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評論(連載3)|強制収容所の音楽—アウシュヴィッツのオーケストラ—|藤井稲

強制収容所の音楽—アウシュヴィッツのオーケストラ—
Musik im KZ: Die Häftlingsorchester im nationalsozialistischen Konzentrations- und Vernichtungslager Auschwitz-Birkenau

Text & Photos by 藤井稲(Ina Fujii)

2.アウシュヴィッツ・ビルケナウ強制収容所の囚人オーケストラ

「ドイツは無駄が多くて居心地がいいですね」。
わたしがベルリンに留学中、短期でドイツに来ていた日本人学生がこう言っていたのを覚えている。その人は歴史を専攻していて、いろいろな思いがこの言葉に集約されているように思った。ドイツが莫大な予算を使って各地のナチス強制収容所を記念館として残していることは、日本にとっては「無駄」に映る典型的なものではないかと思う。
小学4年生のときに私がドイツで通っていた小学校は、毎日お昼で終わり。授業の合間の休み時間はたっぷりとあり、お菓子を持ってきて食べてもよかった。勉強についていけないクラスメイトがもう一年同じ学年を繰り返していたことにはびっくりしたものだ。自由な雰囲気のドイツの学校生活を経験したわたしは、日本の中学校に行きはじめ、まず規則の多さと将来のための見えない制約やノルマが張りめぐらされた空気に閉塞感をおぼえた。前髪、スカート、靴下の長さまで決められ、体罰が黙認されてもいた時代。一緒にすることはできないが、中学生だったわたしにとってドイツで見た強制収容所が、どこか日本の学校と重なっているように思えた。
強制収容所(以下KZと記載)の中で音楽活動があった。そして、その活動は極限状況下とは思えないくらい多岐にわたり、人々の生きる希望となり糧となった。しかし一方では拷問となり、現実から目を背けさせる道具となった。本稿では、アウシュヴィッツの女性オーケストラの活動をみながら、KZで音楽がどのような役割を担っていたのかみていきたい。

<アウシュヴィッツ・ビルケナウ強制収容所>

アウシュヴィッツ・ビルケナウ強制収容所

アウシュヴィッツ第二強制収容所(ビルケナウ)は、最初に建てられたアウシュヴィッツ基幹収容所(1941設立)から3キロ離れた場所に建設された。ヨーロッパ各地から護送されてきた大多数の人々は収容所に到着すると同時にガス室に送り込まれるか、医学実験の犠牲となった。ガス室送りを免れた人々は親衛隊による暴力、過酷な労働、飢餓、伝染病、寒さで亡くなり、自ら命を絶つ人も少なくなかった。アウシュヴィッツ・ビルケナウ強制収容所はドイツ国内外に無数にあった強制収容所とは性格が違い、別名「絶滅収容所」と呼ばれ、大量のユダヤ人を効率的に殺戮するための施設でもあった。ナチス強制収容所の中で亡くなった人々の数、規模ともに最大の施設であった。日々死体焼却炉の煙突からたちこめる煙と灰、親衛隊の犬の鳴き声、怒鳴り声、銃声、悲鳴、感情を失った人間の表情。想像を絶するこのような場所に、オーケストラがつくられ、演奏されていたのだ。

ここに組織されたオーケストラの数は分かっていない。明らかになっているのは女性オーケストラと男性オーケストラ、その他にシンティとロマの人々で結成された楽団、チェコのテレジンシュタット強制収容所から護送された人々から成るオーケストラなどがあったとされている。

<アウシュヴィッツ・ビルケナウの女性オーケストラの設立>

ビルケナウ収容所のガス室と焼却炉の跡

女性オーケストラをつくることはビルケナウに女性区域ができた際に提案され、1943年4月に親衛隊将校フランツ・ヘスラーFranz Hesslerと囚人管理長マリア・マンデルMaria Mandelが設立した。女性オーケストラの元団員であり、戦後もチェリストとして活動したアニタ・ラスカー・ウォルフィッシュAnita Lasker-Wallfischは、オーケストラができた理由をこう記している。

