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ベルナール・フォクルール 来日公演|佐伯ふみ

Concert Review

♪オルガン・リサイタルシリーズ39
2015年10月31日 横浜みなとみらいホール

♪パイプオルガン×映像プロジェクト「暗闇と光」日本初演
2015年11月3日 ミューザ川崎シンフォニーホール

Reviewed by 佐伯ふみ(Fumi Saeki)
Photos by 林喜代種(Kiyotane Hayashi)11/3公演のみ

focc1<演奏>
ベルナール・フォクルール(パイプオルガン)
リネット・ウォールワース(映像)11/3公演

<曲目>

♪横浜公演
バッハ:前奏曲とフーガ 変ホ長調 BWV552/1,2
バッハ:いと高きところにいます神にのみ栄光あれ BWV676
バッハ:これぞ聖なる十戒 BWV678
メンデルスゾーン:オルガン・ソナタ へ短調 op.65-1
フランク:コラール 第2番 ロ短調
バッハ:天にいます我らの父よ BWV682
バッハ:幻想曲とフーガ ト短調 BWV542

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♪川崎公演
細川俊夫:雲景
フォクルール:コロリエルテ・フローテン
グリニー:ティエルス・アン・タイユのレシ
アラン:幻想曲 第1番/リタニ(連禱)
ブクステフーデ:アダムの堕落によりてすべては朽ちぬ BuxWV183
ブクステフーデ:甘き喜びのうちに BuxWV197
グバイドゥーリナ:光と闇
メシアン:『聖霊降臨祭のミサ』より 聖体拝領「鳥たちと泉」/閉祭「聖霊の風」
バッハ:われを憐れみたまえ、おお主なる神よ BWV721
ブクステフーデ:パッサカリア ニ短調 BuxWV161

2つで1つ、オルガン音楽の魅力を伝える画期的なコンサート

パイプオルガンの世界で、指折りの奏者と目されるベルナール・フォクルール。1953年ベルギー生まれ、ルネサンスから現代まで幅広いレパートリーをもち、実に魅力的な収録曲のCDが40タイトル以上。作曲も盛んにおこなっている。ブリュッセル王立モネ劇場総裁(1992~2007)を経て、2007年よりエクサン・プロヴァンス音楽祭芸術監督、2010年より王立音楽院教授。一演奏家の枠を超え、クリエイティヴな企画能力と、芸術を生活の中に根づかせたいという社会活動家の情熱も持ち合わせた、才人である。2012年に武蔵野市国際オルガンコンクールの審査委員長として来日、リサイタルもおこなっている。

今回の来日公演では、パイプオルガンの名器を備えた2つのホールが、フォクルールをめぐって華やかな「競演」を展開してみせた。共同で制作されたチラシは、対照的な赤と青を巧みに用いて、表裏2面でそれぞれのホールの公演を告知する洒落たデザイン。これだけで、何かある、と思わせる優れた広報になっている。

日本は実は、世界でも珍しいほどの「オルガン大国」なのだが、本来がキリスト教会を基盤に発展してきた文化であり、コンサートの聴衆はまだまだ限定的。層を広げる起爆力をもつ公演を企画するのはなかなか難しく、聴衆の数は伸び悩んでいるのが現状。今回の2公演は、フォクルールという優れた音楽家のアイデアを得て、2つのホールが協力して現状打破を試みた、画期的な企画と言えるだろう。

横浜みなとみらいホールの公演では、<Almost Bach(J. S. バッハを中心に)>というテーマのもと、このホールの誇るフィスク社(アメリカ)製のパイプオルガン「ルーシー」の豊かな響きを堪能させる、いわば「王道」のプログラム。

一方、クーン社(スイス)製のオルガンを擁するミューザ川崎シンフォニーホールでは、舞台を丸く囲むような客席の特質を生かし、オルガン演奏と映像のコラボレーションという、新しいスタイルの公演。<暗闇と光>と題されたこのプログラムは、オーストラリアの作家リネット・ウォールワースの映像作品を巨大な2つのスクリーンに映し出しながら、舞台上に引き出されたコンソール(演奏台)でもって、ルネサンスから現代まで幅広い曲を聴かせる。2014年のブリュッセル初演以来、フォクルールが各地に持っていって上演を重ねているプログラムである。

