ダニエル・ゼペック~無伴奏|大河内文恵
2018年3月7日 トッパンホール
Reviewed by 大河内文恵(Fumie Okouchi)
Photos by 林喜代種(Kiyotane Hayashi)
<演奏>
ダニエル・ゼペック(ヴァイオリン)
<曲目>
テレマン:12のファンタジーより 第9番 ロ短調 TWV40:22
L. ベリオ:セクエンツァ 第8
ビーバー:《ロザリオのソナタ》より 第16曲<パッサカリア>
~休憩~
ボッソベ
S. ライヒ:ヴァイオリン・フェイズ
J. S. バッハ:無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第2番 ニ短調 BWV1004
~アンコール~
カプスベルガー:アルペッジャータ
世界にはまだまだ凄い人がいる。
ステージに現れたゼペックはモノトーンの柄物のシャツに黒のスキニーパンツ。舞台でスーツを着ない演奏家もいるが、そういった場合でもスラックスに黒シャツといった姿を見慣れている身にとっては、「部屋着???」。まぁいい。譜面台を置いて、その斜め後ろに立って弾くテレマンの『ファンタジー』は、至って普通の演奏だった。
当初は、2曲目はライヒの予定だったが、当日の曲目・曲順変更により、ベリオの『セクエンツァ第8』に。ここで一気にヴォルテージがあがった。見た目は普通に弾いているだけのように見えるのだが、いやいや、普通に弾ける曲ではないはずなのだが、目の前のゼペックは普通に弾いているようにしか見えない。もちろん、聴こえてくるのは『セクエンツァ』の詳細な演奏指示が忠実に再現された音である。そのギャップに眩暈を起こしそうになる。特に後半のpp(ピアニシモ)で32分音符が続く箇所から最後までの、緊張と推進力をともなう高揚感は絶品だった。
前半の最後は暗譜で演奏されたビーバーの『パッサカリア』。絶え間なく繰り返される低音の下降主題とその上に奏でられるメロディーが胸に迫る。繰り返すということはどういうことなのか、もちろんそれはただの反復ではない。無限の可能性と永続性を体現する演奏に唸ることしかできなかった。
後半の冒頭は追加曲で、ボッソベというアカ・ピグミー族による伝承音楽が録音音源によって流される。ライヒのミニマル・ミュージックの原形かと思うような音楽の途中でいつの間にかゼペックがあらわれ、そのままライヒの『ヴァイオリン・フェイズ』につながっていく。この曲は2本のヴァイオリンが同じ旋律をごくわずかずつずらしていくことによって曲が成り立っているのだが、今回は録音音源とゼペックのソロの協演であった。
プログラム前半では持続と反復が繰り返し聴かれてきたが、この曲は持続と反復に、そこからの「逸脱」が加わる。それによって、エネルギーが増大し、スリルがうまれる。ハッ、もしかして、この構造は人間の人生そのものではないか?単調な日常の繰り返し、そしてそこからのほんのわずかな逸脱。ゼペックが描きたかったのはこの世界かと気づいた時にはもう、ライヒの音楽が筆者の脳内でトランス状態に陥っていた。
最後の『無伴奏ヴァイオリン・パルティータ』は言わずと知れた名曲である。これを最後に持ってきたのは、やはり第5楽章のシャコンヌを弾きたいがためであろうことは予想していた。このシャコンヌは単独で演奏されることも多く、第1楽章からすべて演奏するのはなぜなのか?聴きながらふと何故か、譜面台を前に弾いているゼペックの姿が、コンサートホールのステージの上ではなく、彼の自宅のレッスン室にいるように見えてきた。それほど、バッハを弾く彼の姿は肩肘張った特別なことではなく、当たり前なことに見えたのだ。
非日常ではなく日常をみせる。そんな演奏家がいるだろうか。ん、日常?そのとき、彼がアルカント・カルテットで第2ヴァイオリンを担当していることを思い出した。第2ヴァイオリンは同音反復や動きの少ないパッセージを弾くことが多い。しかしそれは縁の下の力持ちなどではなく、それ自体が素晴らしい音楽なのだと伝えようとした、ゼペック自身の第2ヴァイオリン奏者としての矜持がこのコンサートのテーマだったのだと気づいたとき、途轍もない世界が目の前に広がっていたことに茫然とした。世界は広い。
(2018.4.15)