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カデンツァ|未知と既知〜トルコからの風|丘山万里子

未知と既知〜トルコからの風
Unknown and Known

Text by 丘山万里子(Mariko Okayama)

先日、デニズ・エルデンというトルコのうら若き女性ピアニストのリサイタルに行った(11/18@文京シビック)。「〜トルコから日本へ、西風に乗って〜」というサブタイトルにも惹かれたし、プログラムも面白そうだったから。前半がドビュッシーと日本の現代作品、後半はトルコの作曲家の作品で、締めくくりはファズル・サイ(プログラム表記)。
1993年トルコ生まれ、国内では注目の新鋭という。2011~2017年シュトゥットガルト音楽大学で学び、イスタンブールでのヤング・コンポーザーフェスティバルで作曲家の小櫻英樹の作品を披露、自身も作曲・演奏活動とのこと。

華奢な愛らしいピアニストは膝丈のふわふわワンピース、緊張気味で初々しい。客席にはスカーフをかぶった女性も見かけたが、聴衆世代はほぼ中高年、休憩時の会話に「あんなに華奢なのにすごいわねえ」とその音量への賛辞を聞いた。
ドビュッシー『映像第1集(水に映る影、ラモー賛歌、動き)』に続き、鈴木治行『巻き毛』(新作初演)、小櫻秀樹『ライネ・リーベ 』、西村朗『三つの幻影(水、炎、祈祷)』の前半に、私はいろいろ考えた。
身も蓋もない言い方をするなら、ドビュッシー、小櫻、西村は同じ流れ。パラパラゆらゆら幻想アルペジオとダイナミックなリズムパターンに和音の楔を打ち込む、そういう型式での職人芸(演奏でなく作品の話)、と彼女は弾いた。
けれど『巻き毛』では、そこに書かれたものをどう表出したら良いのか、戸惑っている風だった。鈴木のこの新作は、プログラムから適宜引くと「“反復もの”と呼ぶ路線のもので、作品素材では同じ素材が異なるテンポで切り出され、時に緩やかに、ときにめまぐるしく往還。素材はロマン派風の調性音楽」。聴きながら私は、ここはもっと鋭利な響き、いやここは情念的な深い色合いで、うう、スパッと、いや、がっしと、ああ、きらきら感が・・・など、勝手に自分で音像を補足しているのに気付いた。
私は鈴木作品を生で聴いた機会はいたって少なく、直近で言えばサントリー芥川作曲賞選考時の『回転羅針儀』、反復しつつ廻る音たちを捕まえようとするとウニャッと逃げられ常に霧中を蛇行、ぼやけるので、「隠れんぼ」と「かごめかごめ」と「大縄跳び」をいっぺんにやっているようで、他の受賞者新作&候補作の3作とは異質の「これ、なんだ?」的不思議世界をたゆたった。
この『巻き毛』が彼の作品群の何処らにあるのかは知らないが(2年前のピアノ曲の作曲法だがそれとは違う方向を補填、とプログラムにあり)、とにかく、ドビュッシー、小櫻、西村用羅針盤では測れないゆえ、作曲家でもあるらしい彼女であっても手探りになった、と解する。

私は何も彼女の演奏が未熟だとか、近現代音楽もしくは日本の作品への理解が不足だとか、そんなことを言いたいのではない。
むしろ、鈴木以外の3作が同じ路線に聴こえたについては、なるほど、であった。それは演奏技術以前の、彼女の「楽譜の見え方」であり、彼女はそれをある意味、素直に率直に提示していた、と思える。「この3つはこんな風に私には見えるんだけど、これ(鈴木作品)はよくわかんない。」
私は『回転羅針儀』を思い出し、それはそうかも、と頷いたのだった。
後半のトルコ4作の3作はいずれも1930年代に書かれたもので、うち2名はパリやウィーン、最後のサイは17歳でデュッセルドルフ、ベルリンで学ぶ。
いわゆる折衷書法だが、その演奏ぶりは例えば4月に聴いたアシュカールの旋回力動のようなダイナミズムはなく、スパイスがほのかに香るコンソメスープみたいだった。もちろん、前半とは異なるヴィヴィッドな「共感」が見受けられたにせよ。

