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小人閑居為不善日記|気分はもう内戦――《ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ》と《シビル・ウォー アメリカ最後の日》|noirse

気分はもう内戦――《ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ》と《シビル・ウォー アメリカ最後の日》
Joker: Folie à Deux and Civil War

Text by noirse : Guest

※《ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ》、《シビル・ウォー アメリカ最後の日》の内容に触れています

 

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西田敏行が亡くなった。わたしが子供だったころは、週末の夜9時になると金曜ロードショー、ゴールデン洋画劇場、日曜洋画劇場と、映画を流すTV番組があって、これを毎週見るのが習慣だった。そうすると同じ映画が何度も流れることもよくあって、《釣りバカ日誌》(1988)シリーズもそのひとつだ。西田の名前を覚えたのは、これがきっかけだったと思う。

釣りに興味はなかったし、大人向けの喜劇ということで、当時はたいして好きではなかったが、だんだん慣れてくるもので、シリーズ6、7作目くらいまでは見ていたし、これが西田の代表作というのを否定はしないが、名作と断言できるのは間違いなく映画《ロケーション》(1984)と、TVドラマの《淋しいのはお前だけじゃない》(1982)だ。松竹の鬼才・森崎東がメガホンを取った前者ではピンク映画の監督を演じていて、ハプニングに振り回されながら映画が次第に変容し、現実と虚構が融解していく様は驚異的だった。日本のTV界を代表する脚本家・市川森一がシナリオを手掛けた後者では旅芝居の一座から借金を取り立てに行く男を演じている。芝居の演目と役者たちとの人間関係がリンクして、滅びかけていく大衆演劇が、ドライに生きてきた主人公のかたくなな心を溶かしていく。

こういった現実と虚構のあわいを描いた作品は、その後も山田洋次監督《虹をつかむ男》(1996)や宮藤官九郎脚本《タイガー&ドラゴン》(2006)、三谷幸喜監督《ザ・マジックアワー》(2006)と続いていて、西田にとって隠れたテーマだったのかもしれない。《淋しいのはお前だけじゃない》は《タイガー&ドラゴン》の元ネタとも言われていて、製作側も意識して西田を起用していたことが窺える。

《釣りバカ》は大企業に勤めるサラリーマンが仕事をほったらかして釣りに興じるというもので、喜劇とはいえ非現実的に感じてしまう設定も、バブル崩壊後とはいえ好景気の余韻に浸っている90年代初頭ならまだ騙されてもいいと思える、そうした作品だったし、シリーズを重ねるに従って説得力を感じられなくなり、いつしか見なくなってしまったのも、そうした道楽が許されなくなるような、厳しい社会事情のせいもあったのだろう。太平楽を気取ることが許されない、そんな時代には、《ロケーション》や《淋しいのはお前だけじゃない》で西田が演じた、虚構によって生の充実を補填させる作品のほうが向いているのかもしれない。

 

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ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ》(2024)もそうした作品だ。前作《ジョーカー》(2019)は、もともとはDCコミックスの「バットマン」シリーズを代表する悪役の映画化なのだが、そうした要素は最小限の言及にとどまっており、厳しい現実に押しつぶされた主人公アーサーの苦悩が爆発して、大衆に狂気が感染するという独自のストーリーが共感を呼び、大きな支持を受けた。しかしこの続編では、根は善人だったアーサーにはジョーカーを演じ続けることはできないと、大暴れするジョーカーを期待していたファンへ冷水を浴びせる結果となった。

アーサーはもともとコメディアンを夢見て、芸能界で成功するのを妄想するような男だ。これは映画史を振り返ると、《虹を掴む男》(1947)という作品の系譜にある。《ジョーカー》を監督したトッド・フィリップスが大きな参照元とした《キング・オブ・コメディ》(1982)の元ネタも《虹を掴む男》だ。なお、タイトルからも分かる通り、西田が主演した《虹をつかむ男》も、この作品がルーツにある。《虹を掴む男》は、《キートンの探偵学入門》(1924)や《成功成功/キートンの白日夢》(1922)から《カイロの紫のバラ》(1985)に連なる、メタコメディの系列にあり、その末端に《ジョーカー》は位置付けられる。

《ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ》も同じように、コンセプトを原作コミックスでなく、別の文脈に置いている。今回のそれはミュージカルで、取り上げられる楽曲も〈We Three (My Echo, My Shadow and Me)〉(1939)や〈That’s Entertainment〉(1952)など古典的なナンバーが多く、古めかしい姿で披露されるそれらの楽曲は、ジョーカーの活躍を想像していたファンの期待を覆すには十分だったろう。

《ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ》は、たしかに《ジョーカー》の続編ではあるが、もうじき100年にも及ぶ「ミュージカル映画」の最新形でもある。このように、そこまでコミックに思い入れはなかったというフィリップスにとって、ジョーカーというのはあくまで表面的な意匠でしかない。かわりに《ジョーカー》二部作に存在するのは、確固たる歴史意識だ。

アーサーはオールドタイプな人間だ。コメディアン志望にしてはあまりにギャグセンスが欠けているが、才能の問題もあると同時に、時代についていけていないのも大きい。アーサーが古めかしいピエロの扮装によってジョーカーと化すのは、仕事がピエロだったというのもあるが、それはあくまできっかけに過ぎず、本質的に彼は過去を生きる男だからだ。アーサーが医療刑務所で熱心に鑑賞する《バンド・ワゴン》(1953)もミュージカル映画史上の古典的名作だが、そもそも《バンド・ワゴン》自体、過去の栄光を捨てきれない時代に乗りそこねた男の話で、アーサーの琴線に触れたのだろう。

《ジョーカー》において、フィリップスが参考にしたアメリカン・ニューシネマにも同じことが言える。ニューシネマは、当時の旧弊なハリウッドへ反旗を翻した若者たちのムーブメントで、フィリップスが影響を受けたと公言する《タクシードライバー》(1976)や《狼たちの午後》(1975)など革新的な作品ももちろんあるが、その一方で《真夜中のカーボーイ》(1969)や《ワイルドバンチ》(1969)など、時代に取り残された男たちが滅びていく姿を哀切を込めて描いたり、《明日に向って撃て!》(1969)や《ラスト・ショー》(1971)のように、過剰にノスタルジックで、過去を悼むような映画も多い。だいたいがニューシネマの監督たちは誰もが映画マニアで、どの作品も古典への敬慕に満ちている。ニューシネマの旗手たちはハリウッドにとって「ジョーカー」だったが、彼らは同時に過去を生きる者でもあった。

《ジョーカー》二部作を構成する要素はこのように、アメリカ映画やミュージカルの輝かしい遺産によるもので、アーサーはけして「持たざる者」ではなく、過去の豊かな文化を知り、それを慈しむ男だった。けれどもこのような遺産に育まれたことで、現実を虚構で覆い隠し、直視できなくなったのが、彼の暴走と破滅につながったとも言える。過去を大事にすることは悪いことではないが、しかし現在、過去を生きる者は危険な存在でもある。

 

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現在公開中の映画《シビル・ウォー アメリカ最後の日》(2024)は、暴挙を続ける大統領に反旗を翻す勢力と政府軍によるアメリカの内戦を描いていて、その迫真性で大きな話題となっている。一方で欠点も指摘されているが、中でももっともクリティカルなのは、対話性の欠如だ。

政府軍は敗戦濃厚で、首都陥落は時間の問題だ。戦場カメラマンのリーとその仲間は、ホワイトハウスが攻め落とされる前に大統領からインタビューを取ろうと、ニューヨークからワシントンDCへ向かう旅に出発する。

一行は道中さまざまな危険に逢うが、政府軍や大統領の支持者との議論や、同じ国民と戦うことの葛藤や内省はほとんどない。政府軍は誰もが好戦的な殺人者やサディスト、姿の見えないスナイパーとして現れて、リーたちや反政府軍は当然のように、正当な立場の者とされている。

