緊急特別企画|新型コロナウィルスで考える ~人は、人と会うこと抜きには、生きていけない。|小石かつら
新型コロナウィルスで考える
人は、人と会うこと抜きには、生きていけない。
Think with COVID-19
Text by 小石かつら(Katsura Koishi)
私はここに、対価無しで原稿を書いている。
非常事態だからだ。
「コロナで」だからではない。書き始めた時から変わらない。
音楽を取り巻く状況は、ずっと前から、つまりコロナ以前から、非常事態なのだ。
音楽という行為は、時間と共にある。
だから、その時間が過ぎると、消えて無くなってしまう。
そのあとは、記憶に生きる。
この記憶を共有するやり方のひとつが、文字で残される批評だろう。
既存メディアの批評欄は大変小さく、ほとんどその機能を果たしていないのが現実である。
文字としての批評は、対話の糧となる。
そう。私は、音楽という行為の大きな要素は、対話にあると信じている。
作曲家が音を紡ぐ。演奏家は、楽譜をとおして作曲家と対峙する。演奏するときには、自分自身と向き合いながら、聴衆とも音楽で対話する。重ねられるのは、対話の綾だ。批評は、それらを記録しながら、文脈のなかで再提示する。そうして、多層な「場」が連なる。
「音楽する」というのは、こうした一連の行為ぜんたい。
だから、音楽という行為に、批評は不可欠なのである。
演奏会という「場」は、ここ数十年で本当に増えた。けれども「批評の場」は増えない。
と、「批評の場」が無いことを憂えるより、書くことで「批評の場」の存在意義を提示したい。
それが、私が対価無しに書くことの理由だ。
ボランティアとは、まったくもって「美しい」行為ではない。
経済活動を基礎に置く社会にあって、本来、対価が必要なものが無償で提供されてしまったら、人はその価値を、「無償程度のもの」と錯覚してしまう。批評にかかわらず、ボランティアとは、この危険性と紙一重なのだ。
そんな危険な非常事態であったからこそ、今回の「より強い非常事態」がやってきた時、全ては脆く崩れた。
芸術は社会の追加的な存在、デザートに過ぎないという認識が、みごとなまでに露呈する。
「無くても困らない」からという理由で、あっという間にカットされた。
(しかもどうやら、教育についても、同じように考えられているらしい。)
むろん、芸術の価値はお金では計れない。(教育も、同様だ。)
では何故「無くても困らない」ものだったのか。
私にとって、答えは明確だ。
我々にとっての音楽が、対話ではなかったからだ。
受け身でしかなかったからだ。消費でしかなかったからだ。
芸術と我々は、「対等」に「対話する」存在ではなかったのだ。
その状況は、非常事態だったのだ。
人は、人と会うこと抜きには、生きていけない。
音楽は、「人」と会うことで成立する芸術だ。
「場」が必要な芸術だ。
ネット配信は、音楽のごく一部を伝えるものでしかない。
電話、ラジオ、レコードにCD、映画にテレビにインターネット。
我々は機器によって生活の在り方、芸術の享受の仕方を変えてきた。
敢えて書くまでもなく、それらはすべて、代替でしかない。
事実のごく一部、それも、「恣意的に切り取られた」一部でしかない。
受け身でしかない。
コロナは、政治の在り方、勤労状況、学校教育、文化状況、生活実態など、人を取り巻くすべてについて、その本質(と、その隠されてきた問題)を露呈させていく。
そしてコロナは、何が正解かもわからない不安に乗じて、あらゆることを「コロナ色」に染めていく。
「命が大事」という、とてもわかりやすい言葉で、「大事な命」を天秤にかけさせる。
「命が大事」は、あたりまえだ。
「感染をひろげてはいけない」のは当然だ。
しかし、ところで、迎合して切り捨てたものは切り捨ててよかったのか。天秤にかけてもよいほどのものだったのか。「この状況」に慣れていてよいのか。
音楽という行為は時間と共にある。時間は、人生そのものである。
人は、人と会わなければならない。自分の内なる人という存在も含めて。
(2020年4月12日筆) (2020/4/15)