京都市交響楽団特別演奏会「ニューイヤーコンサート」|西澤忠志
京都市交響楽団特別演奏会「ニューイヤーコンサート」
The Special Concert of the City of Kyoto Symphony Orchestra
“New Year Concert”
2021年1月10日 京都コンサートホール
2021/1/10 Kyoto Concert Hall (Main Hall)
Reviewed by 西澤忠志(Tadashi Nishizawa)
写真提供:京都市交響楽団
〈曲目〉 →foreign language
伊福部昭:管弦楽のための「日本組曲」から第4曲「佞武多」
伊福部昭:二十絃箏とオーケストラのための「交響的エグログ」
(休憩)
池辺晋一郎:ワルツと語ろう(世界初演)
武満徹:「3つの映画音楽」からワルツ-「他人の顔」より
ドリーブ:バレエ音楽「コッペリア」からワルツ
ハチャトゥリヤン:組曲「仮面舞踏会」からワルツ
チャイコフスキー:バレエ組曲「眠りの森の美女」からワルツ
(アンコール)
井上道義:オペラミュージカル「降福からの道」からポルカ
〈演奏〉
指揮:井上道義
箏:LEO(今野玲央)
管弦楽:京都市交響楽団
今回の公演で喝采を博したのは、伊福部昭の2曲だ。
しかし、筆者にとって興味深いと感じられたのは池辺晋一郎の新作だった。
なぜなら、伊福部昭の曲がハイカルチャーやロウカルチャーといった同時代的な文化を包摂し、誰でも快く迎えてくれる(今となってはフィクションではあるが)「古き良き田舎」を表すものだとしたら、今回の池辺晋一郎の作品は「都市」での近代日本以来のワルツ(延いてはクラシック音楽)との接し方を表したものという、それまでのある意味「日本的」と呼ばれてきた作品とは異なる立場から見た日本を提示した作品に思えたからだ。
まずは伊福部昭の《管弦楽のための「日本組曲」》から「佞武多」。
トムトムなどの打楽器の音が強調され、初演の際の演奏よりも遅い、大地を踏みしめる重厚感のあるリズムを刻む。この中で、中低音の弦楽器によるオスティナートのメロディが、井上のエネルギーとぶつかり合いながら徐々に高揚する。そしてオーケストラによるメリスマのついたお囃子とトムトムの鋭い響きが合わさり、会場全体が興奮の坩堝と化す。ここまで激しく且つ重々しく、圧倒され、五臓六腑に染み渡る《佞武多》はない。
次に伊福部昭の《二十絃箏とオーケストラのための「交響的エグログ」》。
「エグログ」とは牧歌的な対話の意味。伊福部昭の言葉によると、「西洋のオーケストラと日本の箏とを合わせることで、オーケストラの持つ引き延ばされる低音の美と、箏が持つ瞬間的な高音の美とを対話するように作曲した」という。地を這う重厚なメロディを背景に華麗に舞う二十絃箏。しかし、オーケストラと二十絃箏とが長閑に語り合うだけではない。Allegroでは、歌垣を思い起こさせるほど互いに踊り合う激しさを見せる。厳しく鋭い音、柔らかなアルペジオといった、二十絃箏が持つ多様な表情の変化に驚かされた。演奏が終わった瞬間に拍手が起き、しばらく鳴りやまなかったことは、この作品と演奏が聴衆の胸に迫るものだったことを物語る。
明治時代以降の西洋音楽受容の中で、特にクラシック音楽と呼ばれている音楽を受容する際には、恋愛を題材にすることや男女が踊るといった性的側面、雑種性、リズムによる陶酔感を排除した上で受容してきた。しかし現在では、クラシック音楽とJ-POPなどのポピュラー音楽を同じ程度聴取する「文化的オムニボア(雑食性)」が進んでいる。西洋音楽の受容において人々が排除してきた部分を受け入れることでハイカルチャーとロウカルチャーの両面を合わせ持った伊福部昭の作品は、今後、さらに多くの人々を引き付けるだろう。その先に見るのは、かつて伊福部がアイヌの人々との交流の中で体感した、誰でも快く引き受けてくれる理想上の「古き良き田舎」だろうか。
池辺晋一郎の新作《ワルツと語ろう》は、井上により「made in japan=『自分化したワルツ』があっても良い」ということから委嘱された作品である。
作品全体の構成は序奏、第1から第5ワルツ、コーダというウィンナーワルツの形式。序奏では、打楽器の一撃を合図に木管楽器の細かいパッセージに導かれ、金管のファンファーレが響く。この後に弦楽器を中心にした第1ワルツが始まる。第2ワルツはオーボエとコーラングレ、ヴァイオリンを中心にした短調のワルツ。第3ワルツはヴァイオリンに始まり各楽器にメロディが受け渡されるワルツ。第4ワルツは弦と金管のゆったりとしたメロディの中に、2倍の速さのメロディが急に入るワルツ。そして第5ワルツは、メロディが各楽器に渡される3+2による五拍子のワルツ。最後のコーダでは序奏と第1ワルツのメロディが繰り返され、ヴァイオリンとフルートによる高音が張り詰めた中で、金管と打楽器によって幕が下ろされる。ここまで様々なメロディが繰り広げられるワルツは聴いたことがない。