ふだんは舞台の遥か上にある演奏台に居て、顔も判別できないようなオルガニストが、他の楽器奏者と同じように舞台に出てきて客席に挨拶を送り、聴衆はその演奏の実際(ストップの操作や、手や脚の動き)をつぶさに見ながら音楽を楽しむことができる。映像ももちろん魅力的だが、奏者を舞台に引き出すというこの単純な工夫だけでも、奏者と客席の親密なつながりを作る、大きな効果を生んでいる。

正統的なプログラムでオルガン音楽の神髄を聴かせる一方で、映像も含めた新感覚の上演で、新しい聴衆を惹きつける。2つの公演を続けて聴いて、フォクルールの意図――オルガン音楽の魅力を広く知らしめたい、良き聴衆を育てたい――が、はっきりと伝わってきた。それに共鳴した2つのホール関係者の願いも。さまざまな困難はあろうが、こうした試みが、今後も地道に継続されていくことを願う。

さて、フォクルールの演奏について――

オルガンは、1台1台が注文生産で、楽器によって仕様が大きく違う。オルガニストの才覚とは、その仕様とオルガンの特質を理解し、最も効果的に響かせるようなレジストレーション(音色)を組むことにかかっている。同じ曲でも、楽器が違い、オルガニストが違えば、まったく違う曲に響いてくるのが、オルガン音楽の面白いところである。逆に言えば、レジストレーションに対する知識がある程度ないと、そして様々なオルガンをある程度聴いていないと、その違い――面白さ――を耳でキャッチすることがなかなか難しい。

筆者も実は、オルガン音楽についてはまだまだ「修行中」の身。フォクルールの音楽性がいかなるものか、聴き分けるには経験が浅すぎるのだが…… それでも、横浜公演はオルガン・リサイタルの定番の曲目でもあり、他のオルガニストとの違いがあちこちで聴きとれて、とても面白く、感心することしきりであった。

一つだけ特筆するならば、小さな音量の柔らかく温かい音色で弾かれる曲または部分(例えばバッハのBWV676やBWV678)と、大音量の壮麗な曲(部分)とで、めりはりがはっきりしていること。しかも、その2つがまったくの別物のように分かれてしまっているのではなく、容易に溶け合い、いつでも、いかようにでも、お互いに往き来できる柔軟さがあるのだ。例えばメンデルスゾーンの代表的なオルガン作品Op.65からの1曲、第2楽章から3楽章への音色の変化。そして第3楽章の終盤、クライマックスに至る順次進行の上行音型で、それまでの柔らかな音色から華麗な大音量に移行していく、その融合の見事さには息をのんだ。まるで美しい織物(タペストリー)の繊細な色合いの変化を見るよう。

拍子やリズムも実に自然体。バロック音楽のイネガル(不均等)の良い趣味が生きている。バッハをオルガンでとなると、宗教性を帯びることもあり、日本では弾く方も聴く方もかしこまるところがあるが、欧米の奏者たちは、これぞ伝統の為せるわざだろう、実に自然に、日常の延長として音楽する。なんと心地よいバッハ。

対する川崎公演のプログラムは、ブクステフーデやグリニー、新しいところではアランやメシアンといった定番の名曲も含みつつ、細川、フォクルール自作、グバイドゥーリナと、先鋭的な「いま」の音楽もオルガンで楽しめたのは嬉しい。

ウォールワースの映像も、現代作品の時のほうが遊びがあって変化に富む。概して、月や太陽、森、草原、水面といった自然の風景が多いのだが、切り取り方が新鮮で、映像の流れや切り替えの速度も音楽を邪魔しない。それぞれ違う音楽の質を見定め、呼吸をはかりながら、細心の注意を払って制作されているのがよくわかる。ただし1箇所だけ、グバイドゥーリナ作品で、悲劇的な音響で崩れ落ちる下降音型のクライマックス。映像もまた巨大な煙突様の建築物が倒れ込むリアルなもので、ちょっと説明的と感じた。でも、今もそのシーンだけ、音と映像がシンクロした状態でまざまざと思い出せるのだから、印象づける効果があったということか。

変化に富んだ曲の配列も、実によく考えられていた。現代ものではグバイドゥーリナのエッジの立った音楽が印象に残る(ただし、ちょっと長すぎるか)。もはや古典のメシアンはやはり、オルガンでいちばん生きる作曲家ではないかと再発見。アランの『リタニ』の悲痛な叫びは、戦乱の悲劇があちこちで起こる今の時代にもますます切実だ。最後を締めた17世紀のブクステフーデ。古めかしさをいっさい感じさせないのは、オルガンという楽器の魔法ではなかろうか。堂々たる閉幕であった。

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