特別寄稿|私のフランス、私の音|(7)発見の旅|金子陽子
(7) 発見の旅
Voyages insolites
Text & Photos by 金子陽子( Yoko Kaneko)
<旅と休暇>
可愛い子には旅をさせよ、という。親元を離れ、異境で朝を迎える旅の体験は思春期の心に深く刻まれる。
『旅』が働く人々の余暇の楽しみとして定着したのは年次有給休暇制度が確立された20世紀前半のことだそうだ。ドイツは1905年、オーストリア・ハンガリー帝国が1910年、スカンジナビア諸国では1920年から、1930年からはチェコ、ポーランド、ルクサンブール、ギリシャ、ルーマニア、スペイン、ポルトガルで、1936年にはフランスとベルギーで有給休暇が法制化された。1982年以来フランスでの有給休暇の期間は年に5週間となった。日本では第2次大戦後1947年に年次有給休暇制度が導入されている。
<インドネシアのメシアン>
かなり前のこと、若かった私は、計24時間もかけてフランスから飛行機を乗り継いでインドネシアのバリ島を訪れた。ヨーロッパ人に人気の観光地としてはすでにタイが注目されていたが、バリ島は更に遠方で、私にとって長い歴史と神秘に包まれた地であった。旅行に先だって予防注射をしたり、黄熱病予防の苦い粉薬を幼い娘の哺乳瓶に溶かして毎朝飲ませるのは面倒なことではあったが、このような体験は若いときにしておかないと、という気持ちがあった。クリスマス休暇だった。
初めての南半球で南十字星を見ることも夢であったし(結局見なかったが)比較的観光地化していない地域の浜辺に宿を確保した。
バリ島が、古来の宗教に基づいた、大変に高度な技術を要するガムラン音楽という民族音楽や舞踊などの伝統を継承し続けていることは勿論耳にしていたので、アジア人としても気にかかるところであった。長旅を経て、時差、そして真冬のパリから真夏の南半球という『季節差』も重なって頭がクラクラとした状態で熱帯の樹木が美しい浜辺に散歩に出た。そこで私の耳に入ってきたのは、全く予期していなかった『メシアンの音楽』だった。人生最大の長旅をして、クリスマスにインドネシアにたどりついた途端にメシアンが聞こえるとは何と言う驚きであろう。実はそれは、パリ音楽院で師事したイヴォンヌ・ロリオ女史のクラスのクラスメート達が夫である大作曲家メシアンの、それは沢山のピアノ独奏作品を勉強し演奏会で取り上げていたことから自然と私の耳に入り、譜面も購入していたピアノ独奏曲集『鳥のカタログ』の一節だった。
鳥類学も大変熱心に学んだというメシアンと夫人は往年、フランスだけでなく、ニューカレドニア、イスラエル、日本など、世界の森にカセットデッキ(録音機)持参で訪れ、様々な鳥の鳴き声を大変苦心して音として書き取り、幾つかの作品の中に取り入れている。私の耳に入ってきたのはピアノ独奏曲として発表した『鳥のカタログ』に登場していた鳥が(残念ながらどの鳥だったのか思い出せないのだが)バリ島の熱帯林で『実物』としていつものように披露していたさえずりであった。
異国で鳥のさえずりを聴いて私がメシアンだ!と反応した、ということは、メシアンが夫人と採取して書き上げた譜面がこの上なくオリジナルに忠実だったということだが、逆に言うと、インドネシアの鳥達が、知らぬ間にメシアンの音楽の一部として世界に、少なくとも私が在籍したパリ音楽院のクラスに知れ渡っていたということになる。
芸術は、自然や人間の営みを永遠の物として形づけ、後世に残す役割を持つが、そのルーツは時に意外な場所に存在する。とにかく思いがけない旅の始まりとなった。
私が師としてパリ音楽院でご退官までの2年間レッスンを受けたロリオ夫人の才気と色彩と楽観に満ちたメシアン作品の演奏スタイルは、その完璧なテクニックと共に誰も真似のできない素敵なものだった。昨今は演奏会で聴かれることが少ない難曲でもyoutubeにアップロードされて聴き比べる事ができ、このコラムを書くにあたって久しぶりに拝聴した。女史の演奏は難解な音の配列を決して機械的でなく、それぞれの鳥達のエスプリと同化して、鳥達の性格やご機嫌までも見事に表現している。そして、レッスンで交わした様々な会話や、当時のパリ音楽院のレッスン室の鍵付きの棚にいつも絶やさず保管されていた生徒達への『おやつ』の味の記憶までもが私の内に甦った。
