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五線紙のパンセ|定まらないように|黒田崇宏

定まらないように

Text by 黒田 崇宏 (Takahiro Kuroda) :Guest

自分自身のことを話すとき、ぼくはいつもそれが時期尚早であるように思えてならない

これはペーター・ハントケの『長い別れのための短い手紙』(1972)に登場するアメリカ人の映画監督、ジョン・フォードの台詞だ。この後、「ぼく自身の体験は、まだ少しも十分な過去になっていない。」と続く。しかし、彼とは違い私にとって自分自身について話す、つまり言葉で語るということは、現在の自分が過去の自分を定めてしまうが、それのみならず未来の自分のことも措定してしまうのではないかと思うことがある。言葉にするとその対象を固定してしまう、安定させてしまうのではないか。関連して自作品について述べることについても同じことを感じる。記すことによってそれが持つ可能性を限定してしまうのではないか、ということだ。
とは言うものの、今回の文章では《Aus der sich anhäufenden kalten grauen Asche》(音源: https://on.soundcloud.com/BHrVJWV4TekJbFCv9)という2022年に作曲された私の作品のことを記述することから始めようとするが、以前にこの作品について書いたプログラムノートと近いものを書きつつもそこから違った道筋を辿っていくだろう。その結果、別の地平が開かれる——むしろそうなることを期待している。現在の自分の視座によって2022年に作った音楽のことを絡めて何かを話すこと、これは「複数の声のうちの一つ」になるであろうか。

さて、この作品《Aus der sich anhäufenden kalten grauen Asche》は音同士の間隔が狭まっていく、あるいは広がっていく「音階のようなもの」が主素材の一つである。この主素材を構成する各音は「音階のようなもの」としてグルーピングされて聴くことができる。しかし、その一方で最初の長いセクションにおけるように、この「音階のようなもの」が同時に複数演奏され、且つ緩やかで、更に聴こえてくる各音の間もあると、音階とは違う別のグルーピングとして聴取することもできる。その後のセクションでも「音階のようなもの」は何度も繰り返し現れるが、それは別の素材と重なり、挟まれ、並列される。そうした関係性の中において、「音階のようなもの」は己のいる場所や立場、意味合いを少しずつ変えていく。このように変奏されることで、セクション間の境界も曖昧で緩やかに移り変わっていっていると感じられることもある。

この変化し、安定しないことは、自身を流動状態に置き、他者との新しい関係性を構築することに開かれていることになる。また、自己と他者との間には境界ではなく境界領域が横たわっている。「境界 (Border)」と「境界領域 (Threshold)」という言葉については、ドイツの演劇学者、エリカ・フィッシャー=リヒテの言葉を引用したい。「境界は別種のものを除外する線、つまり境界線を想定するが、境界領域はあらゆることが起こり得る間隙というイメージになる。境界は明瞭に分かつが、境界領域は可能性や権能や変容に開かれた場所なのである。」Borderという言葉は国境という意味も持つ通り、双方を別ち、通りづらい感覚を覚させるものだが、それに対してThresholdという言葉は敷居という意味を持ち、緩やかな境界で、越えることも簡単な印象を与えるものだ。

流動性や境界の曖昧さについてに関連して、過去の作曲家の作品の例としてルーマニアの作曲家、ジョルジェ・エネスクの交響曲第1番第1楽章に触れてみたいと思う。
(スコア: https://imslp.org/wiki/Symphony_No.1,_Op.13_(Enescu,_George), IMSLPより)
(音源: https://www.youtube.com/watch?v=G4H6aBnpkEk, Youtubeより)

Enescu譜例1_提示部第2主題開始位置

まず、この楽章はソナタ形式の形を採っているが、音楽の始まりから終わりまで切れ目なく続き、加えて各セクション(提示部・展開部・再現部や第1主題・第2主題)の境目が明確に聴こえないように書かれている。例えば、提示部第2主題は、再現部の第2主題の開始部分(練習番号19)を参照することで、練習番号7の9小節前から始まるとわかる。とはいえ、その4小節前にクラリネットによって、予告の様な似た旋律が、推移部から流れるようにふっと演奏されるので、一聴するとどちらから第2主題であるのかがわかりにくい。この第2主題の旋律を構成する特徴的なリズム動機と近いものが推移部でも聴こえる(ちなみに第1主題内でも既に現れている)ことも一因かもしれない。

Enescu譜例2_再現部第2主題開始位置

更に、各主題の主要な動機は勿論あるが、現れる旋律の形は絶えず変化し続けていることにも言及したい。個人的に特に記したいのが、

Enescu譜例3_再現部の練習番号19の11小節後

再現部の練習番号19の11小節後で、提示部の第1主題で現れた旋律(練習番号2の3小節後)が第2主題の旋律と不意に繋げられていることだ(ちなみに最初に聴いた際は気付かず、スコアを見て発見した)。別のセクションのみのものと思われた要素が変容の過程で自然に取り入れられることは魅力的に思えた。曖昧な境界と絶え間ない変容がここにはある。

Enescu譜例4_提示部の第1主題で現れた旋律(練習番号2の3小節後)

