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五線紙のパンセ|道、海、過程、変化|黒田 崇宏

journey, wander; haziness, fogginessの譜例01 (スケッチ版)

道、海、過程、変化

Text by 黒田 崇宏 (Takahiro Kuroda):Guest

今回の文章は昨年に作曲したヴァイオリンとバスクラリネット、ピアノのための《journey, wander; haziness, fogginess》(音源: https://on.soundcloud.com/L2wh1aph5AETLZeK6)について書くことから始まり、最近読んだ本を通して考えたことに繋げていこうと思う(前回の文章に関係してくる部分もあるので、そちらにも目を通していただけるとありがたい)。

journey, wander; haziness, fogginessの譜例01 (清書版)

この《journey, wander; haziness, fogginess》という作品は、プログラムノートで「各楽器は異なる音の連なりを演奏します(但し、ピアノはブル・タックというもので事前にミュートされた音から成る声部の音の連なりと通常の音から成る声部の音のそれを二つ、時折三つを同時に演奏します)」と書いたように、複数の「音の連なり」から成るシンプルな音楽だが、それら音の連なりの各々が、始まりも終わりもない、どこからか来てどこかへ向かっていく過程の一部分を抜き出した、という感覚が作曲時の自分の中にはあった。曲名に英語のjourneyという、比較的長い旅行のことを指すが、過程や推移に重きを置く単語を用いたのもそこから来ている。音の連なりたちの過程はそれぞれが独立して動いており、「各々同じテンポや拍子を共有していますが、異なる拍の分割をしているため、恰も異なるテンポや拍子で演奏しているかのよう」になっている。

journey, wander; haziness, fogginessの譜例02 (スケッチ版)

また、それぞれの音の連なりの過程は終始一貫しているわけではなく、「一つの楽器内でも分割が異なる連なりが挿入されることや、並行すること」もある。例えば、ヴァイオリンは音の連なりを弾く際に弓による奏法とピッチカートを行き来し、ピアノは一聴すると一つの音の連なりに聴こえるが実は二つの音の連なりから成っている部分がある。これは曲名でwanderという単語を用いた理由と繋がる。wanderは名詞だと散歩やぶらつくことを意味し、動詞だと道から外れて迷う(wander + from)や話が横道にそれる(wander + away)、考えの取り留めがなくなるという意味で使われる。そういったニュアンスと先ほど述べた音の連なりの過程の様子が結びついていることを示したいという意図でwanderという単語を採用した。
(なお、譜例はスケッチの方が仕組みはわかりやすいため、スケッチをコンピュータ浄書した版と、清書版の2種類を掲載している。清書版もベストとは思っていなく、より良い書き方を模索中…)

journey, wander; haziness, fogginessの譜例02 (清書版)

さて、次の文は私がこの作品を作った際に基本となった考えだ。「道がある。道はただ一本の直線の道だけではなく様々に分岐し合流する道があり、その上を多様な人々が、各々の速さで動き、行きたい場所へ向かい、あるいは目的無くぶらつき、行き交っている。人と人が偶然出会い、別れ、伴走し——そうしていることに気づかないこともある——、必ずしも「道」の上を歩くだけでもない、「道」自体が常に安定しているわけではない、また場所や地域によっても異なってくる、そうした汲み切ることはできない長く、広く/がっていく、変化していく、複数存在する人の営みや関わり合いの過程によるイメージの中で、そして私もその中で僅かかもしれないが流動している中で、加えて前も後ろも靄がかかっている感覚の中で、私が、今、ここに、いる瞬間としての過程を私は音楽として抜き出した」。これを読むと、「道」という概念が起点となってこうした思考が膨らんでいったことがわかる。journeyやwanderという言葉も「道」と切り離せない。なぜ「道」であるのかはっきりと説明することはできないが、これまで生きていて、多くの人で賑わう道や人気のない小道の中を独りで、あるいは誰かと歩き、曲がり、人とすれ違い、出会い…等々という経験がおそらく自分の中では大きかったということだろう。特に初めて歩く道はワクワクし、その景色が目に入ってくることは楽しいと感じる。思えば、ふらっとドイツやオーストリアの小さい町や田舎へ行き、地図を見ずにぶらぶらと散策するのは好きだった。思惟の源泉の一つとして、私は「道」という存在を身近なものと感じているのかもしれない。

ところで、最近『私が諸島である カリブ海思想入門』という本を読むことができた。英語圏を中心としたカリブ海文学・思想が専門の中村達氏による、カリブ海におけるフェミニズムやクィア・スタディーズの議論も射程に入ったカリブ海思想の入門書である。西洋的、または白人主体を想定している価値観、思想、理論ばかりがスタンダードとして流通し、そのスタンダードにそぐわない人々が他者として排除されてしまうことに、そしてカリブ海の思想が欧米で軽視され、歪められてカリブ海に送り返されることに抵抗するために、カリブ海の哲学者や作家、研究者らが自分たちの経験や歴史の地域的特殊性を自分たちの言葉で表現している主体的で脱植民地的なカリブ海の価値観、思想、理論を紹介する本だ。更に、その価値観、思想、理論が、女性や非異性愛者をはじめとするカリブ海の次の世代の語り手たちによって変化し続けていることを伝えようとしている。この本を読んで私は初めてカリブ海の思想に触れたが、烏滸がましくも私が考えていることに近いと感じることや共鳴することが多い故に私を力づけてくれ、また私に無かった見方も考え方も目の前に多数提示されたことで、自分の音楽を作っていく上での考え方や思想をどのように広げていくかのヒントを得ることができた。

