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東京フィルハーモニー交響楽団 第965回オーチャード定期演奏会 |秋元陽平

東京フィルハーモニー交響楽団 第965回オーチャード定期演奏会
Tokyo Philharmonic Orchestra 965th Orchard Subscription Concert

2022年2月27日 Bunkamura オーチャードホール
2022/2/27 Bunkamura Orchard Hall
Reviewed by 秋元陽平(Yohei Akimoto)
写真提供:東京フィルハーモニー交響楽団

<演奏>         →foreign language
指揮:井上道義
ピアノ:大井浩明

<曲目>
エルガー/序曲『南国にて』
クセナキス/ピアノ協奏曲第3番『ケクロプス』*(1986)〈クセナキス生誕100年〉日本初演
ショスタコーヴィチ/交響曲第1番
(アンコール)
ヨハン・シュトラウス2世『南国の薔薇』

 

ヨーロッパには東西だけではなく、もちろん南北もある。それは「南欧」「北欧」といった通称による区分にとどまらない。東西もまたそうであるように、南北というカテゴリは、欧州の諸地域がお互いに対して抱く、甘くそして多分に偏見に満ちた幻想によって、歴史的に彩られてきた。たとえば<北方>という言葉は、ロシア、北欧のみならず英国、果てはドイツまでそう呼ばれることがあるにしても、こうした実効的な地理区分よりもむしろ、想像力豊かなメランコリー、抑圧と規律が深い内面をつくりだす文化的土壌をはばひろく指示する。19世紀初頭、たとえばスイスの思想家・小説家スタール夫人の『ドイツ論』のような著作のうちにその原型が見出され、ロマン主義の胎動と時を同じくしてヨーロッパ各所でひろく受容された。
この演奏会はまず「北の人」エルガーの南国幻想から始まるが、野放図に咲き乱れる花々は、むしろ距離の生み出す憧憬によって育てられ、存在しないものの幻影として、その色彩を濃くしてゆく。そして、井上道義による演奏にはいつも、作曲家がはりめぐらしたさまざまなしがらみを理解しつつ、しかし一気にその先へ突き抜けてその音楽的な核を引き抜いてくる、なにかそうした、直観的な、特権的な瞬間がある。エルガーの憧憬のなかの「南」も、その時々、わななく弦の静まりのなかで、まったくその実在性を獲得してしまうときがある。空想の中で咲いた花が、ふと手に握られていたときのような驚きが。こうした映像性は、東フィルの資質にもよく結びついている。北と南、というコンサートのコンセプトは、井上と東フィルの持つこのイマージュの力を引き出すに相応しい。

クセナキスの『ケクロプス』も、その<南>にして、ヨーロッパのひとつのオリジンと目されてきた、そういう場所からやってきた音楽だが、エルガーの<南>とはその相貌こそ随分異なる。ここには<南国>のイマージュが描出されているわけではない。だがきわめて土臭く、そして破壊的におおらかな、生けるものがあまねく噴出している何らかのエネルギーにおいて、共通するものがないわけではない。雲霞のごとく羽音を立てる音の原子のひとつひとつは明晰に聴き取れないし、その配列を支える数学的処理もまた、野々村禎彦による卓抜な解説曰く、建物のコンクリート配合作業にあたるので認識する必要もないのだが、これらは集合的次元でひとつの昏い表象を形作る。漠然たる全体と、それを構成する無数の微小表象は、どこか人間の身体内部のざわめきにも似ている。血管の脈動、あるいは筋肉の蠕動――その意味では、ル・コルビュジエのコンクリートよりも、はるかになじみ深い原初の音だ。そして井上は、クセナキスを文字通り身体化して、この雲霞と「踊る」のである!(思えばわたしは中学生くらいのとき、コンサートでこの人が指揮しながら舞うのを見てたいそう驚き、それがそのままわたしにとっての<指揮者>の原風景となったようなところがある)。クセナキスの音群は身体であり、身体はつねに戦い、自己を主張しているのだ。ところで、二階席前列からは、オーケストラの音圧によって聴き取ることができなかった部分もあったものの、ソリスト・大井浩明の演奏は前評判に違わず驚きに満ちたものだった。楽譜と聴取を突き合わせることができるわけではないし、この特異な音楽体験を言語化することにはかなりの困難がつきまとうが、大井の演奏は、激しい運動要求が自然に作り出しかねない惰性の「ノリ」やグルーヴのようなものを統御、遮断し、むしろフレーズそのもののなかに潜んでいるさまざまな劈開にしたがうことで、それをさらに押し広げていくようだった。リズムの諸部分同士が互いに弾き合うようにして自律的に複雑化し、それらがオーケストラのなかから突如ポップアップして、再び沈んでいく。最終音の決然とした重い響きが、オーケストラが去ったのちも胸の奥にずっしりと残留する、これは、エルガーのもとめたヴァカンスの目的地としてのエキゾチックな<南>ではないかもしれないが、剥き出しの生命の抑圧なき噴出という意味では、<北>の憧れたものかもしれない。

ショスタコーヴィチの第一番に至って、われわれは一転、<北>の最果てにたどり着く。重苦しい軽快さとでも言うべき複層性、外的世界との否応ない分離を強いられるなかで強度を増してゆく内心の深まり、躊躇いながらその分断を辿る井上はしかし、「それでいいのか?」と作曲家に問いかけるように、しばしばショスタコーヴィチ自らが引用やアイロニーを通して敷いた防衛線を乗り越えて、情緒的な、直接的な基底を、あざやかに、例えばヴィオラへの一瞬の指示によって、あるいはティンパニの鋭い打点から抉り出し、空間に投射する、そういう極彩色の瞬間を作り出す。井上の信じる音楽は、この点、分裂やアイロニー、タテマエではなく、もっと触知できる何かにあるのだというように。どうだろう、あるいは聴いているこちらがそう思っただけだろうか。


<北>のなかに響く複数の声は、アンコールの『南国の薔薇』で、再び<南>への憧れのなかに平和的に回収されて消えていくようにも思えたが、井上がこのアンコールは「楽しく終わる」ためだと敢えて言ったとき、それは音楽を通してなにかを解決する(という幻想を共有する)のではなく、むしろこのような安易な相互理解の幻想を拒否し、わだかまりを可視化し、観客に直面させ、残して去っていくことを意味しているようだ、まるで…。

 

 

(2022/3/15)

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<Performers>
Conductor: Michiyoshi Inoue
Piano: Hiroaki Ooi

<Program>
Elgar: Overture “In the South”
Xenakis: Keqrops – Κεqροψ (Κέκρωψ) Celebrating Xenakis’ 100th anniversary Japan Premiere (World Premiere: 1986)
Shostakovich: Symphony No.1
(Encore)
Johann Strauss II: Rosen aus dem Süden