プログラム・ノートの池辺の言によれば、今回の作品のためにロシア風、ポリメーター、《テイク・ファイヴ》などの「ワルツという人格」と「対談」したとのこと。「対談」という言葉から、池辺と相手との間に、ある一定の距離があることを感じさせる。
「made in japan=『自分化したワルツ』があっても良い」というのが、今回の作品を委嘱した井上の目的である。しかし、「日本製の(made in japan)」ワルツと見なされている《美しき天然》をジンタやサーカスを通じて聴く人々はいたが、その旋律にのってワルツを踊ったわけではない。それと同時期に「本場の」ワルツは鹿鳴館などで演奏はされたが、それを踊る(あるいは踊れる)日本人はほとんどいなかった。現在でも、ワルツを踊ろうとする日本人はほとんどいないだろう。そして、こうした風景はあくまで西洋の楽器が揃い、演奏する場が整えられた「都会」での風景である。
二人で踊る「本場の」ワルツの在り方とは異なる日本のワルツ受容(特に都会での)、すなわち、あくまで聴く立場にとどまるという受容形を考えるなら、《ワルツと語ろう》で池辺はワルツを自分のものとして受け入れた(「自分化」した)のではなく、ワルツと距離をとる日本人である「自分」の立場から、それぞれの作品の「ワルツの人格」を読み取り、それを組み合わせた。だからこそ、古今のワルツが持つ多様な「人格」の中から一つだけを抽出して自分のものにすることはなかったのだろう。これによって本作は、より多様なメロディや拍子を含む、ワルツの可能性を広げる作品となった。「日本人」というクラシック音楽とは距離のある立場から、何か新しいものを見出すことが出来た好例として、池辺の新作は意味を持つだろう。それだけではない。作品に表れた「距離感」の先には、様々な人々が混じり合うことなく、ただ存在しているだけの「都会」の風景があるのだろうか。
参考文献
井上道義、安田奈緒美(文)「フィナーレ オーケストラの未来は」『産経新聞』大阪夕刊2020年3月11日、2面
伊福部昭「自作を語る」『伊福部昭の芸術6 亜』キングレコード、2003年
片山杜秀(編)『伊福部昭』河出書房新社、2014年
「京響 特別演奏会「ニューイヤーコンサート」」『井上道義オフィシャルウェブサイト』
「井上×京響 特別演奏会「ニューイヤーコンサート」終了しました!」『京都市交響楽団オフィシャルブログ』
(2021/2/15)
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西澤忠志(Tadashi Nishizawa)
長野県長野市出身。
現在、立命館文学先端総合学術研究科表象領域在籍。
日本における演奏批評の歴史を研究。
論文に「日本における「演奏批評」の誕生 : 第一高等学校『校友会雑誌』を例として」(『文芸学研究』22号掲載)がある。
Akira Ifukube: Japanese Suite for orchestra – No.4 “NEBUTA, Festal ballad”
Akira Ifukube: Églogue symphonique pour koto à vingt cordes et orchestre
Shin-ichiro Ikebe: Let’s talk with Waltz (World Premiere)
Toru Takemitsu: “Three Film Scores” – Waltz from “Face of Another”
Léo Delibes: “Coppélia”, ballet music – Waltz
Aram Khachaturian: “Masquerade”, suite – Waltz
Pyotr Tchaikovsky: “The Sleeping Beauty”, ballet suite – Waltz
(Encore)
Michiyoshi Inoue: Polka from Opera Musical “A Way from Surrender”
〈cast〉
Conductor : Michiyoshi Inoue
Koto : LEO (Leo Konno)
City of Kyoto Symphony Orchestra