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円盤の形の音楽|「アレクサンドル・トラーゼ」|佐藤馨

「アレクサンドル・トラーゼ」

Text by 佐藤馨(Kaoru Sato)

〈曲目〉        →foreign language
ベートーヴェン:ピアノソナタ第30番ホ長調 Op.109 第1楽章
アレクサンドル・トラーゼ(ピアノ)

〈URL〉
https://youtu.be/mw7hFF9JgZ8
NHK『スーパーピアノレッスン:大曲に挑む』第4回放送

このところ、音楽家の訃報が多いように感じる。昨今の世に広がっている暗く閉塞的な雰囲気の中で、そうしたニュースを殊更に敏感に意識してしまっているだけなのかもしれないが、多くの音楽ファンにとっては衝撃的な報もいくつかあったように記憶している。人の死はいつも突然で呆気ないものだが、その人を好きでいればいるほど、喪失のやるせなさは大きく感じられる。人が死ぬというのは、一つの生き様が消えるということであり、それが音楽家であれば、一つの音楽が消失することでもある。もちろん、彼らが残してくれた録音などの記録はかけがえのないものであり、私たちにまだその人を思い、愛することを許してくれる。とはいえ、胸の内のどこかに佇む、喪失の念を慰めてくれるわけではない。
十数年前、NHKでは『スーパーピアノレッスン』という番組を放送していた。講師にマリア・ジョアン・ピレシュやアンドラーシュ・シフ等の世界的ピアニストを招き、彼らが音楽家を志す若い生徒たちにレッスンを行うという内容であった。一線で活躍するピアニストが自らのアプローチや音楽観を示してくれるという点で、この番組はとても興味深く、そして貴重なものだった。第1期「モーツァルト」のフィリップ・アントルモン、第2期「ショパン」のジャン=マルク・ルイサダ、それに次ぐ第3期「大曲に挑む」の講師が、アレクサンドル・トラーゼであった。
私はトラーゼというピアニストを全く知らなかった。この熊みたいな図体の人物が、果たしてこの番組の講師になるような大物なのか、最初は疑ってかかった。本当にそれは、自分の無知ということだったのだが、当時まだ小学5年生の私にとやかく言っても無駄だろう(今でも疑問なのだが、そんな時分に何を考えてスーパーピアノレッスンなんか見ていたのか)。それに、数回の放送を通してこのピアニストにすっかり惹かれていたのだから、結果オーライだ。
最初に惹かれたのは、しかし、トラーゼの音楽ではなく言葉だった。彼が作品と向き合う姿勢、考え方、そして演奏者に求めること、その端々に音楽への誠実さと愛を感じた。それが厳しさとして現れることもしばしばあった。レッスンという形態だからこそ見られた彼の言動は、その当時の私にも影響し、少なくとも自分と音楽との距離感を作る上では強烈に働いたように思う。
トラーゼへの愛着が決定的になったのは、ベートーヴェンのピアノソナタ第30番がレッスン曲目になってからだった。スーパーピアノレッスンでは大抵、放送の最後に講師による演奏が挿入されるのだが、第1楽章を扱ったこの回でも放送終盤にはトラーゼが演奏を披露していた。この時になってようやく、彼の音楽が私の心をとらえた。そして、それからずっと、今でも私をとらえ続けている。
あの静かな立ち上がりをどう形容していいのか分からない。最初の一音、水の中に指を差し入れるように、何の抵抗もなく、いつの間にか音が始まっている。そこからゆったりとしたテンポでじっくりと紡ぎ出されるフレーズは、まるで水面にそっと波紋が広がるように、落ち着きと柔らかさを伴って進んでいく。劇的な色付けからは距離を置き、情熱を見せびらかすことなく、代わって深い慈愛が彼の演奏を支えている。抑制された表現には一切の焦りが見られない。むしろ、この達観したテンポ感でこそ、この短い楽章が隠し持っていた宇宙が露わになってくる。トラーゼが響かせる硬質でありながら懐の深い音色は、星を見る夜空のように研ぎ澄まされ、あるいは星を生む爆発のエネルギーを秘めている。強奏はまさに、宇宙開闢の光の輝きを放っていて、それが最も人間的な慈愛の静けさと同居している。この音楽が内包していた何億光年もの広がりをまざまざと痛感させられる思いだ。
この演奏がきっかけで、アレクサンドル・トラーゼに完全に惹かれた。今でもかけがえのない記憶の一つであり、ピアノ演奏の一つの到達点だと思っている。しかし果たして、上に書いたのと同じことを、小学5年生の私も感じていたのだろうか。あるいは、言葉にするのに時間がかかったということだろうか。本来ならこんな感動は言葉が追いつくはずもなく、おそらく何十年経っても、どんな言葉を重ねるより、溜め息一つの方がよほど説得力に満ちているに違いない。けれども、今だからこそ、この類まれな演奏家の思い出を言葉にして刻んでおく必要がある。言葉にしないうちにいつの間にか消えてしまうものもあるだろう。アレクサンドル・トラーゼは5月11日にこの世を去った。69歳だった。
あの日以来、いつかベートーヴェンなど古典派を録音してくれないかと願っていたものだが、それはついに叶わなかった。今や、YouTube上にある当時の放送の録画だけが、思いを慰めてくれる。こうして大切な記録にアクセスできるのは、本当にありがたいことだ。

(2022/6/15)

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〈Tracklist〉
Beethoven : Piano Sonata No.30 in E major, Op.109, 1st movement
Alexander Toradze, piano

〈URL〉
https://youtu.be/mw7hFF9JgZ8
from NHK ‟Super Piano Lesson -Tchaikovsky: Piano Concerto etc.-”
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佐藤馨(Kaoru Sato)
浜松出身。京都大学文学部哲学専修卒業。現在は大阪大学大学院文学研究科音楽学研究室に在籍、博士後期課程1年。学部時代はV.ジャンケレヴィッチ、修士ではCh.ケクランを研究。博士では20世紀前半のフランスにおける音と映画について勉強中。敬愛するピアニストは、ディヌ・リパッティ、ウィリアム・カペル、グレン・グールド。