毎朝毎夕、収容所の門のそばに並び、収容所の外で働かされた大勢の囚人に行進曲を演奏する。(略)もちろん彼女たちが同じ歩調で行進することはとても重要でした。

設立当初の女性楽団の指揮者は、小学校の音楽教師であったゾフィア・チャイコフスカZofia Tchaikovskaという女性であった。団員数は10名程度で、レパートリーはドイツの行進曲や有名なポーランドの軍歌などが主であったが、徐々に40名もの楽団員にふくれあがった。必要な楽器や楽譜の他に、楽譜を書くのに必要な紙やペンは女性団員が親衛隊同伴でアウシュヴィッツ基幹収容所の男性オーケストラのところまで行き譲り受けた。1943年5月からはユダヤ人の囚人もオーケストラに入団させ始め、同年8月には作曲家グスタフ・マーラーの姪であり、ヴァイオリニストのアルマ・ロゼ Alma Rosé が入団する。
親衛隊が毎日大量に到着する人々の中から一体どのようにオーケストラ団員を見つけていたのか。それは、入所登録する際に音楽家であると分かると召集され、または親衛隊が囚人の中に音楽ができるものはいないかと呼びかけ、団員を集めていた。しかし、たとえ楽器の演奏ができたとしても、膨大な数の人々が到着と同時にガス室に送り込まれる状況の中で、オーケストラ団員になれるチャンスはほとんどなかったと言えるだろう。楽団に入ることは奇跡的なことであったに間違いない。
楽団員になるためには指揮者の前で演奏するというオーディションのようなことが行われた。しかし場合によっては、必要な楽器を補うために演奏技術が不十分であっても入団ができた。ロゼの時期には団員数も50人くらいに増え、驚くべきことに団員のほとんどがアウシュヴィッツを生き残っている。一方の男性オーケストラは、自殺、飢餓、労働、病気などで命を落とし団員が頻繁に入れ替わっている。

アウシュヴィッツ博物館に展示されている楽団を描いた絵画

指揮者ロゼは高い音楽的才能とカリスマ性で入団当初から親衛隊から特別待遇を受け、楽団自体も優遇されるようになる。楽器の調達はマンデルが、楽譜(特にピアノ編曲版)はヘスラー経由で入手できるようになった。親衛隊が作った曲をロゼに見せに行き彼女の意見をもらうこともあったという。また自分の名前が抹消され、左腕に刻まれた囚人番号のみが自分のアイデンティティとなる収容所で、彼女は親衛隊から特別に「Frau Alma」(Frauはドイツ語で女性に対する敬称)と呼ばれていた。
ユダヤ人被収容者とKZでこのような関係性があったことは驚くべきことで、ロゼはこれを利用し、自分の能力を最大限に生かしながら一人でも多くの女性を助けようとしたのだ。他方、彼女は楽団員に対して非常に冷徹で厳しかったと言われている。団員には個人的な感情をほぼ出すことはなく、オーケストラの演奏レベルをあげるために邁進した。アウシュヴィッツにおいても、彼女はプロの音楽家として生き、音楽そのものに没頭し、妥協せず団員に対して容赦ない態度で接した。そしてそれはすべて、一人でも多くの人間が生き残るためであった。
楽団の演奏を親衛隊に満足させるためには、編曲作業は指揮者にとって大変重要な仕事であった。楽団のメンバーや楽器が新しく加わると、バランス良く響かせるために、各パートの楽譜を書き替えていかなければならない。楽器演奏がままならない団員のパート譜には簡単なメロディーや演奏しやすい音に書き変えた。編曲作業はたいてい夜中まで続く作業であった。そしてロゼが編曲した曲は全部で200曲にのぼると言われる。また、どうしても必要な楽器が欠けていたときは、実際に男性オーケストラの団員が教師として呼ばれ、定期的に女性楽団のブロックに来てレッスンすることもあったという。

