小人閑居為不善日記|不条理な疑いの彼方に——《憐れみの3章》と《きみの色》|noirse
不条理な疑いの彼方に——《憐れみの3章》と《きみの色》
Kinds of Kindness and The Colors Within
Text by noirse : Guest
※《憐れみの3章》、《きみの色》の内容に触れています
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映画《憐れみの3章》を見た。監督はギリシャ出身のヨルゴス・ランティモス。《女王陛下のお気に入り》(2018)でオリヴィア・コールマンにアカデミー賞主演女優賞をもたらし、《哀れなるものたち》(2023)ではアカデミー賞4部門受賞。今最も注目を浴びる映画人のひとりだ。
《憐れみの3章》は、長編映画ではなく、独立した中編3本で構成されている。第1話の主人公ロバートは建設会社に勤めていて、夫婦仲もよく不自由のない生活を送っているが、実は上司のレイモンドにすべてを支配されていて、食事から性生活まで彼の指示に従うことでその地位を約束されている。だがある日、レイモンドからある人物を殺害するように言われ、動揺する。ロバートは初めてレイモンドの命令を拒否するが、そのせいでたちまち彼の生活は瓦解していく。ロバートはふたたびレイモンドに取り入るため奔走するが——。
第2話。警官のダニエルにはリズという海洋学者の妻がいるが、海で遭難し行方不明となり、夫は絶望の淵に立たされる。運よくリズは孤島に流れ着いていたところを救助され、夫のもとに帰ってくるが、ダニエルは生還した妻が、妻に酷似した別人だと怪しむ。ダニエルの精神は次第に蝕まれ、リズに異様な注文をつけるが、夫を愛している彼女はそれに従う。リズは包丁を手に取る。
第3話、エミリーはとある宗教団体に入っている。そこでの彼女の役目は救世主を探すこと。家族と別離し、その目的に邁進するが、彼女を連れ戻そうとする夫とのトラブルで教団を追放される羽目になる。挽回のためにエミリーは目を付けていた女性を誘拐し、死体置場へ連れ去る。条件が正しければ、彼女は死者を蘇生させることができるからだ。
駆け足で3つの物語を並べてみたが、異様な話であることは伝わったと思う。ランティモス作品は、子供をまったく外に出さずに育てようとする家族を描いた《籠の中の乙女》(2009)、結婚相手を見つけられないと動物にされてしまう近未来SF《ロブスター》(2015)と、一風変わった設定と先の読めない展開、寓話性を特徴とする。
とはいえこういった突拍子もない内容だと、得てして作り手の自己満足で完結してしまいがちだが、それでも作品に強度があるのは、基盤がしっかりと確保されているからだ。たとえば代表作と呼べる《聖なる鹿殺し キリング・オブ・ア・セイクリッド・ディア》(2017)は、背後にギリシャの悲劇詩人エウリピデスの作品を据えることで、非現実的なスリラーに奥行きをもたらすことに成功している。
では《憐れみの3章》では何が作品を支えているのか。ランティモスはカミュの《カリギュラ》から発想したと公言しているが、真にこの作品の基盤となっているのは、キリスト教の存在だ。
1話は神の気まぐれに振り回される信者の姿そのもので、これはヨブ記をもとにして話題になった《ボーはおそれている》(2023)でも扱われていた題材だ。ついでに言うとロバートがレイモンドの命令で読んでいた《アンナ・カレーニナ》は、神の掟を破ったアンナが破滅するまでを描いており、呼応関係にある。
2話目もその点で共通していて、ダニエルの残酷な要望に応えるリズの姿は、やはり神に従う信者を彷彿とさせる。しかし一方で、リズの献身はイエスを思わせるフシもあり、実際に彼女は十字架にかけられた姿を模して落命し、最後に「復活」する。なおリズが見た人と犬の地位が逆転している夢というのは、GodがDogになったという意味で、神のように振る舞っていたダニエルからリズに神性が移行したことを暗示するようでもある。3話目がイエスの奇跡を物語っているのは言うまでもない。
