特別寄稿|作曲家と演奏家の対話|時間の観念と音楽における時間|ダムニアノヴィッチ&金子
作曲家と演奏家の対話
はじめに
メルキュール・デザール誌に、演奏家の立場から投稿させて頂くという貴重な機会をいただいて15ヶ月が過ぎた。この一年間思いも寄らぬコロナ禍に見舞われて世界が鎖国状態となった一方で、生活のデジタル化が驚くべき速さで進んでいる。そんな2021年の今日、私達を隔てる壁のひとつである『言語』の多様性を外に開き、共に考える材料とするような試みができないか? 丘山万里子編集長とのやりとりから、私と異なる文化、専門の方と対話形式で普遍的なテーマを『日仏両語』で掘り下げて行く、という案が浮かんだ。その相手を作曲家で、哲学、宗教、言語に精通したアレクサンダー・ダムニアノヴィッチ氏が引き受けてくださった。さらに、誌の多国語併記の方針により、氏の母国語であるセルビア語も掲載することとなった。仏語版、筆者担当日本語版、氏担当セルビア語版の3ヶ国語での対話をお届けできるのをWebならではの画期的な出来事と大変嬉しく思う。
言語に関わらず、私達一人一人が興味のある記事や情報を『知りたい』時、『壁』がないインターネット上で様々な扉をたたいて異文化の人々と交流することができる。そのようなごくシンプルな行動から、人々を隔てる壁が開かれ、私達の精神的生活が豊かでより良いものになっていくと私は確信している。
スタッフの皆様、校正や意見をくださる友人達にこの場を借りてお礼を申し上げたい。
時間の観念と音楽における時間
テキスト:アレクサンダー・ダムニアノヴィッチ(作曲家)、金子陽子(演奏家)
語源
時間 temps という言葉はラテン語の tempus から由来し、これは古代ギリシャ語の τεμνεῖν (temnein)と同じ語源、切る couperということから、充満する時間を区切った、有限な一つの要素という意味となる。
YK (Yoko Kaneko)
天体物理学の分野では、時間は光とその速度と共に宇宙空間に位置づけられている。『光年』という言葉は、光が一年かけて到達する『距離』を意味する。ここでは時間の単位は距離の単位に変換される。我々に最も近い星、太陽は、地球から1億5000万キロメートルの距離にあり、光でこの距離を現すと約8『光分』となる。
地球上に人類が出現して大変に抽象的な物事も考えられる頭脳を備えたことで、時間の観念は、天体と地球の動き(天の動きとして理解されていた)と結びついて導入され、昼、夜、季節、一年という概念が誕生した。
『地動説』は、コペルニクス(1473-1543)によって提唱、ガリレオ(1564-1642)によって証明され、その後1983年にようやくカトリック教会によって承認された。
AD (Alexandre Damnianovitch)
神は6日かけて世界を創造された。
第1日、光の創造と闇と光を分ける
第2日、水のある場所と乾いた場所、空の創造
第3日、土地と森林の創造
第4日、昼と夜を分け、小さい光と大きい光(太陽、月、星々)の創造
第5日、動物の世界の創造
第6日、人間の創造
(聖書の世界で『一日』は、寓意である。神にとっての『1日』は何千、何十万又は何百万年を含有していたので、ダーウイン派の主張と聖書の歴史は両立できる)
初めて出現した人間の男、アダムはエデンの園を守って畑を耕す事が任務であったが、エヴァという、彼と同じ肉体から成る『手伝い』が現れた。この段階では時間はまだ存在していないようだ、というのは、アダムとエヴァは生殖しない(生殖、誕生には、最終的には肉体の死に至る時間の逆算開始が伴うということが避けられない)性交渉もない、何故ならアダムもエヴァも『同じ肉体』から作られているから。
知識欲、自ら神のようになりたいという欲望のため、アダムとエヴァは知識の木の実を食べ、自分達が裸であることに気がつき(性交渉と繁殖の可能性を発見)天国から追放されてしまう。死への秒読みが、時間のサイクルの概念と共に開始(お前は地上に戻るであろう、何故ならお前は地によって捕らえられたのだから。そうだ、お前は砂塵であり、砂塵に戻るのだ)誕生と死の繰り返しによる周期的時間が始まる、そして更に、その後すぐに、嫉妬による殺人が起こる。アダムとエヴァの息子の1人であるカインが兄弟のアベルを殺害してしまうのだ。