<セーヌの朝霧と印象派絵画>
次の発見があったのは、パリとノルマンディ地方の中間点にあるヴェトイユ村で、丘陵の上からセーヌ河を見下ろす、室内楽の恩師の歴史のある邸宅に泊らせていただいた朝だった。
2月号『偉大な室内楽』で取り上げた、フランスの名画『田舎の日曜日』のロケにも使われたというヴェトイユ村付近は、セーヌ河がヴェクサン地方とノルマンディ地方にまたがって、石灰石の山肌をあらわにする丘陵の狭間をル・アーブル湾を目指して緑豊かな中州を型取りながらゆっくりと蛇行していく。ヴェトイユ村から河沿いに下流に車で30分程向かうと、『印象派』の画家モネの家で有名なジヴェルニー村がある。
『印象派』という言葉は、セーヌ河が大西洋と出会うル・アーブル港の、『工業地帯』としての港の風景を描いたモネの絵画『印象・日の出』が、フランスアカデミーの保守的な批評家にこき落とされたというエピソードに由来している。
晩年にモネが住んだジヴェルニーのアトリエの見事な庭園の池には初々しい睡蓮の花が浮かび「日本風の橋」と呼ばれる太鼓橋が水面に映る。庭園の薔薇のアーケードと共にこれらの風景は大小数知れない作品となって文字通り世界中の美術館に収められている。
サンクトペテルスブルグのエルミタージュ美術館のフランス『印象派』絵画のコレクションは、その量と質の高さでは圧巻だが、それはロシア人の画商、収集家、モロゾフ兄弟が、当時のフランスの若い画家達の才能を見抜いて膨大な数の作品を買い取ったお陰である。
ヴェトイユ村の邸宅の朝の静寂の中で目覚めた私は、バルコニーの開き窓越しに界下に流れるセーヌ河を眺めてみた。が、河は見えなかった。窓の外は『下界』から昇ってくる深い霧に覆われ、雲中の幻想世界と化していた。全く想像していなかった朝の外界の様相に私は驚いた。朝霧は川の水温よりも大気の温度が夜間に冷えた時に発生するというが、地元の人によると、この地方では秋に頻繁に見られるという話だった。
壁の大きな柱時計が時を刻むに連れ、遥かな空から届く陽光によって霧は次第に拡散し、太陽が子午線にかかる頃には、遠くを穏やかに進む貨物船が生み出す水面のうねりに、緑の森の河岸と白い雲が映え、何事もなかったかのようにくっきりとした現実の世界が眼下に戻ってくる。
モネの多くの作品に見られる、もやのような印象を与える色の絶妙なニュアンスと光の彩は『印象派絵画』を構成する主要な要素の一つだが、それはセーヌ河上でつかの間に繰り広げられる朝霧という自然現象とそこに居を構えたモネのコラボレーションに因るものだったということが、現地の朝を体験したことで解ったのだ。そして更に、混沌とした霧の世界が消滅するまでの時間も共有し、自然の神々しさを感じさせられた。
パリのオルセー美術館の上階部には、モネによる、ルーアンの大聖堂の連作が展示されている。ほぼ同じ構図を、(1)早朝・白のハーモニー、(2)午前の陽光・青いハーモニー、(3)晴天・青と金のハーモニー、(4)曇り、(5)褐色のハーモニー、と違った色彩で描いた5枚の油絵が並べて壁にかけられているのはなかなか見応えがある。一枚だけでも勿論素晴らしいが、5枚の色彩のヴァリエーションと表現の違いを比べることは興味深い。絵の具と筆の使い方次第で、大気の温度と湿度、冷たく湿ったり、陽射しで暑くなった教会の石の壁の感触や、色彩が変容していく『時間』もがそれぞれの作品に表現されているように見える。ここでの時間とは太陽が移動し地球が自転するリズムであり、5枚を通して人間と地球の一日の営みが伝わって来るようにも感じられる。
<ガムラン音楽、ドビッシーとジャポニズム>
メシアンの鳥達もいるバリ島で古くから演奏されているガムラン音楽は視覚的にも聴覚的にも圧巻だった。色彩豊かな響きを持つ様々な民族楽器オーケストラの演奏家達が、大変に複雑なリズムを指揮者なしの合奏で、譜面なしで見事な集中力でピタリと演奏する有様に私は眼を見張り息を呑んで聴き入っていた。