私はたまたまイスラム関連の本を読んでいるところだったので(本号書評参照)、改めて「西風に乗って」考えた。
イスタンブール、ボスポラス海峡にかかるガラタ橋からはるかに望んだアジア。かの地からここまでの道、シルクロード、わたる風、続く空。
街中に熊使いの芸人がいて(もちろん熊も)仰天したこと。トルコ・コーヒー、美味しい!
トルコ航空は昔は「空飛ぶ絨毯」と呼ばれたとか。だから飛行場に着いた時みんな一斉に大拍手だったのか?イスラム教徒の人たちは飛行機内でも必ず礼拝時に携帯用絨毯を広げメッカに向かい礼拝する。立派だ。
モスク堂内の絨毯には礼拝時の頭足位置が示され、メッカの方角を指すミフラビ(祈祷用壁窪、偶像禁止)がある。イスラム女性は中に入れない。開け放たれた部分に設けられた外柵から覗いて礼拝する。外国人女性(私も)はズカズカ入り、ぐるぐる自由に観光だけれど。
トプカプ宮殿のお宝には洗礼者聖ヨハネの「手」にムハンマドの「足形」、もちろん「エメラルドの短剣」に「スプーン」と呼ばれる86カラットダイヤモンドが燦然と輝いており。ハーレム他各広間のトルコ・ブルーの美しさ!オスマントルコの勇壮な軍楽隊の楽音にウィーン貴族がどれほど怯えたか。

かつてのコンスタンティノープル、文化文明の栄誉栄華は歴史の彼方、1980年代からの長い紛争の日々その地から逃れ、流れ出た人々の今日は。
ギリシア哲学はイスラム哲学者の翻訳作業があってこそ今に伝わる。アラビア数字はインド〜アラビア〜そして西欧へ、だ。

などなどの雑念とともに。
西洋音楽であれ民族音楽であれ、それぞれに歴史を持ち、そこに優劣も新旧もない。彼女の運ぶ「西風」に耳と心を預け、そこに何を受け取るか。
ドビュッシーも鈴木も小櫻も西村もトルコ作曲家たちも、これは自分の書いたものとは違う!全然楽譜が読めてないじゃないか(自作を演奏でめちゃくちゃにされたと憤慨する作曲家にかなり私は出会ってきた)と怒るかも。一方、そうか、こんな風にも読める、弾ける、聴けるんだね。面白い!も、あるだろう。
西洋音楽をやや一般より多く聴いているであろう私も、モーツァルトはこうでしょ、など文句をつけることもある。伝統・文化・歴史・風土・時代等が音にはずっしりべったり張り付いている、それに無知・無視はいかんでしょう、背景しっかり勉強してよね、と。じゃあ、さっきの日本の現代作品に張り付いてるのは何?
コンソメスープと先述した私は明らかに「トルコらしさ」(それは何だ?)を聞きたがっていたわけだし、鈴木作品に至っては新作初演にもかかわらず、こう弾いてくれたら、と自己流音像補填までした。スコアも見ずして。いや、彼女が「わかってない」風だとわかった顔さえする。
・・・とまあ、頭、ごちゃごちゃ。
何れにしても、人は皆、それぞれの自分のその時点での聴取しか行えない。演奏も作曲もそうであるように享受もまたそうだし(先のご婦人たちのように)、批評家だってそうだ。

ではあるが、私は思う。
「作品」というのは、いつでも、未知へと開かれた窓。
誰もがそこを開き何かを見出すことのできる、無限の生き生きした生命体。
だから私はいつも「これ、何だろう?ここから何が見えるかな」という好奇心で客席に居る。そうして、よくわからないけど面白い、という未知の感覚と、大縄跳びとかかくれんぼ、といった自分の体験、つまり既知の感覚とをごたまぜに、不可思議の大海原から何かを見つけようと目を凝らす。現代作品に限らず、すべて音楽とはそういう無数の窓だ。
開けたら真っ暗闇かもしれず、閃光に眩むかもしれず、ああ、これこれ、と懐かしさに胸締め付けられ、そういう世界もあるんだ、と聖なる恩寵に満たされ、興奮の極みに達し、そう、なんと無限の豊かな世界が拓けることか。
誰もがそこで、自分の「かつて」と、たぶん他者へと開かれた「これから」に出会う。そこに「これは何?」と手を伸ばす、批評が語り出すのは、この時だ。
未知というオセロの白が、既知という黒にひっくり返され、既知だらけになった真っ黒世界から言葉は生まれない。いや、未知と既知との不断の遭遇と変転、動態こそが、言葉を導く。作曲であれ、演奏であれ、批評であれ、創造行為とはそういうものだろう。
とまあ、これはあくまで私の話。他の人のことはわからない。

ふと思う。
日本のこの年齢のピアニストに、未知と既知にざんぶ飛び込み「東風に乗って」綿毛を飛ばすリサイタルを、トルコで開くだけの気概があろうか。

さて、私、ゆえあって20年ほど前の自分の文章を引っ張り出したら、『批評をめぐって〜おそれず、懼れて』など書いているのを見つけ驚愕した。本誌2016/10/15号カデンツァ『恐れず、恐れよ〜書く、とは』と同じではないか(この句が降りてきた時、私は完全にそれを「未知」からの言葉、と思った)。いやはや。その2年後が『批評の周辺〜ひるまず、おごらず、つるまず〜』になっているのは、わずかな変転の兆し?
さほどに我に未知と既知は不分明なり。

(2019/12/15)