YK
人間が時計と暦を発明して、一年を12ヶ月、一週間を7日、一日を24時間、一時間を60分、一分を60秒と設定した段階で、時間が一見、数学の分野、絶対的で曲げられない概念として仲間入りしたかのように見える。
私の個人的な話。
小学校高学年の頃、ダーウィンの『生命の起源』、天文物理学や考古学の本と出会い、遥か彼方の星の輝きが、出発して何年も(何光年も)かけて来たものであり、兄が収集していた化石が何百万年も昔の生命の生きた証であることを知って夢中になった。
都心の学校や音楽院から遠方の自宅への冬の帰り道は、オリオン座や大犬座の一等星シリウスなどを眺めながら家路についたものだ。そのような中で『時間』、とりわけ私が知る事ができない時間、過去の、そして遠い時間への想いが私の胸の中で大切な位置を占めていった。
人類にとっては、『過ぎ去った』時間は、生命、生きた証と同義語と言える。
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私は思春期の頃から俳句が好きだったが、時間の問題が俳句を基にした音楽作品を書く事を阻害していた。というのは、俳句はとても短い詩だが、音楽的アイデアを発展させるためには私はより長い時間を必要としたからだ。
俳句を基にして曲を作るためには、そのテキストを使うことが考えられる、とすると、歌曲を書くということになる。しかし、テキストを尊重する意味で、私はこの必要だった音楽的時間を埋めるために同じフレーズや同じ言葉を際限なく何度も繰り返ることをしたくなかった。
このようにして、俳句の世界と私の音楽はお互いに相容れないまま放置されていた。
器楽作品という形態が、結局私にとって真の解決策となった。アクセント、歌、リズム、、、実際の日本語による朗読が、音楽的フレーズに書き換えられた。
ここで一つ目の俳句『命二つの』を例に取り上げよう。
この3行の韻・・・
命二つの 中に生きたり 桜かな
・・・を日本語のテキストの音律とリズムに厳格に従って以下のようなメロディとして書き換えた。
・・・そして、ピアノの鍵盤が、俳句を読み上げたかのような印象だ。
曲の冒頭からフレーズ1が(命二つの)が違った音域で、そしてとりわけ違ったリズムで3度登場する。そして、フレーズ3の(桜かな)が2度強調されて同じ音域で繰り返され、フレーズ1(命二つの)が音域とリズムを変えて4度繰り返される。
もし、テキストの言葉や韻を上記のように乱雑に、文学的根拠もなしに語ったならば、軽薄な遊びとなり、芭蕉の詩情に対して不敬な結果となったことだろう。反面、位置の交換、繰り返し、一つの作品の内部での音やフレーズの順番を移動することは何も問題がない。むしろ、そのことは、意味と厚み、質感を与えることになる。複数の人間が話をすると、言っている事が理解できず、不協和音となってしまうが、その反対に、同時に弾かれる複数の音は、ハーモニーを作る。
このように、俳句の韻がピアノによって異なった音域で、時に速く、時には遅く、互いに応え合うように『語られる』時、聴衆は地上の普通の時間と異なった次元の時間に入リ込む。
地上の時間は線状で、果てしなく、無限定で、一定の形を持たない、又は、秒、分、、のように、螺旋状で、絶望的な程に一様に、均等に、数え分けられた単位である。一作品の長さは分と秒で測る事ができるとはいえ、聴衆からは数学的な計算としてではなく、命ある永遠を備えた作品、絶望的な程凡庸な、自然界の時間から奪い取られた、一つかみの超自然な時間、として知覚される。音楽は私達の時間の観念を実際に変容させ、日々生きて行くことを余儀なくされたのとは違った時間性に誘う。
YK
上記はダムニアノヴィッチ氏が松尾芭蕉の6つの俳句を基に作曲した『6つの俳句』の第一番『命二つの中に生きたる桜かな』の作曲行程で遭遇した時間との関わりの説明である。
外国人が、日本の俳句(フランス語訳ではあるが)に永年興味を持ち、そこから音楽作品を創造したということに、日本人として当然ながら感動を覚える。『俳句』とは5−7−5の韻と一つの季語が含まれる大変に短い詩である。