なぜ、曖昧な境界や境界領域という言葉が私自身にとって大事だと思うのか。自己と他者の違いは言うまでもなくある。そうした違いがあることを緩やかな段階の差異が横たわっていることとして認識し、受け入れ、自分自身の変容に繋がる機会を与えてくれるものとして「境界領域」はある。「境界」で別ってしまうことは、その結びつきを絶ってしまうことで、どうしようもなくなる対立関係へと最終的に進んでしまうのではないかという恐れがある。
自己やそれらから成るグループを、他者やそれらから成るグループとは異なるものだとして差異を明確化し過ぎること、はっきりとした境界を作りその中に籠ることは、同質性が強固となり、自分(たち)とは異質なものを排除する論理へと繋がりやすい。自分(たち)とは異質なものだから平気で差別し、傷つける。他者(たち)は異分子、敵という認識となる。彼らに対する抑圧、迫害が起こり、そして民族浄化、ジェノサイドという最悪な形が現れる。それは枚挙にいとまがない——例えば、かつてホロコーストやユーゴスラビア紛争があった。今においてはイスラエルがパレスチナ人を現在進行形で大量虐殺を行っている。あるイスラエルの閣僚はガザの人々を「人間動物」と、つまり自分たちとは全く違う、人間ではないものと規定し、彼らを殺すことを正当化した。

文頭で引用した『長い別れのための短い手紙』を翻訳した服部裕は、それが収録されている『ハントケ・コレクション1』のあとがきでハントケについて次のように書いている。

ハントケが頻繁に旅に出かけ、しばしば居住地を変えてきたことは、「そこには属していない」という意識を持ち続けることで「単一性」と「同質性」に抵抗してきたことと無縁ではないだろう。現在も生まれ故郷のオーストリアに帰らず、異境の町に住み続けていることも、どこへでも行くことができながら、同時にどこにも属さない自由で開かれた創作者の意識の表れであると解釈したとしたら、穿ちすぎであろうか。

このようなハントケの生き方は危機を回避するためのヒントの一つになるかもしれない。流動的で、己がいる場所を変えていこうとすることで、他者を排除する論理に抗する思考を保持できる。

ところで、ふと考えることだが、仮に多様な共同体や社会を自由に行き来し、暮らしていけるのであれば、可能性や権能や変容に開かれた場所である境界領域があちらこちらに存在していると言えるのではないだろうか。しかし、今日においてそうした生活を採用することは非常に難しい。その現状を乗り越えるにはどうすればいいだろうか。少し前に読んだ書籍で興味深い一節があったので引用してみたい(いや、そもそもこの本全体が私をワクワクさせるものである)。

いっぽう、旧石器時代以降の証拠は、多数の——おそらくほとんどの——人びとが、一年のさまざまな時期に異なる社会秩序を想像したり上演したりするだけでなく、実際にそうしたさまざまな社会秩序のうちに特定の期間、生活していたことを示唆している。とすれば、わたしたちの現在の状況との対比は、これ以上ないほどはっきりしている。今日、わたしたちのほとんどは、オルタナティブな経済秩序や社会秩序がどのようなものであるか、想像することさえますます困難になっているのだから。それと対照的に、わたしたちの遠い祖先は、そうした複数の秩序のあいだをたびたび往来していたようにみえるのだ。

これはデヴィッド・グレーバー(人類学者)とデヴィッド・ウェングロウ(考古学者)の共著、『万物の黎明』の記述である。かつて人類はこうした「自由」を持っていたのであれば、上述の私の想像を思い描くだけではなく実践できるのではないかという期待を近頃の私は持っている。

話が取り留めのなく、するすると進み、移り変わっていく文章にお付き合いくださりありがとうございました。灰色や灰がキーワードになるという予告を前回にしましたが、それらの語から結果的にこのようなテキストが生まれました。次回は来月で、最終回となります。

参考文献一覧

文献
Bentoiu Pascal. Masterworks of George Enescu: A Detailed Analysis. Translated by Wallfisch Lory. Lanham, Maryland: Scarecrow Press, 2010.
エリカ・フィッシャー=リヒテ. パフォーマンスの美学. 翻訳者: 中島裕昭, 平田栄一朗, 寺尾格, 三輪玲子, 四ツ谷亮子 , 萩原健. 東京: 論創社, 2009.
ジャック・デリダ. 火ここになき灰. 翻訳者: 梅木達郎. 京都: 松籟社, 2003.
デヴィッド・グレーバー、デヴィッド・ウェングロウ. 万物の黎明 人類史を根本からくつがえす. 翻訳者: 酒井隆史. 東京: 光文社, 2023.
ペーター・ハントケ. ハントケ・コレクション1. 翻訳者: 服部裕、元吉瑞枝. 東京: 法政大学出版局, 2023.

楽譜
Enescu George. Symphony No.1, Op.13. Paris: Enoch & Cie, 1906.

音源
トピック-ローレンス・フォスター. Symphony No. 1 in E-Flat Major, Op. 13: I. Assez vif et rythmé. 2021年2月25日. https://www.youtube.com/watch?v=G4H6aBnpkEk

(2024/10/15)

【プロフィール】
黒田 崇宏 Takahiro Kuroda
1989年5月2日、富山県生まれ。神奈川県出身。東京を拠点とする作曲家。
第29回現音作曲新人賞(2012年)、第37回入野賞(2016年)等を受賞。Music From Japan Festival 2019 (ニューヨーク市)へ招待された。
これまでに作曲を井元透馬、松下功、福士則夫、近藤譲、鈴木純明、Klaus Langの各氏に師事。
アーティストコレクティブ、Crossingsメンバー。

【ウェブサイトや作品視聴】
Website: https://takahirokuroda-composer.com/
SoundCloud: https://soundcloud.com/daakuro_grgranko
Youtube: https://www.youtube.com/channel/UCgIcW-auTq9U9xv905C7HKQ