Menu

Pick Up (2021/7/15)|サントリーホールでバレンボイムを聴くことには、どんな意味があるのだろうか?|田中里奈

サントリーホールでバレンボイムを聴くことには、どんな意味があるのだろうか?

Text by 田中 里奈 (Rina Tanaka)

22,000円のチケット、しかも平日の晩の公演の。それになんの躊躇なく、時間と財布を空けられる人がいったいどれだけいたのだろうか。結論から言うと、サントリーホールを埋められる程度にいた。彼らは誰のためにそのリソースを投じたのか。ダニエル・バレンボイムによるピアノ・リサイタル1に、である。もちろん、ある演奏会に時間と資金を投じるだけの余裕が観客にあるかどうかと、投じたリソースに見合った見返りを観客がそこから得られたか(または得られるべきか)という問題は、まったくの別物だ。後者の発想は、興行という観点に欠かせないが、とりわけ注意して取り扱われるべきだろう。これについては、本稿の後半で触れよう。

2021年6月3日、筆者撮影

私はというと、22,000円のチケットを買うことに躊躇が無かったかといえば、むしろ躊躇しかなかった。過去に私が足を運んだ多くの気まずい現場と比べて――観客の大多数がファンで構成された一部のライブ・コンサートやミュージカルよりも(ファンではない立場でそこにいるのは結構しんどい)、あるいは、自分がまったく外様の立場を経験することになったヴィーン市内のカバレットよりも(笑いに取り残される感覚はどんな文化圏でも気まずい)――、サントリーホールにいると、自分が途方もなく場違いな存在だと思わされる。幕間にロビーに出ると、ウンザリ感はいっそう強まる。ロビーのどこへ行っても観客同士が知り合い(または見るからに音楽業界の関係者)なので、息継ぎをする場所がすっかりない。それで結局、ホールの外に出て、演奏が再開する直前に息苦しいホールに戻ってくる。演奏以外の局面で緊張が続くので、仕舞いにはクタクタになっているのがつねなのだ。

それにもかかわらず、なぜ高いチケットをわざわざ取ったか? そもそもチケットを予約したのは、「ダメでもともと」だった。演奏会からひと月ほど前、どうせ売り切れているだろうと高を括ってチケットの予約ページを覗きに行ったとき、チケットが完売していなくてショックだったからかもしれない。その時、たしかに私は、日本国外で近い将来行われるであろうバレンボイムの演奏会に行ける見通しが現状まったく立っていないのだから、彼が来日する時にはぜひ足を運んでおきたいと思ってはいた。昨年5月のスピーチを聞いた後で、彼がどんな風に日本で演奏して、それを自分がどんな風に聴くのかが知りたかったのだ。

「この危機と付き合っていくのはなんと困難なのでしょうか」

3sat, 8. Mai 2020

2020年5月8日、ドイツ・ベルリン国立歌劇場管弦楽団の音楽監督として、バレンボイムはドイツ終戦記念日の無観客コンサートに臨んだ。それはドイツに限らず、世界中で多くの音楽家が演奏活動を制限される中での出来事だった。その時の発言は、今年2月にも本誌で部分的に言及した2。このスピーチは、初めから最後まで、非常な慎重さと細やかな気配りに裏打ちされた、彼の強い意志表示という行為に他ならなかった。あえて全体の内容をここで確認したい。

皆様こんばんは。ベルリン国立歌劇場管弦楽団と私は、本日ここで演奏できることを大変光栄に思います。それを実現してくれたZDFと3satに感謝します。1945年5月8日は単に第二次世界大戦が終結した日ではありません。それは新たな始まりでした。それはドイツという国だけでなく、世界全体の新たな始まりでした。だから、歴史上大切な日なのです。

この演奏は私たちにとって大変光栄で喜ばしいことです。私たちは演奏できないことが寂しかった。3月13日以来、私たちは休業中でした。もし、この焦眉の危機に際して、二言申し上げることが許されるのなら、誰もが先刻承知のことですが、この危機と付き合っていくのはなんと困難なのでしょうか、この数週間にわたり、政府が行ったことはなんと素晴らしかったでしょうか。

最も優先されるべきは健康です。第二には、この危機に対する経済政策です。けれど今、第三のことが鑑みられるべきです。「文化」という言葉がまったく聞こえて来ないのです。耳にするのは、文化や音楽家たちに対して経済的に何ができて、何をすべきかということだけ。それはもちろん大事です。けれど、どうか忘れないでください。音楽が成立するのは、空間においてだと。私たちが認識すべきことは、私たちが演奏できること、そして聴衆がそれをライヴで鑑賞できることです。膝を折ってお願いします。責任者の皆さん。強く、けれど非常に慎重に、強力な想像力を絞り出して頂きたい――どうすれば、私たちは演奏を再開できるのかを。ありがとう。3