日本文化には、(私固有の表現であるが)『想像と共感』という美学が存在する。日頃の生活では礼儀を尊重するため、又は相手に想像し、事実を見極めてもらうために、総てを言葉にして言わない、ということだ。この日本人の特性は、時には欧米人の考え方と衝突したり、誤解を産む可能性を持つ。
しかし、この俳句に内在する『言葉の少ない空間』『隠れた時間』があったからこそ、作曲家が自身の感動を、洗練と暖かい人間性を持って披露することができたと言えるだろう。
アレクサンダー・ダムニアノヴィッチ作曲『6つの俳句』(金子陽子朗読とピアノ演奏)はこちらでお聴きいただけます。
時間の観念が『循環的』で、とりわけ『線状』である、というのは私も同感である。何故なら、英語、フランス語、日本語の3つの言語に於いては時間という言葉がいずれも同じ『流れる』(Flow, Couler)という動詞を採るからだ。
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セルビア語でも同じく、『時間は流れる』 време тече という表現を使っている。
YK
音楽に於いて時間は音楽的フレーズの展開と関連づけられている。
ここでは時間は、柔軟で、時には時を超えた印象を与える。
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芸術、とりわけ音楽は、永遠へと引き延ばす線状の時間と特殊な関連性を持つ。
芸術の使命とは、現実を再現するのではなく、変換(変容)させ、美化するートランス(変換)フォルメ(形成する)(文字通り「他の形態によって物を変化させる」ことだ)「他の形態によって物を変化させる」ことは、現実を否定することではなく、現実の中身を保持し別の『装い』を塗り、異なった材質の表現を与えることだ。それは当然ながら、この表現の材料が現実を醜化ではなく美化する、何故なら人類は地球を破壊する為ではなく地球の構築を続けながら、より美しいものにする為に存在するはずなのだ。
同様に、絵画芸術は現実を変換し、視覚が捉えた一瞬を表すものだが、過去に起こった物語を三次元の世界から二次元の絵画によって語るのではないだろうか(例えば、ロシア正教の伝統であるキリスト誕生の聖画のように、何日もの間に起こった複数の場面が一枚の画板に描かれている。これは先ほど述べた、俳句の楽曲化に際しての音楽的な論理と類似しているのではないだろうか)?!
私達一人一人はこのことを、バッハのアリアやコラール、又はシューベルトの作品、モーツァルトの緩叙楽章、ベートーヴェンの『田園交響曲』において感じることだろう。音楽は現実の時間を変化させるのではなく(時間というものは生きている者が体験したもの以外には実体を持たない)、内面から、私達の時間の感じ方を変換させる。変換するのは時間ではない、私達が「芸術」によって変化するのである。
それは、私達に地上の現実的物質的な生活から逃れて別世界を見させることができる、という芸術が掲げる目的で、私達が他の現実別世界を垣間見ることができ、我々に夢見る事を、今からすぐに、他の世界を築くことへ誘う。何故なら、この世界に生きながら他のより良く公正な世界、いつかやって来るかもしれない世界を夢見ることは意味がない。大切なのは今すぐこの世をより良い形で生きて行くこと、現実の時間から永遠の時間を構築するように試みること、そしてこのようにして今の生命を未来の生命へと繋げていくことだ。
YK
演奏の際の演奏家(私自身)又は指揮者の脳の中を想像してみよう。演奏者は自ら定めた予定をきちんと実現するために、
1)直後に演奏する音を前もって聴いていなければならない。
2)そして今演奏し響いたばかりの音を聴き、即断しなければならない。
3)その寸前に演奏した音との関係を考慮して、次にやってくる音の弾き方について超高速で判断を下さなければならない。
未来—現在—過去が、それぞれの音楽的フレーズと絡み合い、演奏家の頭で演奏中常に回転し続ける。
このように、演奏中、音楽家は常に自分がどこから来てどこへ行くのかを、会場の音響、楽器の状態又は共演者の状態も考慮に入れて知っていなくてはならない。
従って、記憶と音楽は、音楽的時間の制御の為にも切り離せないものである。
AD
