パリ・東京雑感|祈りより小説を!哲学より文学を!驚きのローマ教皇書簡|松浦茂長
祈りより小説を!哲学より文学を!驚きのローマ教皇書簡
Listening to Another Person’s Voice Pope Francis’ Words on Literature
Text by松浦茂長(Shigenaga Matsuura)
権威あるコレージュ・ド・フランスの教授が、ローマ教皇の文書を読んで、「危うくイスから転げ落ちる」ほどびっくりしたそうだ。教皇が書いたのは、小説と詩の力をたたえる書簡。文学だけが、ジコチュウの人の中心軸をずらし、自己からの脱出を可能にするのだと、しつこいくらいに説く。ウィリアム・マルクス教授(比較文学)が腰を抜かしたのは、この一節だ。
ジャン・コクトー(詩人)は、ジャック・マリタン(哲学者)にこう書き送った。「文学にはその力がありません。文学によって逃れ出ようとしても無駄です。愛と信仰だけが、私たちを自分の外に出してくれるのです。」
しかし、他者の苦しみと喜びに私たちの心がうずき、燃え立つのでなければ、本当に私たちの外に出ることが出来るだろうか?(フランシスコ教皇『教育における文学の役割について』)
詩人コクトーが文学にけちをつけ、信仰だけが自己からの脱出を可能にすると言うのに対し、教皇は異を唱え、文学の助けを借りなければ駄目だと書いたのだから、マルクス教授が仰天したのも無理はない。教授は、まるで<文学教>の総本山がローマに移ったみたいだと形容している。
書簡の冒頭にもびっくりするようなことが書いてある。
疲れたり、腹を立てたり、挫折して落ち込んだりして、祈っても落ち着きを取り戻せないときがある。そんなとき、一冊の本が、嵐のなかを歩むのを助け、やがて私たちは、いくぶんか穏やかな心を取り戻す。(フランシスコ教皇『教育における文学の役割について』)
お祈りより読書の方がパワーがある? カトリック教徒の最高指導者がそんなことを説いて良いのだろうか?
いや、こんなショッキングな書簡を書いたのには事情がありそうだ。
深い闇に、ますます深くおおわれて行く現代世界に、教皇は、<感動喪失>の危機を見てとった。現代人は他者のために心を動かす能力を失った。神を前にしても、被造物を前にしても、感動する能力がない。だとすれば、現代世界の第一の課題は、私たちの感受性の病をいやし、思いやりの能力を豊かにすることではないかと、フランシスコ教皇は考える。
教皇が日本を訪問した際、「西洋が東洋から学ぶべきものは?」と質問され、「西洋にはいささか詩情が乏しい」と答えたのも、<感動喪失>から人々を救い出すヒントを東洋に期待したからなのだろう。
目の前の人間の苦しみに心を痛めることなしに、宗教教義を信じるのは、不毛なだけでなく、危険でもある。キリスト教はもちろんイスラムも、ユダヤ教も、ヒンズー教も他の宗教を憎悪し、破壊する原理主義が幅をきかす時代なのだ。
1964-1966、まだ二十代の教皇(ホルヘ・マリオ・ベルゴリオ)は、サンタフェの中学の教師をしていた。ベルゴリオ先生は、生徒たちに文学への愛を目覚めさせるために、是非とも小説家の話をじかに聞かせたいと願い、ある日、アルゼンチン最大の小説家ホルヘ・ルイス・ボルヘスに手紙を書く。すると奇跡が起こり、ボルヘスは名もない教師の願いにこたえ、サンタフェまでやって来て、こんな風に語った。「初めは、きみたちの読むものが、大して理解できないかもしれない。しかし、君たちは<誰かの声>を聞いたのです。」
私は文学というものを言い当てたこの言葉が好きだ――「誰かの声を聞く」。