<女性オーケストラの活動>

女性オーケストラがいたとされる音楽ブロックの跡

ロゼが来てからは定期的に親衛隊と女性囚人のための日曜コンサートを開くことが義務づけられ、毎週午後は広場で、雨天の時と冬場は収容者受入棟(ザウナと呼ばれていた)の中で演奏会が開催された。ロゼの友人であり女医であった被収容者マルギータ・シュヴァルボヴァMargita Schwalbováはある日曜コンサートの様子をこう伝えている。「(ロゼの)ヴァイオリンの音は長らく忘れていた世界を呼び起こしてくれた」。彼女によればコンサートは2-3時間続き、プログラムはプッチーニ、ヴェルディ、ショパン、チャイコフスキー、ドヴォルザーク、シュトラウス、オペレッタのアリアや歌曲で、ポピュラー音楽よりクラシックの曲が多かったという。
コンサートでは楽団員は紺色のスカート、白のブラウス、灰色がかった青色の縦縞が入った上着,そして頭には水色のスカーフを巻いていた。コンサート開演前に指揮台が置かれ、プログラムが親衛隊に配られた。客席の一列目には親衛隊の椅子が並べられ、その後ろには優遇された囚人たち(KZにおいて囚人の中のヒエラルヒーは重要であった)が座るベンチが置かれた。一般の演奏会と違うのは、演奏後の拍手が禁止されていたことである。信じられないことだが、演奏中邪魔になる聴衆の態度や私語に対して、親衛隊であろうとロゼは厳しく注意した。
毎朝毎夕の行進のための演奏や日曜コンサートのような公の演奏の他に、楽団員たちはいくつかの仕事があった。親衛隊は日々の仕事から離れ、気分転換や憂さ晴らしをするためによく前触れもなく彼女たちの演奏を聴きに音楽ブロックに来た。ラスカー=ウォルフィッシュは親衛隊の医者ヨゼフ・メンゲレのためにロベルト・シューマンの《トロイメライ》を演奏している。
この他に、女性オーケストラはビルケナウに列車が到着した時にホームのそばで演奏しなければならなかったという証言が残っている。

ビルケナウに到着すると人々は家畜列車から追い立てられ並ばされました。(中略)その際、囚人の中で最も優れた音楽家たちで組織された楽団は音楽でむかえました。彼女たちはポーランドやチェコ、ハンガリーの民俗音楽など、護送されてくる民族ごとに曲を選び演奏しました。楽団が演奏し、親衛隊は疲れた人々をせき立て,考える余地も与えられませんでした。(中略)ある者は収容所へ、ある者は焼却場へと。

女性オーケストラでアコーディオンを弾いていた生存者エスター・ベジェラーノEsther Bejaranoもそこでの演奏についてこう思い返している。

それは少し私たちから離れていましたが、列車の人々は楽団の音楽を聞きました。そして私たちにウインクしました。恐らく彼らは思ったでしょう、音楽がある場所なら、きっとそんなに悪いところではないだろうと。

列車が収容所に到着し、人々が恐怖と不安におびえ、生きるか死ぬかの選別が行われているとき、彼女たちは人々の運命とは無関係であるかのような民族音楽などを演奏した。オーケストラという存在、そして囚人服ではなく日曜コンサート用の服を着た彼女たちを見て、おそらく自分たちが想像していたほどそんなに恐ろしい場所ではないかもしれない、と希望を持った人はいたであろう。このときの音楽は明らかに不安に陥った人々を落ち着かせ、残酷な現実に直面することから麻痺させる手助けになっただろう。
実際にこれらの音楽が人々の悲鳴や泣き声などの騒音から注意をそらし、動揺を和らげてくれる働きもあっただろう。こういった、人々が収容所に到着したときの「音楽の装置」はアウシュヴィッツだけでなく、同じくポーランドにあった絶滅収容所と呼ばれているベルゼックBełżec強制収容所、ソビボアSobibór強制収容所、トレブリンカTreblinka強制収容所でも確認されている。

女性オーケストラの楽団員の大多数はプロの演奏家ではなかった。たいていは楽器をどうにかこうにか演奏できたが、僅か数年プライベートレッスンを受けたくらいのレベルであった。それは、当時女性が演奏家として活躍することが珍しかったという時代背景とも関連している。したがって、ほとんどの団員が楽団で演奏した経験がなかった。彼女たちは肉体労働を免れ、一日中楽器の練習が許されていた。そのことで、女性オーケストラ団員たちは外の世界から切り離された独自の空間をつくることができた。ラスカー=ウォルフィッシュは音楽ブロックのGemeinschaft(家族のような仲間集団)についてこう語っている。