もし、聖書の記述を参照するとすれば、そこにある無限で形のない楽園の時間が有限で切り取られた時間に取って代わられ、音楽家とはこの災厄を、過去、現在、未来(貴女が上記したように)を休み無く償う者なのだ。音楽家は絶望的な帰還(砂塵となっての帰還、死)を希望の帰還(音楽主題の再現は思い出であり、思い出とは心地良い物ということになっている)に代えようとするのだ。
YK
ところで、感情についてまだ話していなかった。
AD
確かに、感情について話す良い機会が訪れた。心地良い感情の思い出(音楽で主題を何度も繰り返すのは、その主題が好きであり、心地良いからだ)はつまり、償いの時間の再来である。
(4月号に続く)
(2021/3/15)
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アレクサンダー・ダムニアノヴィッチ (Alexandre Damnianovitch)
1958年セルビアのベオグラード生まれの作曲家、指揮者。ベオグラード音楽院で作曲と指揮を学び、パリ国立高等音楽院作曲科に入学、1983年に満場一致の一等賞で卒業。フランスに在住して音楽活動。まず、レンヌのオペラ座の合唱指揮者、サン・グレゴワール音楽院の学長に就任し、オーケストラ『カメラータ・グレゴワール』並びに『芸術フェスティヴァル』を創設。1998年にはパリ地方のヘクトール・ベルリオーズ音楽院の学長に就任し『シンフォニエッタ』オーケストラと声楽を中心とした『Voie mêlées』音楽祭を創設。1987年には、フランスの『アンドレ・ジョリヴェ国際作曲コンクール』、1998年にはチェコ共和国の国際作曲コンクール『ARTAMA』で入賞。
作曲スタイルはポストモダン様式で、ビザンチンの宗教音楽並びにセルビアの民族音楽からインスピレーションを受けている。主要作品として『エオリアンハープ』、『キリストの誕生』、『フォークソング』、『聖アントワーヌの誘惑』、『パッサカリア』、『叙情的四重奏曲』、『フランスの4つの詩』、『エルサレムよ、私は忘れない』、、等が挙げられる。
近年での新作は、フォルテピアノ奏者、金子陽子との共同研究の結果生まれた作品、『アナスタジマ』、『3つの瞑想曲』、『6つの俳句』、『パリ・サン・セルジュの鐘』などが挙げられる。
音楽活動と並行して、サン・マロ美術学院油絵科を卒業した他、パリのサン・セルジュ・ロシア正教(大学)神学部にて神学の勉強を続け、神学と音楽の関係についての論文を執筆中である。
(ラルース大百科事典セルビア語版の翻訳)
アレクサンダー・ダムニアノヴィッチ公式サイト(フランス語)の作品試聴のページ
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金子陽子(Yoko Kaneko)
桐朋学園大学音楽科在学中にフランス政府給費留学生として渡仏、パリ国立高等音楽院ピアノ科、室内楽科共にプルミエプリ(1等賞)で卒業。第3課程(大学院)室内楽科首席合格と同時に同学院弦楽科伴奏教員に任命されて永年後進の育成に携わってきた他、ソリスト、フォルテピアノ奏者として、ガブリエル・ピアノ四重奏団の創設メンバーとして活動。又、諏訪内晶子、クリストフ・コワン、レジス・パスキエ、ジョス・ファン・インマーゼルなど世界最高峰の演奏家とのデュオのパートナーとして演奏活動。CD録音も数多く、新アカデミー賞(仏)、ル・モンド音楽誌ショック賞(仏)、レコード芸術特選(日本)、グラモフォン誌エディターズ・チョイス(英)などを受賞。
洗足学園音楽大学大学院、ラ・ロッシュギュイヨン(仏)マスタークラスなどで室内楽特別レッスンをしている。
これまでに大島久子、高柳朗子、徳丸聡子、イヴォンヌ・ロリオ、ジェルメーヌ・ムニエ、ミッシェル・ベロフの各氏にピアノを、ジャン・ユボー、ジャン・ムイエール、ジョルジュ・クルターク、メナへム・プレスラーの各氏に室内楽を、ジョス・ファン・インマーゼル氏にフォルテピアノを師事。
2020年1月にはフォルテピアノによる『シューベルト即興曲全集、楽興の時』のCDをリリース。パリ在住。
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