こうした描きかたが一方的なのはあきらかだろう。アメリカが二分するほどならば、その大半は「普通の人」であるはずだ。ユーゴ内戦を描いた《アンダーグラウンド》(1995)やルワンダの虐殺を取り上げた《ホテル・ルワンダ》(2004)など、内戦や紛争をテーマにした作品で必ず描かれる、親しい友人や隣人同士が殺し合うというような話もない。率直に言えば、トランピアンやQアノン、陰謀論者を一方的に悪と決めつけ、対話のチャンスを与えない、独善的な作品となっている。

けれども、あえて一方的に描いているフシも感じられる。監督のアレックス・ガーランドはイギリス人で、アメリカは異国であり、そのせいか観光客的にアメリカ内戦を見つめているようなところがある。そもそもガーランドにとって、内戦や内紛を描くことは初めてではない。脚本家としての代表作《28日後…》(2002)はロンドンを舞台にしたゾンビ映画だが、《ソンビ》(1978)などでゾンビ映画というジャンルを確立したジョージ・A・ロメロは、壊滅していくアメリカを描くにおいて内戦の意味合いを込めていて、後発作品は多かれ少なかれその影響下にある。またもともと小説家だったガーランドの代表作で、映画化もされた《ビーチ》(1996)は、楽園を求めてバンコクの孤島に集まった若者たちの集団が瓦解していく姿をシニカルに描くものだった。ガーランドは、自らを正しいと信じて疑わないリーたちを、アジアの片隅を地上の楽園だと思い込み、土足で踏み込んで勝手に自滅していく欧米人の姿と同じように、皮肉な笑みを浮かべながら、あえて美化して描いているのではないか。

 

4

「Civil War」とは「内戦」のことだが、「The Civil War」というように定冠詞を付けると、一般的に南北戦争のことを指す。この文章を書いているいまは大統領選の真っ最中なのだが、南北戦争に起因する問題は、2024年の選挙においてさえ大きな影を落としている。特に南部はそれが顕著で、アメリカ文学研究者の後藤和彦はこのように述べる(上杉忍・巽孝之編《アメリカの文明と自画像》)。

歴史は、南部人にとって、彼らのにべもない真実をすっぱぬく「不安の源泉」ともなり、同時に彼らに彼らの求める彼らだけの「真実」を提供する慰籍の源ともなった。こうして二重に引き裂かれた歴史観が南部人の歴史観なのであって、それは敗戦という事態を通過することで彼らの内部に産み落とされ刻印された。歴史は、期待と不安に引き裂かれた対応を常に引き起こす対象となり、南部人にとって尽きせぬ関心の対象であるにとどまらず、ある強迫観念へと変貌しさえしたのだった。

このような南部人の内省は、文学においてはフォークナーやオコナーなどにより、南部ルネサンスや南部ゴシックの名において言語化されていった。その波は映画にも及び、《白い肌の異常な夜》(1971)、《脱出》(1972)、《悪魔のいけにえ》(1974)、最近だと《スリー・ビルボード》(2017)などに、南部の抑圧された暴力性や精神性が見て取れる。

しかし多くの北部人は、南北戦争は黒人を奴隷制度から解放するための正しい戦いだったとして、南部への行為を正当化してきた。ハリウッド映画ではそれが顕著に表れていて、《グローリー》(1989)や《リンカーン》(2012)など、北部側から南北戦争を描いた作品のほとんどは、南部の犠牲に気を配ろうとはしない。

