聴覚と触覚の狭間とその向こう:高谷史郎「タンジェント」|能登原由美
聴覚と触覚の狭間とその向こう:高谷史郎「タンジェント」|能登原由美
Between auditory and tactile senses and beyond: Shiro Takatani “tangent”
2024年2月12日 ロームシアター京都
2024/2/12 ROHM Theatre Kyoto
Reviewed by 能登原由美(Yumi Notohara)
Photos by 井上嘉和(Yoshikazu Inoue)/写真提供:ロームシアター京都
総合ディレクション:高谷史郎 →foreign language
プロジェクト・メンバー:濱哲史、古舘健、白石晃一、細井美裕、南琢也
照明:吉本有輝子
舞台監督:大鹿展明
マネジメント:高谷桜子
音楽:坂本龍一
暗闇の中から何かを擦るような音が聞こえてくる。やがてほのかに明るくなると、竹箒のようなもので舞台の上を掃いている女の姿が現れた。サーッ、サーッ。シャラリ…、シャラリ…。枝先が床の上をゆっくり滑る音が耳をついてくる。それからあたりに散らばっていた黒いカードのようなものを取り上げ、小さな刷毛で表面の埃を払い始めた。こちらは幾分高くて軽い音だ。プラスチック製なのかもしれない。今度は中央の机に置いてあった瓶を取りあげ、中に詰まっていた小石をばら撒いた。ジャラジャラ、ジャラジャラ。音が波紋のように広がっていく。と、天井から瓶やラジオ、オブジェのような小物が静かに降りてきた。それらは机の上に着地した瞬間、隣り合うガラスや金属と触れ合ってさまざまな音を振りまいた…。
ダムタイプのコアメンバーとして活躍していた高谷史郎による舞台作品、「tangent」の冒頭部分だ。私自身が音楽を専門としていることもあって、どんな舞台でもまずは意識してしまうのが「音」。ここでは、それが一つのコアになっていたことは間違いない。いや、音楽や音響という構成物ではない。その原始の部分、「音」の生成のメカニズムがより重要なのである。「モノ」と「モノ」とが触れ合い、弾け合うことによって生み出される過程が露わになったのだ。空気も含め、何かと何かが接することで、「音」は初めて命を授かる。
だが、それだけに留まるわけでもないらしい。舞台では同時に、アーチ状に組まれた骨組みに沿って、弧を描きながら移動するライトが目を引いた。まるで太陽のようだ。下手から上手へと緩やかに動くことで、さまざまな影をも作り出していく。例えば、はしごの下に浮かび上がる黒い形。先の竹箒同様、床の上をゆっくり這っていく。刻々と形を変えながら。ただし、こちらは「音」を生み出すことはない。両者の違いは何なのか。もちろん科学的に考えれば何の変哲もないことだ。それでもなお、フロア表面で起きているミクロの世界を思わずにはいられない。
「tangent」とは、「接線」や「触れる」というイメージで、夜明け直前と日没直後の太陽光線が地球に接している場所や、何かが「触れ合う」ことで音が発生するなど、その接線/接点の中の「見える/見えない」「聞こえる/聞こえない」グラデーションの部分にフォーカスを当てたいと考えました。 (「tangent」プログラムノートより)
プログラムノートに書かれた高谷自身の言葉だ。
なるほど、「接する」あるいは「接線」という概念が、本公演の冒頭から私の脳裏によぎっていたことは確かだ。さらに言えば、それが日常的に聴いている音楽の根源的な部分であるという考えもすぐに浮かんだ。というのも、上述したパフォーマンスが展開される中で頭に甦ってきたのは、その2日前に聴いた和洋の楽器のための新作。すなわち、藤倉大の《三味線協奏曲》(注)。三味線奏者が撥(ばち)や指を使って糸(弦)を弾き、擦ることで生み出される音は、それが生まれる瞬間、つまり「触れる/さわる」時点と地点が重要な要素となっていた。ゆえに、発音時よりもその後に続くノイズの少ない均質な響きの方を重視する西洋楽器群との違いを、改めて認識させるものでもあった。はからずもそれは、ここで高谷が言わんとする「接線」であり、音が出る/出ないの「境界」が俎上に上がっていたと言えるのではないか。三味線の極意の一つとも言える「さわり」の起源も、諸説あるとは言えやはり、「触り」、すなわち触覚的意味に何らかの関係があると思われる。そうだとすれば、「触る」「接する」という概念は、古くから「音」と結びついていたと考えることもできるだろう。