このスピーチに、私は色んな意味でショックを受けた。まず、バレンボイムの腰の低さに対して。次に、芸術家が政治的発言をする際、いったい何が芸術家にとって喫緊の問題で、何がそうではないのかを、順序立てて、ていねいに説明することがいかに重要なのかということに。そして、このスピーチはきっと――あくまでも私の予想でしかないが――熟慮と校正の上に生み出されたものであろうということに。いずれの点も、今日の傾向と果てしなく逆行しているのだ。

そう思ったのは、バレンボイムのスピーチから少し前の4月22日の、NHKの情報番組『おはよう日本』における劇作家・平田オリザの発言が炎上していたことと関係する。彼はインタビューの中で、政府の支援策について聞かれて、次のように答えた。

非常に難しいと聞いています。フリーランスへの支援に行政が慣れていないということが露呈してしまったかなと思います。1つには、小さな会社でも「融資を受けなさい」と言われているのですが、まず法人格がないところが多いと。それから、ぜひちょっとお考えいただきたいのは、製造業の場合は、景気が回復してきたら増産してたくさん作ってたくさん売ればいいですよね。でも私たちはそうはいかないんです。客席には〔ママ〕数が限られてますから。製造業の場合は、景気が良くなったらたくさんものを作って売ればある程度損失は回復できる。でも私たちはそうはいかない。製造業の支援とは違うスタイルの支援が必要になってきている。観光業も同じですよね。部屋数が決まっているから、コロナ危機から回復したら儲ければいいじゃないかというわけにはいかないんです。批判をするつもりはないですけれども、そういった形のないもの、ソフトを扱う産業に対する支援というのは、まだちょっと行政が慣れていないなと感じます。4

なお、バレンボイムのスピーチがあったちょうど同日、平田はTwitter5と青年団のホームページ上6で同件に関する声明を発表している。いずれの声明も、上記の回答の中から、「製造業の場合は、景気が回復してきたら増産してたくさん作ってたくさん売ればいいですよね」という部分が切り取られて拡散されたことに対する苦情である(平田はこれについて、「本当に悪意のある引用としか言いようがありません」と断じ、「いわゆる「自粛警察」の変化した形態と言えるかもしれません」とも述べている。これもまた、私による恣意的な切り取りの一形態でしかないので、気になった方はぜひ注から全文を確認してほしい)。

さて、バレンボイムと平田それぞれの発言の目的は、コロナ禍における芸術活動への行政支援の要請という点で、ほぼ一致している。にもかかわらず、発言の内容と方法には大きな違いがある。より具体的に言うと、ここでのバレンボイムの発言は、彼の発言の目的に一致しない副次的な議論を極力起こさないよう、非常に配慮された言葉で構成されているが、平田の方はそうではない。それを発言者双方の立場や経験に還元するのは短絡的ではある。だが少なくとも、私たち聞き手の方が、バレンボイムの発言と、彼がこれまで経験してきた政治的に極めて繊細な局面とを結び付けてしまいがちなことは事実だろう。

「ベートーヴェンを演奏する権利はどこからくるのか?」

1999年、イスラエルとアラブ諸国から集まった若い音楽家たちから構成されたウェスト=イースタン・ディヴァン管弦楽団をエドワード・W・サイードと共に始動したことも、2001年にイスラエル音楽祭で『トリスタンとイゾルデ』の一部をアンコール曲として取り上げたことも(1938年以来、リヒャルト・ヴァーグナーの音楽はイスラエルでタブー視されてきた)、さらに、彼の拠点のひとつであるベルリン国立歌劇場の監督をめぐる議論へのごく理性的な対応も(2000年にベルリン議会のキリスト教民主主義同盟(CDU)を当時率いていたクラウス・ランドウスキが「ユダヤ人バレンボイム(Jude Barenboim)」と発言し、物議を醸した7)、バレンボイムは「他者」に晒され続け、また「他者」としての自分の立場をつねに明確にせざるをえなかっただろうことは、私の想像の域を出ないが、想像に難くない。それは、彼が生み出した音楽そのものの問題というよりも、アルゼンチン生まれのロシア系ユダヤ人としての彼のアイデンティティと、若干10歳で国際的な音楽界にデビューしてから彼の音楽生活を取り巻いてきた複数の社会的状況に関わる問題だ。

Parallels and Paradoxes (2002, 画像はBloomsburyによる2004年版)

「それでは、おまえがベートーヴェンを演奏する権利はどこからくるのか? ドイツ人ではないのに(Well, what gives you the right to play Beethoven? You’re not German)」8。バレンボイムが2000年にエドワード・W・サイードと行った対談で発した問いだ。その答えはバレンボイムの演奏活動が示してきた。だが同時に、この問いは彼個人の問題に留まらないし、ある民族間関係のみに特有の問題と捉えるべきでもない。この問いに目を通した時、私が覚える緊張をなかったことにすることは不誠実だと思う。

そのように考えていくと、「東京のサントリーホールで、バレンボイムによるベートーヴェンのピアノ・ソナタの演奏を聴く」という行為にも、何らかの意味があったのではないかと考えてみたくなる。その答えを出すことが本稿の目的ではないのだが、あえて私が居合わせた回の体験を基にして、もう少しだけ考えを巡らせてみたい。