私たちに呼びかけている他者の声に耳を傾けなくなるのがどれほど危険なことか、忘れないようにしよう。さもないと、人はたちまち自己隔離におちいり、私たちと私たち自身との関係、また私たちと神との関係をあやうくする<精神的つんぼ>になってしまう。(フランシスコ教皇『教育における文学の役割について』)
教皇は映画も大好きのようだが、文字だけが頼りという<貧しい>芸術である文学にこそ、人を内面から変える効果があると考える。マルクス教授の表現を借りれば、文学作品は、ファースト・フードのように、すぐ食べられる形で空から降ってくるものではない。文学作品は、読者とテキストと作家の共同制作――視覚芸術作品は自分の<前に>あるのに対し、文学作品は自分の<中に>作り上げられる。
小説を読むとき、読者は自分の記憶、夢、人生のドラマを動員して、作品をいわば書き換える。
一つの文学作品とは、生命を持ち、豊かな実りをもたらす文章であり、作品が出会う読者の一人一人に、それぞれのやり方で語りかけ、それぞれの読者と一緒に、その人だけのオリジナルな統合を作り上げる。
読者が出会う一つ一つの作品は、そのたびに彼の世界を新たにし、おしひろげる。(フランシスコ教皇『教育における文学の役割について』)
映画には、確かにファースト・フードめいたところがあるかもしれない。テレビ記者をやっていたとき、テレビを見る人の記憶に残るのは圧倒的に視覚情報なのだと思い知らされた。モスクワで毛皮の帽子を被ってレポートしたとか、戦車によじ登ってレポートしたとかはよく覚えていてくれるが、何をしゃべったかはどうでも良い。(もちろん僕のしゃべり方にも責任があるが……センスの良いデスクに「松浦さんのレポートは、視聴者に考えさせようとするからいけない。視聴者が求めているのは情報だけです。」と文句を言われたものだ。)
僕は小説を映画化したのを見るのが大好きだ。プルーストの『失われた時を求めて』をフランスの連続ドラマで見たとき、あの小説の舞台はこんなだったのかと、目からウロコが落ちる思いだった。男も女も、頭のてっぺんからつま先まで、ぴかぴかのおしゃれ。洗練と言うよりいやらしく気取ったブルジョア社交界。あの雰囲気を知らずにプルーストを読んだ僕は、モネの絵のような色彩世界を思い描き、勝手にうっとりしていた。とんだ見当違いだ。
でも、もしかしたらプルーストからの「声を聞く」のに、映像は邪魔だったかもしれない。青春の感傷、落ち着かない憧れを注ぎ込み、恍惚として読みふけった、国籍・時代不明のプルーストこそ、フランシスコ教皇=マルクス教授の理論に従えば、当時の僕と作者の共同制作だ。今から、老年の僕とプルーストの共同制作を試みる時間が残されていると良いのだが。
川端康成の『雪国』は、豊田四郎が映画化している。小説を読んだときは、芸者・駒子をもてあそび、彼女のために何もしてやらない高等遊民・島村が、ひたすら憎らしく、駒子に共感する余裕がなかったが、映画を見ると岸惠子の駒子がとんでもなく強靱な存在なので、島村は単なる傍観者として、どうでもよくなってしまった。映画のおかげで、「そうだ、島村は物語の進展に組み込まれた登場人物ではなく、駒子を観察・記録するための、人格なき影のごとき存在と思えば許せるのだ」と、納得したような気がする。
でも違う。川端が描きたかったのは、やっぱり島村だ。教皇の言う<感動喪失>――隣人のために心を揺さぶられ、助けの手を差し伸べずにいられない感動力の喪失を先取りして文学作品にしたのだ。カミュの『異邦人』に通じるかもしれない。
僕が冷たい高等遊民に腹を立てたように、小説の主人公を嫌いになったり、憎んだり、恐れたりするのも、立派な小説鑑賞といえるらしい。フランシスコ教皇は、「ある文章を読んで、苦しくなったり憂鬱になったりするのは、必ずしも有害でも無駄でもない」と忠告している。
