300年間”と題されたオール無伴奏のヴァイオリン・リサイタルを聴いた。演奏者は飯村真理。飯村は札響の副首席奏者を務めている。この”Bach and Beyond”というテーマは多義的に解されうる。まず、バッハの音楽が萌芽的に持つ本質がバッハ自身を超えてゆくとも読める。あるいは、バッハを踏み台として他の作曲家がバッハを超えてゆくとも読める。前者の場合、Bach とBeyondを結びつける「と(and)」になるのは「演奏」、後者の場合は、「プログラム」ということになろうか。

しかし、この”Beyond”という言葉はより本質的な問題を照らしているのではないか。それは、バッハを超え出る、「その先」であろう。飯村の意欲的なプログラムに敬意を表すためにもそこをスルーするわけにはいかない。

そもそも、私たちは音楽を聴いてなぜ感動するのか。その感動には普遍的な感動と個人的な感動があると思われる。前者の感動は原理主義的なもので、後者は文脈主義的。原理主義的なものはどんな人にも価値がある感動。文脈主義的な感動は相対的で個人的な経験に根ざした感動である。原理主義的な感動は、作品(や演奏者)の背景の歴史や事情を知らなくても誰もが心を動かされるような感動。ひとまずこのように言えよう。しかし、情報化社会の現在、クラシック音楽がもたらす「感動」について語るとき(ひいてはそもそも感動という現象について語るとき)、原理主義は旗色が悪い。なぜなら現代は、それまで普遍的と言われてきたものが本質的に文脈依存的であったことが露わになった時代だからだ。

あるものは西洋中心主義の産物であり、他のあるものはナショナリズムと結びついていたり。あるいは、ニューヨークのアートシーンの政治的な覇権を背景にしていたり、といった具合だ。20世紀の芸術史とは、国家やマスメディアがつくったデカい箱の空気に支えられた大きな文脈主義が可視化された時代だったとも言えるのだ。そして、他ならないクラシック音楽(そのなかでもバッハは特に)とは、高度に文脈主義的な文化現象である。宗教的背景、象徴化された作曲理論の蓄積。枚挙に暇がない。これはクラシック音楽という表現形式が本質的に持っている性質だと言える。

では、音楽において、(それどころかあらゆる文化ジャンルにおいて)原理主義的な感動とは「存在しない」のか。筆者は、それでも「存在する(はず)」と考えている。むしろ、21世紀の現在、この限界を突破することが、文化に係わるすべての人間が取り組むべき課題だとさえ言いたい。すなわち、Bach and Beyondの”Beyond”は、文脈主義の突破であり得るし、そうあるべきなのだ。飯村はその「と”and”」になり得るかどうか。Bach and Beyondというテーマからは、このような強固な意志(課題)を読み取りうる。

とかくクラシック音楽業界は、ただ関連作品を並べただけのプログラムでも「面白い」と称賛される傾向がある。しかし、例えばアイドル産業やアニメーション業界などのサブカルチャーの試みに意識を向けるべきだ。彼らは原理主義を自覚的に捨象し文脈主義を徹底する。そうしてその個人的な感動の発生確率を上げるという戦略(例えば秋元康のAKB)を採る。ここで着目すべきは、そうすることで、かえって失われた原理主義へと人々を誘う道が開けることだ。これはこの分野のプロパーに上記のような高度な文化理解があればこそのことだ。

クラシック音楽の催しを企画する立場にある者で、どれだけの人がこうした文化理解を持っているだろうか。相当に厳しい現状にあると言わざるを得ない。頭が痛い。そこには「クラシック音楽のもたらす感動こそが普遍的なものだ」という拭い難い思い上がりがあるからではないか。しかも、その思い上がりの論拠は、たいていの場合「歴史の審判を経た」以上のものではない。その歴史の審判こそが所詮はデカい箱の空気に支えられた大きな文脈主義である可能性など一顧だにされないままに、だ。

そもそも、ただ「感動した!」だけなら、薬や注射でもいい。文化である必要はない。私たちは、なぜ、どこへ向けて心を動かされるのか。それを、知性を尽くして考えるところに文化の価値があるというものだろう。

前置きが長くなった。しかし、こうしたテーマ性を読み取り得るプログラムのコンサートは札幌では珍しい。それだけでもこのリサイタルには価値があるし、その可能性は記録に残されるべきだろう。

さて、当日のプログラムに移ろう。1曲目は、バッハのパルティータ第3番BWV1006。続いて曲頭でBWV1006の冒頭モチーフが引用されるイザイの第2番Op.27-2。バッハから始まり、2曲目でその幻影を超え出ようとする作品。いい曲順だと感じた。イザイの第1曲”Obsession”は「執念」あるいは「幻影」と訳されるのが常であるが、飯村はプログラムノートで「妄執」と訳した。これもいい訳だ。イザイがバッハに燃やした「執念」が乗り越えるべき「幻影」でもあるという意味合いを一語で表現している。イザイによる自己批評的ニュアンスが強くなる。

飯村の演奏は、澄んだ響きを生かした清潔な音楽に特徴がある。そして、かつてのオーケストラ奏者に多くみられた左手のヴィブラートに頼り切った単調な表現から脱しようとしている。右手で多様な表情を創ろうという意志が感じられる。もっと洗練されれば、風に小枝が揺れるような自然が鳴るような響き(例えばイヴラギモヴァのような)も表出できるようになるのではないか。