南北戦争は、アメリカ映画において特異な立ち位置にある。二次大戦なら《戦場にかける橋》(1957)や《ニュールンベルグ裁判》(1961)、《プライベート・ライアン》(1998)であるとか、ベトナム戦争なら《地獄の黙示録》(1979)に《ディア・ハンター》(1978)、《プラトーン》(1986)のように、何作か並べればその戦争を構成する諸要素がバランスよく浮かび上がってくるような映画が何本かあるものだが、アメリカ史上唯一の内戦であり、最大のインパクトを持つ南北戦争は、それにもかかわらず決定的な作品に欠けている。前述した《白い肌の異常な夜》は、南北戦争の内実が伝わってくる貴重な作品だが、舞台は戦場ではなく、戦争そのものは描かれない。ほかに挙げるとすれば映画史上の名作である《國民の創生》(1924)と《風と共に去りぬ》(1939)だろうが、黒人差別を助長するということで現代では問題作とされており、南北戦争を位置付けるにはバランスを欠く。

そうすると、映画大国アメリカは、戦争映画を量産してきたにもかかわらず、南北戦争となると及び腰という、奇妙な状況にあることがわかる。言い換えればアメリカは、他国に介入した戦争にまつわる映画なら饒舌であるものの、南北戦争についてはいまだに語るすべを持っていないということでもある。エドマンド・ウィルソンは、《愛国の血糊》でこのように述べる。

南部においては、それは「大いなる弁明(アリバイ)」という伝統で、このおかげで南部人は南部におけるあらゆる怠惰で偏狭で野蛮で時代遅れのものに対する責を自分たちが受けた戦争の被害のせいにすることができるのである。北部にとっては、「美徳の宝庫」という伝統で、このおかげで、われわれは後に続くすべての戦争に突入することができたのであるが――それらの戦争では今までのところ常に勝利するか、勝利者の側にあった――これは、鼻持ちならぬ倫理的態度であり、1865年、南部同盟に対する勝利によって最初に正当化されたようにわれわれには思われたのである。

極端に言えば、南北戦争後のアメリカの戦争は、すべて南北戦争の代用だった。国民同士で血を流した南北戦争には本来「敵」などいなかったはずで、そのためにいまでも南北戦争を的確に映像化することはできない。しかし二度の大戦や朝鮮戦争、ベトナム戦争や湾岸戦争、アフガン戦争やイラク戦争には明確な「敵」がいた。アメリカは間違っていないし、であるならば南北戦争も正しかったと、そう思い込むことができる。また共通の「敵」がいれば、北部も南部も手を取り合って共闘することができる。そのために戦い続けているということだ。

それゆえにアメリカ映画も、南北戦争については曖昧な態度を取りながら、他国への戦争においてはこぞって作品を産み落としていった。そうしてみると、《シビル・ウォー》があれだけ偏っているのも理解できる。映画《オール・ザ・キングスメン》(1949)の原作者で、南部ルネサンスの中心人物でもあるロバート・ペン・ウォーレンは、「あらゆる犠牲があったにもかかわらず、大部分のアメリカ人は南北戦争を、わが国が世界中で冠たる力と威信を獲得した源であると考えたがっている」と指摘する(《南北戦争の遺産》)。南北戦争の大いなる犠牲があったから、アメリカは20世紀最大の国家へと成長していったというのである。そして世界におけるアメリカの影響力が低下しているいま、「The Civil War」を再体験することは、自国の衰退から目をそらし、「世界中で冠たる力と威信を獲得した」アメリカを幻視することができる、もちろん実際の内戦は御免被りたいが、心のどこかでそれを求めている、そういうことではないか。

アーサーが虚構と現実の境目に囚われ、呑み込まれていったように、ハリウッドは戦争映画の彼方に、南北戦争の栄光を見つめている。たしかに《シビル・ウォー》は偏った映画だが、このようなアメリカの傾向を言い当ててもいる。それはハリウッドに限らず、ドナルド・トランプがこれだけの支持を得ていることにも通じるだろう。そしてこれは、けして対岸の火事ではなく、義経や新選組、白虎隊などの敗者の物語を好み、二次大戦で敗北した日本にとっても無縁ではいられないはずだ。

(2024/11/15)

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noirse
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