「信じる人々」を突き放して描くランティモスの意図は、本国アメリカでは多くの評論やレビューがキリスト教と《憐れみの3章》の関係について記しており、よく理解されている。しかし宗教への関心が薄い日本ではそうした関連付けに及ばないのか、漠然とした反応が多いようだし、そもそも日本人とは縁遠い話として受け取られそうでもある。そこでもうひとつ、9月に公開された日本の劇場アニメーション作品と並べてみたい。
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《きみの色》は長崎のミッションスクールに通う高校生、日暮トツ子が主人公。人の「色」が見えるという感覚の持ち主で、同学年の作永きみの「青」色に魅せられ、きみを探して彼女のバイト先に辿り着く。そこに居合わせた高校生影平ルイと3人でバンドを結成することになり、学校の聖バレンタイン祭で初のステージを披露することになる。
派手さはないが、繊細かつ丁寧に演出された青春映画で、同時に音楽好きの山田尚子監督の趣味全開のバンドアニメでもあり、既に着実な評価を得ている。しかし、そういった評価は一面でしかない。本作は何より、キリスト教をバックボーンとした宗教映画でもあるからだ。
ミッションスクールと言えどすべての生徒が信心深い訳ではないが、トツ子は例外で、教会で祈ることが習慣になっているような少女だ。けれどもトツ子の信心が、物語に有機的に組み込まれているわけではない。これは《たまこラブストーリー》(2014)や《映画 聲の形》(2016)で、緊密な構成で物語を描き切った山田にしては不思議なことだ。つまり山田は、物語上の必然性がなくとも、キリスト教にこだわる理由があったのだ。
本来山田尚子作品は、宗教色を帯びるものではなかった。監督デビュー作の《けいおん!》(2009)はやはり高校生のバンドアニメで、毎日の生活の機微を繊細に描くことで日常系アニメというジャンルの代表作と評価された。その後も《たまこまーけっと》(2012)や《リズと青い鳥》(2018)など、時折ファンタジーのテイストを散りばめることはあれど、日常をベースにした、穏やかな作品を手掛けていくのが常だった。
変化が訪れたのは《平家物語》(2022)だ。序盤は山田らしく日常性にフォーカスしていくが、そこは平家物語ゆえ当然終盤は戦となり、平穏な日々は崩壊していく。このように日常が瓦解していく様子を描くのは、山田にとって初めてのことだった。
しかしそれを見ても突然の変化と思わなかったのは、2019年に京都アニメーションでの事件があったからだ。山田は京アニの出身で、《けいおん!》などの一連の作品も同スタジオで制作された。事件が起きたのは、山田が別のスタジオに移籍して後のこと。山田は《平家物語》と事件を関連付ける発言は一切していないが、連想せずに見るのは困難だ。
無常。平家物語に通底する主題で、もちろん仏教由来の概念だ。ものごとは常に移り変わり、ひとつところに留まりはしない。平穏な毎日も、次の瞬間には崩れ落ちているかもしれない。《けいおん!》などで描かれた日常もそうした無常に晒されていたが、それが表面化することはなかった。《平家物語》では遂にその禁忌を破ったが、仏教色、宗教色はさほど感じられなかった。しかし《きみの色》はそうではない。
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トツ子ときみが隠れてささやかなパーティを愉しむシーンで、アンダーワールドの〈Born Slippy〉(1996)がアレンジされて流れる。映画《トレインスポッティング》(1996)で効果的に使用され、パーティチューンとしてたちまち時代のアンセムとなった。だが本来のアンダーワールドの意図は、そうしたものではなかった。この曲は「助けを求める叫び」を歌っていて、薬物依存の負のスパイラルを描いた《トレインスポッティング》も、それを理解した上で起用されている。それは《きみの色》でも同様で、パーティを愉しむ心の奥底で、彼女たちが助けを求めていることを暗に訴えているのである。