「他者」に出会うために

私がサントリーホールに赴いた6月3日の晩は、上記について考えるための切り口を提供してくれた。本来演奏される予定だったピアノ・ソナタ第1番~第4番ではなく、何の前触れもなく、第30番~第32番が演奏されたからだ(バレンボイムは来日中、全5回の公演で3つの異なるプログラムを演奏することになっていた)9

幕間のアナウンスで演奏の変更が事後的に伝えられ、さらに終演後にバレンボイム自身が登場して、観客に対して英語で謝意を伝えたとき、私の心中は複雑の極みだった。なかでも、バレンボイムの発言(「特定の楽曲を聴きたくてここへ来たのに別の曲目を演奏されたら、幸せにはなれないだろう」)は、通訳による意訳(「今日の演奏を皆さま方は十分お楽しみ頂けたと思います」)、それにタイミングを逸し続ける拍手――観客の中でも、英語話者の拍手はバレンボイムの発言の直後、通訳の発言に被って生じ、また非英語話者の拍手と笑い声は通訳の発言後に起こった――のせいで、とても異なる何かに変わってしまっていた。

「幸せになれない」プログラムが「十分お楽しみ頂けた」と言い換えられたことを、私は通訳の際にたびたび起こりうるボタンの掛け違えだとは決して思わない。この出来事から振り返って考えてみると、少なからぬ観客が求めていた(と主催側が意図していた)ものは、バレンボイムが何をどのように演奏するかではなく、バレンボイムがただそこに存在するという事実そのものであったように思えてならない。

私は、「巨匠(の演奏)は素晴らしい」という結論ありきでコンサートホールに足を運ぶことが問題だと、ここで断じるつもりはない。だが、こうした観客こそが、「22,000円のチケット、しかも平日の晩の公演の。それになんの躊躇なく、時間と財布を空けられる人」であり、彼らがいなくてはクラシック音楽の業界は成り立たない。それは興行の問題だ。しかし、それでも指摘しておきたいのは、結論がすでにある体験について自分の心と頭を使って「考える」のはいっそう困難だということだ。すでにある価値に基づいて判断する行為は簡単だが、自分がどう判断するかわからない未知のものに向き合い、それを一つひとつ自らの感覚で確かめ、心と頭の双方でそれが何だったのかを考えることはとても疲れる。この後者の事象こそがきっと、「他者」と知り合うということなのだろう。

門外漢が偉そうなことをダラダラと述べたが、私はというと、予定と変わってしまった曲目を、その晩のバレンボイムの演奏を、心ゆくまで楽しんだ。第32番第2楽章の、瞬間と永遠が重なり合うような不思議な境地は未だに忘れがたく、不可逆のあの時間の謎をもっとよく知りたいと思った。ただし、しつこいようだが、それを享受することができるのは、22,000円と平日夜の時間を差し出せる人に限られているという事実を忘れてはならない。それができる人は今日ますます限られているのだ。

彼の演奏から感じたものと、この演奏会を興行として見た時に感じた違和感とは、私の中に分かちがたく共在している。その矛盾を私は見つめたいし、その現実から私たちは考え始めるしかないだろう。

  1. 「ダニエル・バレンボイム ピアノ・リサイタル ~ベートーヴェン ピアノ・ソナタの系譜~」2021年6月2日~4日、サントリーホール 大ホール、テンポプリモ/サンライズプロモーション東京/日本経済新聞社主催。
  2. 田中里奈「特別寄稿:ジルヴェスターとニューイヤーは何のためにある?」『メルキュール・デザール』vol. 65、2021年2月15日
  3. 3sat, “Gedenkkonzert 75 Jahre Kriegsende: Daniel Barenboim – Staatskapelle Berlin”, 8. Mai, 2020.
  4. NHK「「文化を守るために寛容さを」劇作家 平田オリザさん」『おはよう日本』2020年4月22日放送。
  5. 2020年5月8日の発言、https://twitter.com/ORIZA_ERST_CF/status/1258444315426078720
  6. 平田オリザ「NHKにおける私の発言に関して」青年団、2020年5月8日。
  7. Berliner Tageszeitung, “Gestern fiel das schönste Ja in Berlin”, 23. Oktober 2000.
  8. Barenboim, D. and Said, E. W., 2002. Parallels and Paradoxes: Explorations in Music and Society, New York: Vintage, p. 9(『バレンボイム/サイード 音楽と社会』中野真紀子訳、みすず書房、2004、p. 11).
  9. 主催者のテンポプリモは、「2公演セット券」を購入し、なおかつ払い戻しを希望する観客に限り、3日公演のチケット代金を払い戻すと翌4日に発表している(「ダニエル・バレンボイム 6月3日・4日の公演について【お詫びとお知らせ】」、2021年6月4日)。

(2021/7/15)