私たちの中では悲惨な状況と悲惨な終わりを分かち合える、信頼しあえるGemeinschaftができていました。

ポーランド人でヴァイオリンを弾いていたハレナ・オピルカHalina Opielkaも同様に団員同士の助け合い、連帯意識、そして思いやりについて語っている。彼女たちには詩を読み、話し合ったり、助け合ったりする時間があり、そのことで人間性を保つことができたと言える。団員の中でも言葉の壁があり、グループに分かれていたといえども、このような日常は女性オーケストラの団員が生き延びることができた重要な背景の一つとして挙げられる。一方、同じビルケナウの男性オーケストラではこういったことを証言している元団員はいない。
では、演奏する曲目を条件づけるハード面として女性オーケストラではどの楽器が使用されていたのだろうか。ロゼが入団して5カ月後の楽器編成は、ヴァイオリンが10人、チェロが1人、コントラバスが1人、ギターが2人、マンドリンが4人、フルートが4人、アコーディオンが2人、打楽器奏者が1人、ピアノが2人、歌手が6人、写譜係りが4人という構成であった。男性オーケストラの楽団長ラックスは女性オーケストラの楽器編成についての印象をこう記している。

設立当初この楽団は大きな太鼓とシンバルから成っていた。その後、次第に新しい楽器が加わっていき、マンドリン、ギター、ヴァイオリン、チェロと何人かの歌手、そしてピアノまで加わった。(中略)女性オーケストラの楽器編成の特徴は、柔らかい、繊細な、そして金管楽器が特徴的な私たちの(男性)楽団のような響きでなく、感傷的な感じである。

ここでわかるように、女性オーケストラでは弦楽器が中心で、トランペット、ホルン、トロンボーンなどの金管楽器がごく少なく、私たちが思い描く楽団のイメージとは異なることに気づく。一方の男性のほうでは、金管楽器が中心で、女性楽団に比べ力強く華やかな響きであった。男性と女性オーケストラで鳴り響く音が大きく違ったのである。
この楽器編成の違いの背景として、当時の社会が男性は音楽家として活躍していたのに比べ、女性の音楽活動は制限されており家庭音楽と結び付いていたこと、公の場で女性が金管楽器を演奏することが稀であったことが挙げられる。そう考えるとこの2つの楽団の違いは必然的なことであるが、そういった音楽社会における性差がアウシュヴィッツでも反映されていたことは興味深い。しかし同時に、女性が楽団を率い、親衛隊に対しても権限を持つことができたユダヤ人ロゼがいたビルケナウの女性オーケストラが、当時いかに特異で特別なことであったかも分かる。

(つづく)

参考文献

  • Gabriele Knapp, Das Frauenorchester in Auschwitz. Musikalische Zwangsarbeit und ihre Bewältigung. Hamburg 1996.
  • Zofia Cykowiak, Erinnerung an Alma Rosé, in: Musik in Auschwitz. Eine Ausstellung der evangelischen Initiative Zeichen der Hoffnung Begleithefte zur Ausstellung, S. 13-15.
  • Szymon Laks, Musik in Auschwitz. Aus dem Polnischen von Mirka und Karlheinz Machel. Hrsg. und mit einem Nachwort versehen von Andreas Knapp, Düsseldorf 1998. Polnische Orginalausgabe: Szymon Laks, Gry oswiecimski. London 1978.
  • Anita Lasker-Wallfisch, Ihr sollt die Wahrheit erben. Bonn 2001 (1997).

(2020/1/15)

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藤井稲(Ina Fujii)
大阪音楽大学ピアノ専攻卒業。渡独後ハンス・アイスラー音楽大学ベルリンのピアノ科に入学。フンボルト大学ベルリンに編入し、音楽学と歴史学を学ぶ。同大学マギスター(修士)課程修了。強制収容所の音楽を研究テーマとし、マギスター論文ではアウシュヴィッツの楽団について調査し研究に取り組んだ。現在、府立支援学校音楽科教諭。

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Ina Fujii studierte Klavier und Musikpädagogik im Diplom an der Musikhochschule Osaka. Nach dem Abschluss setzte sie ihr Klavierstudium an der Hochschule für Musik „Hanns Eisler“ zu Berlin fort. Nach einem Jahr wechselte sie zu den Fächern Musikwissenschaft und Geschichte an der Humboldt-Universität zu Berlin. Ihre Magisterarbeit „Musik gegen den Tod: Eine musikwissenschaftliche Untersuchung des Repertoires der Häftlingsorchester aus den Sammlungen des Staatlichen Museums Auschwitz-Birkenau im Kontext ihrer Musikaktivitäten“ schrieb sie.