読者は、読んだものから模範的な教訓を受け取るようにはなっていない。読者も、救いと破滅の境界があらかじめきちんと分けられていない不確かな領域で、一緒に危険に身をさらすよう招かれた人物の一人なのだ。
小説を読む、あるいは詩を読むとき、読者は、彼の読んでいる言葉によって「読まれる」のを経験する。読者は競技場でプレーする選手に似ている。彼は試合を楽しむ主体であると同時に、試合は彼を通して行われるから、読者は客体でもある。(フランシスコ教皇『教育における文学の役割について』)
読者が小説に「読まれる」って何のことだろう? 夏目漱石やジェーン・オースティンのように、確かな道徳的座標軸が見える作家の小説は、見物席で試合を楽しむような読み方が出来るだろうが、暴風に巻きこまれた小舟のように、読者が翻弄される小説もある。女と麻薬と酒におぼれるどうしようもない男に、なんで最後まで付き合わなければならないの? 自分が不倫したうえ夫を毒殺する妻に、どこまで同情するの? 自分の人生経験と心のしなやかさを問われる、怖い小説たちだ。善悪の座標軸に安住する怠慢は許されない。
フランシスコ教皇は、どうやら、漱石やジェーン・オースティンの作品のような良識ある小説だけでなく、読者の良心が傷つき、不安に突き落とされるような、危険な小説こそ読むべきだと願っているようだ。教皇書簡は、文学のパワーを説く重要な箇所で、小説を「望遠鏡」にたとえたプルーストを引用している。マルクス教授は、フランシスコ教皇がダンテやベルナノスでなく、もっとも非宗教的作家のひとりであるプルーストを引いたのには、「度肝を抜かれた」と告白している。同性愛を正面から描いたプルーストを、ことさら引用したのには、LGBTに寛容な教皇の下心もうかがえる。
16世紀から1966年まで、カトリック教会は禁書目録をつくって、非道徳的な文学と闘ってきた。文学はキリスト教のメッセージ伝達に尽くすべきだとされ、カトリックの教義にかなう書物とそうでない書物を教会が仕分けする。禁書目録には、フランスの国民作家ナンバーワンを争うビクトル・ユゴーとスタンダールも入っていた。
フランシスコ教皇の書簡は、数百年にわたるカトリック教会の検閲主義と縁を切り、あらゆる作品から聞こえてくるさまざまの声に耳を傾けようと呼びかける。
私たちが物語を読むとき、作者の残した像に応じて、ひとりひとり、自分のやり方で、「捨てられた娘の涙」、「眠った孫に毛布を掛けてやる老人」、「窮地を脱するため奮闘する小企業の経営者」、「皆に批判された人の屈辱」を思い描く。これらの物語の中に、私たち自身の内的世界の痕跡を感じ取るとき、私たちは他者の人生経験に感じやすくなり、彼らの心の深みに入りこむため、自分自身から出て行き、彼らのがんばりと願いをもう少しよく理解できるようになり、彼らの目を通して現実を見、しまいに、彼らの道連れになる。私たちは、こうして、果物売り、売春婦、孤児、左官の妻の生きる内面に潜り込む。それは彼らに共感し、すなおに感情移入できるときもあるし、ときには大目に見る寛容と思いやりをもって理解に努力することもある。(フランシスコ教皇『教育における文学の役割について』)
僕は80歳が手に届く歳になって、ようやく、エゴイズムのカタマリみたいな主人公や、救いようなくだらしない人物も、いくぶん「大目に見る寛容と思いやりをもって」読めるようになった気がする。残された歳月、フランシスコ教皇の助言を頭に置いて、小説を楽しめたらと思う。
マルクス教授は、この書簡を公立学校の先生に読ませたい。教育大臣には必ず読んでもらいたい、と書いている。厳しい政教分離のフランスで、無理な注文にも見えるが、近年文学作品を減らす動きがある日本の国語教科書関係者には是非読んでいただきたいものだ。
(2024/10/15)