特別寄稿|「歌」の簒奪者 ボブ・ディラン その1)|noirse
「歌」の簒奪者 ボブ・ディラン
text by noirse
1960年前後のミネアポリス。フォーク・シンガーを夢見て、田舎から出てきた、まだ十代の若者が、地元のマニアのレコードを盗み出した。怒ったレコードの持ち主は、若者を痛めつけた。彼は泣いて謝ったという。
若者の名前は、ロバート・アレン・ジマーマン。デビュー前のボブ・ディランである。もちろん、本人がこう述懐しているわけではない。この証言も、どこまで信用できるのかは分からない。だが、思い付いたらすぐに実行しないではいられない、破天荒なディランの性格を考えると、ありそうなことではある。
さて、わたしは何も、不名誉なエピソードを晒して、ノーベル賞授与にまで至ったスーパー・スターを貶めようと言うのではない。ディランに関する評論の類は既にひと一倍多く書かれている。ノーベル賞の報で、その数は増す一方だ。せめて、多少なりとも変わった視点から、ディランの作品を聞き直してみたいと、こう思った次第である。
美術理論家ロザリンド・クラウスは、著書『ピカソ論』の中で、ピカソを「記号の循環」、「剽窃」、「三文小説」の3つの章に区分けて論じた。
クラウスは、ピカソの古典回帰は、「記号の循環」に自己の表現上の危機を感じたからと説く。古典への回帰もまた「剽窃」だが、記号の循環と剽窃を通じて、ピカソという表現者が、虚構として再編成されていると論じる。
同時にクラウスは、ピカソの「醜聞」について分析する。ピカソの愛人が書いた「伝記」は、「三文小説」として、ピカソを、やはり虚構の存在へと追いやっていく。しかしそもそも受け手側は、作品に従属する虚構の存在としてしか、「作者」を認識することはできない。ピカソの醜聞は、その構造を浮き彫りにし、反復していく。
わたしは、この本を読んでいるあいだ、ずっとディランを連想していた。この三要素は、ディランにもそっくり当て嵌まると感じたからだ。十代のディランがレコードをコソ泥した「醜聞」にこそ、その三要素が凝縮されており、それこそがボブ・ディランという稀代の音楽家の本質を表しているように思えてならないのである。
フォークという音楽は、日本では誤解されがちだが、直訳すれば「民謡」の意だ。1950年代半ばに反体制として人気を博したロックン・ロールが衰退を余儀なくされたあと、ポッカリ空いた「反権力音楽」のポストの座を射止めたのが、フォーク・リヴァイバルだった。学生たちは、社会への反抗として、資本主義に染まったポップスを否定し、「民衆の歌」を求めた。60年代初め、フォークはもっとも最先端で、ヒップな音楽だった。
だが、フォークの主流は、あくまでもトラディショナルだ。その中心を為すのは、本来の民衆歌を尊重し、解釈を施しても過度の逸脱は許さない、「フォーク至上主義」である。ニューヨークに転がり込んだディランも、ハードコアなフォークの名手たちから歌や技法を教わり、先人に近付こうと努力した。
だがディランの有り余る創作意欲は、次第に彼を作曲に駆り立てていった。ディランが書いた<風に吹かれて>や<時代は変わる>などが与えた反響、影響の多大さについて、ここで付け加えることはない。
しかしディランは、すぐにポリティカル・ソングを封印することになる。スター扱いされることは好まなかったし、流行だったから政治的な歌を書いただけで、そこまで興味はなかったようだ。「社会派フォークの旗手」としてのディランは、その長いキャリアの中で、たった2~3年でしかない。
それよりも重要なのは、ディランの歌った、個人的で「小さな」歌だ。この頃は、フォークに限らず、歌い手が自らの手で作詞作曲を試みることは、けっして多くなかった。
その慣習を打ち破ったのがディランだ。愛読してきたランボーやウィリアム・ブレイクらの象徴詩や、ビートニクの実験的手法を、フォークやブルースのトラッドの定型に注ぎ込み、個人的な感情を、独特のイマジネーション豊かな詩世界に昇華した。前後してデビューしたビートルズも、歌詞の追及という点では、ディランに大きく遅れを取っていた。
ノーベル賞の報が届いたとき、ディランが受賞するならジョン・レノンが、またはボブ・マーリーが、誰々が獲ってもよかったのではないか――そういう声も聞こえた。だが彼らの素晴らしい詞世界も、ディランがいなければ誕生しなかったか、少なくとも、もっと時間が必要だったろう。
ディランと他のミュージシャンでは、そこが違う。おそらく、音楽家がノーベル賞を受賞することは、この先ないだろう。ディランは、たったひとりで、音楽の方向性を、大きく変えたのだ。
と言いたいところだが、ここで異論を挟み込みたい。ディランは、インタビューでしばしば、「既にある歌を作り換えているだけで、何か特別なことをしているわけじゃない」と述懐している。実際、ディランの多くの楽曲は――<風に吹かれて>も、<時代は変わる>も――フォークやブルースの古典から題材を採っている。
ポール・マッカートニーやジミー・ペイジなど、多くのミュージシャンに慕われる英国フォークの重鎮ロイ・ハーパーは、このようなディランの「剽窃」を厳しく批判する。たとえば<北国の少女>は、若きディランが渡英した際に学んだイギリスの民謡が下敷きになっている。これは文化的盗用だというわけだ。
しかし、これは見かたにもよるだろう。そもそも作曲とか作詞などという行為に完全なオリジナルなどなく、先人がものした曲を組み換えたり、せいぜい多少の注釈を付与することしかできない。であればむしろ、忘れ去られようとしている伝承歌にふたたび命を吹き込み、若いリスナーに聞いてもらったほうが、ずっとよいのではないか。
こうした発想には、ウィリアム・バロウズの「カット・アップ」や、ピカソのコラージュ手法を彷彿とさせる。フォークやブルースにロックン・ロールのリズムを導入させた「フォーク・ロック」の発明も同様だ。ディランは、優れた表現者でありながら、突出した「編集者」でもあった。しかし「編集者」という立ち位置からは、「すべては既に作られてしまった」という諦念が見え隠れする。
80年代ディランの最高傑作とも呼ばれる<ブラインド・ウィリー・マクテル>という曲がある。ブラインド・ウィリー・マクテルとは、実在した同名のブルースマンだ。世紀末的な光景の中、「誰もブラインド・ウィリー・マクテルのようには歌えない」と歌われるこのナンバーからは、ディランの苦悩が窺える。
クラウスの議論を思い出そう。ディランもまた、「記号の循環」や「剽窃」によって、自らの音楽を構築していった。「ボブ・ディラン」とは、記号と剽窃の上に積み上げられた、「虚構」なのだ。そしてその道行きは、常に激しい批判と醜聞に晒されてきた。それにより、「ボブ・ディラン」という伝説は、強固なものへとなっていった。
若きディランがレコードをコソ泥したエピソードは、このようなディラン像を端的に指し示す。ディランの音楽は、「レコードを盗んだ」ようなものだ。恩義のあった先輩から教わったテクニックと曲解釈でデビューしては顰蹙を買い、プロテスト・ソングを歌わなくなってはフォーク・マニアに批判され、ロック・バンドを従えるようになったら「ユダ!」と罵られる。
そこには常に、「簒奪者ボブ・ディラン」のイメージが付きまとう。随分な言いかたかもしれないが、間違いなくこれも、「ボブ・ディラン」の肖像なのだ。
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noirse
同人誌「ビンダー」「セカンドアフター」にて、映画/アニメ批評を執筆