注目の一枚|松平頼曉 声楽作品集|西村紗知
text by 西村紗知(Sachi Nishimura)
ALM RECORDS
ALCD-125 税抜価格2,800円
2020/07/07発売
JAN 4530835 113058
<曲目・演奏> →foreign language
松平頼暁(1931-):
[1] アーロンのための悲歌 (1974)
太田真紀(ソプラノ)
詞:アルノルト・シェーンベルク《モーゼとアロン》第3幕のための詩を再構成
歌う木の下で(2012, 19)
[2] すべての猫族がいう
[3] 衣
[4] 青いスピノザ
[5] 球
[6] 信州の泉
太田真紀(ソプラノ) 溝入敬三(コントラバス)
詩:宇佐見英治
[7] ローテーション Ⅱ (2011)
太田真紀(ソプラノ) 白井奈緒美(サクソフォーン)
詞:よみびとしらず 訳詞:猿田長春、他
時の声 (2013)
[8] I.
[9] II.
太田真紀(ソプラノ) 山田岳(エレクトリック・ギター)
詩:松井茂
[10] サブスティテューション (1972)
太田真紀(ソプラノ) 中村和枝(ピアノ)
詞:松平頼曉
反射係数 (1979, 80)
[11] ヘテロフォニー
[12] レシタティヴ
[13] ラオダテ
[14] ナジョー
[15] アンティフォニー
太田真紀(ソプラノ) 甲斐史子(ヴィオラ) 中村和枝(ピアノ)
詩:皆川達夫編《洋楽事始》/松平頼曉編
<録音>
三鷹市芸術文化センター 2019年10月11, 23日
このCD、すべて音が透き通って聞こえる。
透き通った音の向こうにシステムがたちあらわれている。それはなにか音を動かす観念的な存在で、これ自体では目にも見えず聞こえもしないけれど(人によってはそれを概念や数と名指すかもしれない)、音を足掛かりにしてここまで降りてきている。そして透き通った音たちは、聴取者の身体の奧に入っていかず、どこへ消えていくのか私は知らない。
そのシステムは音楽から、圧倒的に外部にある。これは月並みな意味でのコンセプトとも方法論とも違う。というのも、コンセプトや方法論は実のところ作家の手垢にまみれていて――シェーンベルクの十二音技法にしてもどれだけ彼の恣意性と共犯関係にあったか知れない――、もっと言えば作家と作品の間をつなぐ臍の緒のようなものだ。作家と作品、母子の関係。これに対しシステムは、作家と作品との間に父子の関係を成立させるようなもの。確かに、このCDに収録された作品はどれも、作家独自の様式が感じ取られるものだろう。だからやはり作家と作品は他人同士ではなく親子だ。だが恣意性や感覚で、子に云々しようとしないのであるから……父子の関係。もちろん、細かく検討していけば、シェーンベルクの作品にあるようなある種の言動不一致が見つかることだってあるかもしれない。ただそういうことがあるかどうかが問題なのではなくて、このCDを聞いていて、なんとなしに作家と作品の血縁関係めいたものについて触れておきたくなっただけだ……。
実際の役割に重複するところがあろうと、このシステムは形式とも違う概念だろう。音楽の形式は実のところ動的なもので、内容といつだって緊張関係にある。形式について考えていたら、それは誰か他の人にとっては内容だった、ということやら、かつて内容だったものが時代を経て形式となり、今やその経緯を誰も覚えていない、等。音楽の内容は、音楽全体が喚起するところの感情や、題材や、素材ともまた位相の違う概念である……とかく、音楽の内容と形式についての議論はずいぶんなされてきたものだが、これに対しシステムは、内容や形式をさらに外側から包み込むような存在。そんな気がする。
実際に鳴り響く音楽、構成音の一つ一つは、システムという存在により自分たちが生まれ出てきていることすら知らないだろう。
そして、こんなことは、本当の孤独だと思った。
・[1]アーロンのための悲歌
遠吠えのような歌唱から始まる、《モーゼとアロン》未完の第3幕の再構成。言葉の反復の残響が心地よく、ドラマティック。このCDの中で一番演奏会で見てみたいものと思った。
・[2]~[6]歌う木の下で
コントラバスの深い呻くような長音の上に、一音一音テヌートのかかった、語るような歌の旋律が乗せられている。コントラバスは適宜ピチカートも鳴らし、打楽器的な奏法によっても音を添える。
・[7] ローテーション Ⅱ
猿田長春訳詞のテクスト「ゐないをとこ」による。特殊な歌唱、叫びを含む断片が唐突に挿入され、不条理な趣。「ゐないをとこ」は「常に我等と共にあり」と歌われる、そのテクストの内容そのままに不条理な音響である。
・[8]~[9]時の声
オノマトペを発する歌唱と、オノマトペを模倣するようなエレキギターとのアンサンブル。あまり両者は対話するようでない。各々がどこか別の世界線に存在するような。
・[10] サブスティテューション
それぞれかなり癖の強いテクストによる断片が、順に演奏される。言葉は、単語のかたちを保つもの、子音の連なりのもの、オノマトペのようなもの、といったように状態がそれぞれである。単語の位置をばらばらにしたり、文章と音楽の雰囲気があべこべになるように「おきかわり」が導入され、言葉と音楽が換骨奪胎されている。
・[11]~ [15]反射係数
隠れキリシタンのオラショが素材で、打楽器的効果のために、ピアノにはゴムやスクリューによるプリパレーションが施され、ヴィオラも胴体を叩いて演奏される。「ラオダテ」以降、原曲のグレゴリオ聖歌も素材として用いられる。オラショとグレゴリオ聖歌は、前者が後者から生まれ出てきたもののはずなのに、初対面。かといって感動的な曲調にはせず、両者の差異が静かにぶつかりあっている。
……誰か私に教えてください。私がこのCDから聞いた音は、一体どこへ消えて行ってしまうのでしょう。
(2020/8/15)
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<Tracklist>
Yori-Aki Matsudaira(1931-):
[1] Elegie für Aron (1974)
Maki Ota (soprano)
Text: a reworking of Act III of Arnold Schönberg’s Moses und Aron
Under the Singing Tree (2012, 19)
[2] Subete-no Nekozoku-ga iu
[3] Kinu
[4] Aoi Spinoza
[5] Kyū
[6] Shinshū-no Izumi
Maki Ota (soprano) Keizo Mizoiri (contrabass)
Words: Eiji Usami
[7] Rotation Ⅱ (2011)
Maki Ota (soprano) Naomi Shirai (saxophone)
Text: Anonymous Translation: Nagaharu Saruta, etc.
The Voice of Time (2013)
[8] I.
[9] II.
Maki Ota (soprano) Gaku Yamada (electric guitar)
Words: Shigeru Matsui
[10]Substitution (1972)
Maki Ota (soprano) Kazue Nakamura (piano)
Words: Yori-Aki Matsudaira
Albedo (1979, 80)
[11] Heterophony
[12] Recitative
[13] Laodate
[14] Najô
[15] Antiphony
Maki Ota (soprano) Fumiko Kai (viola) Kazue Nakamura (piano)
Words: Tatsuo Minagawa (compilation), ‘MANUALE AD SACRAMENTA’ ORATIO CHRISTIANORUM OCCULTORUM / Yori-Aki Matsudaira (compilation)
Recording Location: Mitaka City Arts Center, 11, 23 October 2019