イザイでは、バッハの引用の次に壮烈なアルペジオを伴う「怒りの日」の引用が続く。バッハが歪められてゆくような楽章である。飯村はインテンポで一気に弾き切り、楽章最後に再び登場する「怒りの日」でガクッとルバートした。効果的だ。第2楽章でも楽章最後のやはり「怒りの日」が地べたを這う。第3楽章ではホッと一息つくようなピッツィカートと澄み切ったハーモニクスが印象に残る。アタッカで終楽章へ。後半の2楽章は(この日の演奏全体に言えることだが)速めのテンポで音楽的にも一本調子になりがちでもあった。フィナーレの嬰ハ短調になる中間部などは空気が入れ替わるような音楽を期待したい。熱風が吹きつけるようなジプシー風の音楽の挿入(イザイはサラサーテを意識している)が欲しい。

続いて、冒頭に「J.S.B.へのオマージュ」が配されたクルタークの「サイン、ゲームとメッセージ」。幻影から自由になり融通無碍に、しかも極限まで切り詰められた素材で親密な音楽が奏でられた。

休憩を挟み、後半はベリオのセクエンツァⅧ。バッハのパルティータへのオマージュとして書かれた作品である。演奏としてはこれが最も充実していた。素材を上昇・下降しつつ彷徨する半音階の移高型が持つ、セリーとはまた角度を異にする秩序性が見事な職人芸に響いた。ただ、この作品は名職人が書いたヴァイオリンの技巧博覧会的な要素が強い。それだけに、高度な文脈性を強化するように聴こえたのも確かだ。

最後はバッハのソナタ第3番BWV1005。愉悦的なパルティータ第3番から出発し、厳格なソナタ第3番に着地した格好だ。直接的なバッハの引用を含む作品やバッハへのオマージュ作品が並んだ。それゆえに、コンサート全体の印象としては”Bach and Beyond”というよりは、”Bach,and around him”といった雰囲気が強くなった。”Beyond”という言葉は、「隣接する」というよりは「本質的に超え出る」(例えば、「山を超えた向こう側」や「あの世」)のように)、という意味合いが強いからだ。バッハが持つ文脈性をぐるっと一周した形だが、それだけに、最後のソナタ第3番には、バッハの様式性をより強く求めたくもなった。

例えば、Adagio冒頭。この箇所の付点はバッハの時代の慣習を考慮し複付点ぎみの音価で演奏されるのが常であるが、飯村は明確な付点であった。これはどのような解釈か。続くフーガはバッハとしても最大規模のフーガ。対位法の王の面目躍如たる楽章。この楽章では、例えば、4小節目からの下声部は譜面上の音価は2分であるが、これは短めに(ときにはっきりと4分で)弾くことによって主題及びそれと並行する半音階進行(下声部)の双方の明確化が図られる。がここも現代人の常識での「譜面通り」だった。当時の様式や書法を考慮せずあくまで現代人の眼で楽譜を読んでいるように感じられた。飯村はモダン楽器の奏者なので、学術的な要素には入りこまず、現代人のバッハを鳴らしたのかもしれない。が、最後の着地点に厳格なBWV1005を選んだのであればその秩序性を大切にするほうがよいのではないかと感じた。ここは飯村に意見を訊いてみたい。実は1曲目のパルティータ第3番も含めると同様に気になった箇所は数十か所に上った。

終演後、ベリオの後に彼のセクエンツァの書法をさらに自在に展開したファーニホウが続いたらどうだっただろうかなどと想像させられた。「無伴奏ヴァイオリンの300年間」をバッハに戻る円環的な完結としてではなく未来へ向けて開いてゆくきっかけになったのではないか。想像が尽きない。これは飯村が組んだプログラムの面白さゆえだろう。

とはいえ、無伴奏のみによる長大なプログラムを一人のオーケストラ奏者が弾き切ったことには素直に頭が下がる。どれほどのプレッシャーだったことだろうか。これからもソリストとしても札幌のファンの耳、心、そして知性を刺激するような活動を続けてほしい。飯村は舞台姿に華があるし、特に休憩後は音に自信が出てきて風格も感じた。地方での啓蒙的な活動は難しい面もあると思うが、優れたパーソナリティを生かして問題意識を広めることにも挑戦し続けてほしい。もちろん客席の一人一人や企画サイドにも多くを望みたい。飯村の今後の札幌での活動に注目し続けたいし応援したいと感じるコンサートだった。

                           (2020/9/15)

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多田圭介( Keisuke Tada)

北海道大学大学院博士後期課程修了。博士(文学)。専門は、哲学・倫理学、音楽評論。評論の分野では、新聞や雑誌等に定期的に音楽評やコラムを寄稿するほか、市民向けのクラシック音楽の講座等も担当している。また、2018年に札幌地区のクラシック音楽&舞台芸術の専門批評誌「さっぽろ劇場ジャーナル」を立ち上げ、執筆と編集の責任者を務めている。現在は藤女子大学講師、ミュージック・ペンクラブ・ジャパン会員、さっぽろ劇場ジャーナル編集長。

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<Performer>
Violin: Mari IIMURA
<Program>
J.S.Bach: Partita for solo violin No.3 in E major, BWV1006
E.A.Ysaÿe: Sonata for solo violin No.2 in A minor, Op.27
G.Kurtag: Signs, Games & Messages
L.Berio:Sequenza VIII
J.S.Bach: Sonata for solo violin No 3 in C major,