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京都市交響楽団 東京公演|西村紗知

京都市交響楽団 東京公演
Kyoto Symphony Orchestra Concert in Tokyo

2019年6月23日 サントリーホール 大ホール
2019/6/23 Suntory Hall (Main Hall)
Reviewed by Sachi Nishimura
Photos by 林喜代種(Kiyotane Hayashi)

<演奏>        →foreign language
指揮:広上淳一
ヴァイオリン:五嶋龍
京都市交響楽団

<曲目>
ブラームス:悲劇的序曲 Op.81
コルンゴルト:ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 Op.35
ラフマニノフ:交響的舞曲 Op.45
アンコール曲
(ヴァイオリン ソロ)
クライスラー: レチタティーヴォとスケルツォ カプリース Op.6
(オーケストラ)
エルガー : 『エニグマ変奏曲』から 第9変奏 “ニムロッド”

 

昔、シェーンベルクがハリウッドで映画界の実力者に面会したときのこと。その時挨拶がわりにその実力者はシェーンベルクの音楽を「lovely」などと言ったのだったが、こともあろうにシェーンベルクはそれで激昂し「my music is not lovely」と答えたらしい(註1)。lovelyという形容詞に社交辞令以上の意味合いがあったわけではあるまい。しかし、母国語ではない言語に対する誤解もあったのだろうかシェーンベルクはおかんむり。当然ハリウッドでの成功の道は断たれた。コルンゴルトやヴァイルのようになる可能性だってあったろうに。その後のアメリカでのシェーンベルクの困窮状態は、よく知られるとおりである。
なぜそんなエピソードを思い出したか。筆者もまた「あなたの音楽はlovelyですね」と今日の演奏者全員に言いたくなったからだ。しかしそんなことを言っても、シェーンベルクみたいに怒ってくれるのだろうか。

全体に与する不調和というものがある。あるいは、不調和というものはほとんどの場合全体に与するものとなるのかもしれない。ある不調和が社会全体に圧殺されそうなときに自ずから生じる個人の苦しみのことであれ、もしくは作品全体を転覆せしめんとする不協和音のことであれ、それは全体を飾るアクセントとして機能するリスクを背負っている。シェーンベルクの激昂はおそらくこういうことに触れている。最もラディカルにいえば、趣味のよい無調作品など決して存在してはならない。それならば、畑違いではあるが、ジェフ・クーンズのバルーンドッグみたいに徹底的にlovelyにやってみせるほうが正しい。ともすれば、かつて指揮者のチェリビダッケがカラヤンに対して吐き捨てるように言った「彼はコカ・コーラみたいなもんだ」(註2)という文言も関わってくるかもしれない。ほどよい不調和はスパイシーにパチパチはじけてこころよく消えていく。そんなわけで、今回の彼らの真に幸福な演奏からは暗澹たる思いが禁じ得ない。

なにせ、とにかく聞きやすいオーケストラだった。よく歌い、よく踊り、よく泣く演奏である。全体の音色のバランスも申し分無い。ちょっぴりダークな音色でヴァイオリンがあらぶるように鳴れば木管がそれをクールに締める。テンポの感覚も悪いところがない。前のめりになることもなく、フレーズ一つ一つに全力集中。まさしく「lovely」な演奏である。加えて、吹奏楽の強豪校のような一体感。
こうしたオーケストラの特性により、ブラームスの〈悲劇的序曲〉は節度のある印象を与えるものとなった。「悲劇的」な性格は主にヴァイオリン群の嘆くようなフレージングに託される。しかし全体としてはよく区画整理され主題労作がくっきりと浮かび上がり、聞きやすい。味付けもどことなく甘めであって、それならこの後のコルンゴルトのあれはサッカリンくらいになるのかしら、と思うほどであった。
さて、コルンゴルトの〈ヴァイオリン協奏曲〉――いやはや、ソリストの五嶋龍の圧倒的な技量とキラキラ感である。あやうく筆をへし折られるところだった。弾いていない瞬間さえ五嶋から目が離せない、そんな佇まい。どんなパッセージも、マルカートぎみでも薫り高く上品な甘さを保ち続ける。どんなに激しく踊っても前髪がそのままのアイドルのように。少しばかり均質さがすぎる印象もあるものの、この作品にはむしろ適切なのだろう。第1楽章の主題にあるGisがなんとも憎らしく、長7度の厳しい響きがかえって趣味が良い。「lovelyでなにが悪い」というのも、ある意味真理なのである。
ラフマニノフの〈交響的舞曲〉については、繰り返しになるのであえて詳述はしない。オーケストラ総動員で全力の踊り。もう少しでバーンスタインの〈キャンディード序曲〉くらい楽しくなってしまいそうな演奏。はたして、この作品で踊るべきは誰なのだろう。

総じて、作品における全体と不調和の緊張関係というものに無頓着であるという感想をもった。むしろ、ともすればlovelyに塗り固めてしまうところをいかに節制するか、というのを聞きたかったのだ。なるほど確かに捉えようによっては、今回の3つの作品はそれぞれにほどよい不調和をまとっている。けれども、輝きは飾りであっても、不調和は飾りじゃない。これを飾りと捉えることは、モラルの問題だ。

註1:Theodor W. Adorno: Musik und neue Musik[1960], in: Quasi una fantasia. Musikalische Schriften II (Gesammelte Schriften 16), Frankfurt a.M. 1978, S.482.
註2:クラウス・ヴァイラー著 相澤啓一訳『評伝 チェリビダッケ』春秋社、1995年、pp.144-146.

(2019/7/15)

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<Artists>
Junichi Hirokami, Chief Conductor & Music Advisor
Ryu Goto, Violin
Kyoto Symphony Orchestra

<Program>
Brahms : Tragic overture op.81
Korngold : Concerto for violin and orchestra in D major op.35
Rachmaninov : Symphonic dances op.45

(encore)
Kreisler : Recitative and Scherzo-Caprice, Op. 6
Elgar : Variations on an Original Theme, Op. 36, “Enigma”: Variation 9: Nimrod