日本が明治維新、開国、近代化の道にようやく歩みだした同じ頃、ヨーロッパでは1851年のロンドンを皮切りに万国博覧会が開催され、明治改元前の1867年以来、日本も参加して和の文化を世界に発信し始めた。エッフェル塔が建てられた1889年のパリの万国博覧会の折りには、当時オランダ領だったジャワ島のガムラン音楽と舞踊が紹介され、感銘を受けた当時26歳のドビッシーは、ピアノ曲『版画』の中にその響きを引用している。又、パリ郊外サン・ジェルマン・アン・レイのドビッシー博物館で保管されている、鯉を描いた漆絵は、ピアノのための『映像第2集』の『金色の魚』のインスピレーションをドビッシーに与え、荒れる海から遠くの富士山を描いた葛飾北斎の浮世絵はドビッシーの交響詩『海』誕生のルーツともなった。『印象派の画家』モネは日本の浮世絵の熱心な収集家で、ジヴェルニーの家の壁には所狭しと飾られている。
ヨーロッパの音楽や絵画のインスピレーションのル−ツがアジアに、特に『ジャポニズム』が流行していたこともあって『日本』にあることが多いということは、驚きであり、日本人としてとても光栄なことだ。文化芸術においては、世界は戦わずに、幸いにもこのように刺激、交流し合ってきたのだ。
日本文化の発信は今日も続いている。日本の美しい景色が、世界に誇る日本のアニメーション芸術のお陰で、私達日本人が知らない間に世界中に知られているという心暖まる『発見の旅』を体験したのは一昨年の春のことだった。
東京を皮切りに全国での公演をご一緒した敬愛するフランス人音楽家達と、チェロ、ヴァイオリン、そしてアルペジョーネという珍しい楽器をも抱えて、後半の公演があった鳥取県の米子市から最後の公演地西宮市まで、JR山陰線で移動した。乗客が少なく、車内販売も一切ないローカルな昔懐かしい雰囲気の車内だった。窓の外には眩しい緑に溢れた入り組んだ山々と蛇行する谷川の光景がまるで映画のように果てしなく続く。景色に見とれていた2人が、「この景色はまるでミヤザキ(スタジオジブリ)のアニメーションのようだ!」と感動した様子でつぶやいた。多くのフランス人達と同じく、2人とも家族ぐるみでスタジオジブリの映画の大ファンである。日本の景色が「ミヤザキ」のアニメーションを真似したのでなく、今見えるこの(日本の)景色こそが『実物』なので、インドネシアの『メシアンの鳥』体験を思い出して可笑しくなった。この演奏旅行での沢山の素晴らしい出会いと共に、この山陰の大自然の中の移動体験は私達の記憶に深く刻まれた。
メーテルリンクの童話『青い鳥』は、チルチルとミチルが世界を探したあげく、幸せの青い鳥は実は自分のすぐ近くにいることに気がついたという結末となる。旅をする、外の世界を知ることは、最終的には自分への回帰となる。
メーテルリンクが聴いた幸せの青い鳥のさえずりは、一体どのような響きであったのだろう?
(2020/7/15)
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金子陽子(Yoko Kaneko)
桐朋学園大学音楽科在学中にフランス政府給費留学生として渡仏、パリ国立高等音楽院ピアノ科、室内楽科共にプルミエプリ(1等賞)で卒業。第3課程(大学院)室内楽科首席合格と同時に同学院弦楽科伴奏教員に任命されて永年後進の育成に携わってきた他、ソリスト、フォルテピアノ奏者として、ガブリエル・ピアノ四重奏団の創設メンバーとして活動。又、諏訪内晶子、クリストフ・コワン、レジス・パスキエ、ジョス・ファン・インマーゼルなど世界最高峰の演奏家とのデュオのパートナーとして演奏活動。CD録音も数多く、新アカデミー賞(仏)、ル・モンド音楽誌ショック賞(仏)、レコード芸術特選(日本)、グラモフォン誌エディターズ・チョイス(英)などを受賞。
洗足学園音楽大学大学院、ラ・ロッシュギュイヨン(仏)マスタークラスなどで室内楽特別レッスンをしている。
これまでに大島久子、高柳朗子、徳丸聡子、イヴォンヌ・ロリオ、ジェルメーヌ・ムニエ、ミッシェル・ベロフの各氏にピアノを、ジャン・ユボー、ジャン・ムイエール、ジョルジュ・クルターク、メナへム・プレスラーの各氏に室内楽を、ジョス・ファン・インマーゼル氏にフォルテピアノを師事。
2020年1月にはフォルテピアノによる『シューベルト即興曲全集、楽興の時』のCDをリリース。パリ在住。
https://yokokaneko.wordpress.com/