いささか脱線しすぎたかもしれない。だがやはり、2つの作品には通じるものがあるように思われてならない。音を知覚するのに必要な感覚は「聴覚」だが、これらにおいて先鋭化されていたのは「触覚」。少なくとも、本公演についてはタイトルも示唆するように、「触れる」ということが一つの核となっていたことは間違いない。
「触れない」ことによって逆説的に「音」を意識させる場面もあった。例えば卓上に置かれたラジオ。人々の声が聞こえてくる。絶えずそのトーンや形を変えながら。だが箱自体は静止したままだ。それ以外には何も見えない、何かと接することもない。ただ、耳に飛び込んでくるものだけを通じて、小さな箱の向こうに何かがあることを感じ取っている。この時「音」が、存在と存在を引き合わせる接点として我々の眼前に屹立している。
次の場合はどうだろう。中央に吊り下げられた球体が女の周りを回っている。最初は緩やかに、少しずつ速さを増しながら。その動きに合わせるように鳴らされる合成音。球の旋回に合わせて徐々に間隔を縮めていく。やがて極限まで加速すると、圧縮された音は巨大なビート音と化して舞台を埋め尽くした。体全体、空間全体を埋め尽くす大音響。制御不能になった音の大洪水に飲み込まれ、もはや息もつけなくなりそうだと思った瞬間、女が球を掴んで回転を止めた。音もぴたりとやんだ。突如として、辺り全体が無音に覆われる。この瞬間、私の中で研ぎ澄まされたのは、失われた音のありかを探し求める聴覚ではなく、球体を止めたその手の肌触りを想像する触覚。これらはいずれも、聴覚と触覚の狭間をたゆたう「音」の提示だったのではないだろうか。
一方で、本公演では五感だけではなく、「音」の生成に関わる「モノ」の存在を、改めて意識させることにもなった。
暗闇の中で何かが弾けるような音がする。バチバチと、火花を散らしながら何かが轟いている。その正体は、中央に吊り下げられた黒い板。一人の人物がペンのようなものを板の上に滑らせると、音と閃光が浮かび上がる仕組みだ。そればかりか、黒板上を走るペン先の軌跡が、そのまま背面にあるスクリーンに映し出されていく。
これは、音が視覚に働きかける、あるいは、光が聴覚を刺激する様子を表していたのかもしれない。ただ、こうした聴覚と視覚の相互作用や両者の共時的関係性については古くから認識されてきたものだ。むしろ、この場面も含めて気になったのは、光や音に含まれる「物質的な」側面。いや、光も音も手で捕まえることのできないものなのだから、この言い方は奇妙かもしれない。けれども、さまざまな「モノ」の溢れる現代社会においては、我々が光や音を知覚し、あるいはその違いを区別するのは、こうした「モノ」を介してであることが圧倒的に多い。例えば、幕開けとともに聞こえてきた音は、箒やカードの摩擦によって発生したもの。その素材によって響きが異なることも、我々はすでに知っている。また、光はライトによって生み出され、大小の建物によって作り出される陰日向が至る所にある。もちろん、人間の手が全く入っていない原生林を、何一つ身につけず歩けば違うのかもしれない。が、そのようなことは21世紀の今となっては恐らく不可能だ。我々の感覚にまとわりつく「物質性」。これこそ、終演後もしばらく私の胸の中で疼いていたものだった。
新しいテクノロジーを駆使し、さまざまな仕掛けを用いれば用いるほど、我々は「モノ」を介した知覚、それに支配された感覚しか捕えられなくなる。これは批判というより現実、そして未来の姿だ。その自覚を促すことになったという点において、非常に有意義な公演だったように思う。
(2024/3/15)
(注)いずみシンフォニエッタ大阪第51回定期演奏会による(指揮:飯森範親 三味線:本條秀慈郎 2月10日@住友生命いずみホール)
—————————————
Artistic Director: Shiro Takatani
Project Member: Satoshi Hama, Ken Furudate, Koichi Shiraishi, Miyu Hosoi, Takuya Minami
Lighting Design: Yukiko Yoshimoto
Stage Director: Nobuaki Oshika
Management: Yoko Takatani
Music: Ryuichi Sakamoto