具体例をいくつか示してみると、例えば、まず「クレオライゼーション(Creolization)」という概念が紹介されているが、私が書いているこの連載の2回目で書いた内容との繋がりを感じた。知らない方も多いと思うので中村氏の同書の記述に照らして、「クレオライゼーション」について少し記してみたい。この概念は本質主義的であるネグリチュードへの批判や反省からデレック・ウォルコット(セントルシア出身の詩人、劇作家)やエドゥアール・グリッサン(マルティニーク出身の作家、詩人、哲学者、文芸評論家)らカリブ海思想家たちが、植民地支配から生じた人種的・文化的混交を自分たちの主体性として肯定的に捉えるべく依拠した概念だ。また中村氏の同書では、バルバドス人歴史学者で詩人のカマウ・プラスウェイトによる、カリブ海におけるクレオライゼーションは、「文化変容」(“acculturation”)と「文化相互作用」(”interculturation”) という2種類の変化の過程からなるという考えを紹介している。その「文化変容」と「文化相互作用」という言葉の意味は再び中村氏の同書によると以下の通りとなっている。「文化変容」は支配的な文化が他の文化を飲み込み吸収するような文化間の一方的な力関係を意味するが、「文化相互作用」には支配と被支配の関係はなく、互いが影響しあい、豊かな文化的土壌を作り出す関係を意味する。

前回の文章で私は、自己と他者との間に横たわるものが曖昧な境界や境界領域であればそれは容易く越境でき、自己を絶え間なく変容させ得るという旨を書いたが、その変容は自己だけの一方的なものではなく、無論相互的なものであるべきだ。

次に「過程」——上の引用の中にも、そして本稿の前半でも多く出てきた——この言葉に関して、中村氏が同書で引用しているベニーテス=ローホー(キューバの小説家、エッセイスト、短編小説家)の論考の一節は新しい視座を与えてくれた(孫引きとならないように原文の引用と私による翻訳を載せます)。

for me this is not a process – a word that implies forward movement – but a broken series of recurrences, of happenings, whose only law is change. [Benitez-Rojo 1990, p.19]

私にとって、これ(クレオライゼーション)は前進を暗示する過程ではなく、変化のみが唯一の法則となる、断続的な繰り返しや出来事の連続だ。

私はこれまで、後ろから前へと進んでいく「過程」という言葉を無批判に用いていたが、このベニーテス=ローホーの文は、変化や変容は過去から未来へと続く直線的な「過程」によるものだけでは必ずしもないと立ち止まらせてくれた。変化や変容は常に連続して起こっているだけではなく、時には反復的や断続的、断片的であることも有り得る。

ベニーテス=ローホーについては彼の思想における、カリブ海のリズム「白のリズム」(“white rhythms”) と「銅、黒、黄のリズム」(”copper, black, and yellow rhythms”)という表現も大変興味深い。他にもパメラ・モーデカイ(ジャマイカ人詩人)による「プリズマティック」という概念、オディール・ファーリィ(英語圏、フランス語圏、スペイン語圏を含むカリブ海の文学と文化を比較的な観点から研究している)の「リゾーム」ではなく「マングロープ」のメタファー等々、ここでは挙げきれない…

このような魅力的な言葉や概念が与えてくれるイメージや考え方は、私にとっては自身の創作に対するヒントを示唆し、思考を深めていく切っ掛けを与えてくれるものだ。しかし、彼らの思想であるカリブ海思想はあくまで彼らの経験や地域性、歴史による言葉に依拠するものなので、自分のためにそれらを消費や搾取していることになっていないかを常に内省する必要がある。様々な地域の言説や思想、芸術に触れた上で、では自分の言葉としての音楽や芸術作品をどのように紡いでいくべきか、そして変容させていくかを、私は絶えず考え続けたい。これからも変わっていく彼らに、私は近づき、出会い、分散し——ある時は同じ道を一緒に歩くことを試し、またある時は再会を予期しながら離れた道を歩くことを試しながら、変わっていける。それは必ずしも連々と続くものではなく、間欠的で思いがけない瞬間に起こることもあるだろうが、私は歩いていたい。

今回の文章は途中から本の感想文・紹介文のようなものになってしまいましたが、連載の最終回となる本稿はここまでとなります。全3回の連載でしたが、随筆的に自由に書かせていただきました。この連載のお話を下さり、丁寧に校正してくださったメルキュール・デザール編集部の皆様、これまで乱文乱筆の内容にお付き合いくださった読者の皆様、まことにありがとうございました。私の音楽(や文章)に関心を持っていただけたら幸いです。それではまたどこかで。

(2024/11/15)

参考文献一覧

文献
Benitez-RojoAntonio. “Creolization and Nation-Building in the Hispanic Caribbean,” in A Pepper-Pot of Cultures: Aspects of Creolization in the Caribbean, ed. Gordon Collier, Ulrich Fleischmann. Amsterdam: Rodopi, 1990.
中村達. 私が諸島である カリブ海思想入門. 福岡: 書肆侃侃房, 2023.

【プロフィール】
黒田 崇宏 Takahiro Kuroda
1989年5月2日、富山県生まれ。神奈川県出身。東京を拠点とする作曲家。
第29回現音作曲新人賞(2012年)、第37回入野賞(2016年)等を受賞。Music From Japan Festival 2019 (ニューヨーク市)へ招待された。
これまでに作曲を井元透馬、松下功、福士則夫、近藤譲、鈴木純明、Klaus Langの各氏に師事。
アーティストコレクティブ、Crossingsメンバー。

【ウェブサイトや作品視聴】
Website: https://takahirokuroda-composer.com/
SoundCloud: https://soundcloud.com/daakuro_grgranko
Youtube: https://www.youtube.com/channel/UCgIcW-auTq9U9xv905C7HKQ