きみもルイも、家族に打ち明けられない秘密を抱え、うしろめたさを感じている。ここで彼らの音楽にも耳を傾けてみたい。ルイが聖バレンタインで披露する〈あるく〉という曲は、「たたずむあなたへ愛のうた放つ」と歌われる。一方きみの〈反省文―善きもの美しきもの真実なるもの―〉はこのような歌だ。
まるで迷える子羊みたいだ
光をもとめて 反省文
さけぶこころの声まで飛ばして
わたしはあなたを愛してる
日本ではあまり知られていないが、アメリカにはクリスチャンミュージックという音楽がある。ゴスペルのようなものなのだが、《天使にラブ・ソングを…》(1992)でイメージされるような教会のゴスペルではなく、神を讃える歌ならロックでもパンクでもヘヴィメタルでも、ポップスでもラップでも何でもクリスチャンミュージックとしてカテゴライズするというものだ。
もともとロックなど、キリスト教を脅かす音楽ムーブメント——ジョン・レノンが「ぼくらはイエスより人気がある」と発言して謝罪に追い込まれたのは有名だ——に対抗するために教会のバックアップのもと成長してきたもので、80年代から顕在化し、今では各地でフェスを開くなど、大きな市場を形成している。エイミー・グラント、DCトーク、ストライパー、クリード、エヴァネッセンスなどがそうだが、彼らは日本でも有名なので、懐かしく思い出す人もいるのではないか。
たとえばU2は、クリスチャンミュージックとカテゴライズされることはないものの、ベースのアダム・クレイトンを除くメンバー3人は熱心なクリスチャンで、歌詞にも神やイエスへのメッセージが込められている。代表曲〈With or Without You〉は、タイトルだけ見れば熱いラブソングのようだが、このYouというのは神を指している。
ゴスペルやクリスチャンミュージックでは、「あなた」というのは神もしくはイエスのことで、これはゴスペルから発展したソウルやR&Bにも散見される。たとえば映画《スタンド・バイ・ミー》(1987)でも有名な〈Stand by Me〉の「So darlin’, darlin’, stand by me」という歌詞は——もちろんポップスなので恋人や友人と受け取れるようにもなっているが——神に対して、常にそばにいてほしいと願う歌だ。
きみやルイの歌に現れる「あなた」も、神を暗示するように設計されている。きみの歌の「反省文 」というのも、告解のことなのだろう。きみはルイが好きなようなのだが、これらの歌は互いのことを歌っているというよりは——特にきみは——神にすがっているのだろう。このように《きみの色》は、青春映画やバンドアニメの裏側に、神へ救いを求める心情が書き込まれている。
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とはいえきみやルイの悩みは、貧困や失業、ドラッグの悪循環から抜け出せない《トレインスポッティング》と比べればかわいいものだ。むしろここでは登場人物から離れたところで、もっと根源的な懊悩が隠されていると見るべきだろう。それは、《けいおん!》から《平家物語》にかけての、山田作品固有のテーマとしてある。
山田作品には、もともと天使というモチーフが見え隠れしていた。《けいおん!》では天使の歌が歌われ、《たまこまーけっと》では喋る鳥が街を飛び回る。それが《平家物語》では、右目で未来を見通すことのできる、琵琶法師のびわとして現れる。びわは平穏な日常を過ごしながら、そのうち悲劇が起こることが分かっている。しかし彼女には、定まった運命を変えることはできない。
《きみの色》ではどうだろうか。それを確かめるために、まずはこの作品で印象的に使用される、「ニーバーの祈り」について振り返ってみたい。
変えることのできないものについて、それを受け入れるだけの心の平穏をお与えください
変えることのできるものについては、変えるだけの勇気を、変えることのできるものとできないものとを、区別できる知恵をお与えください
シスター日吉子はトツ子にニーバーの祈りについて説き、悩む少女たちを導いて、やがて未来が開かれる、物語はそのように進んでいく。しかしこの祈りの作者がどういった人物かを考えると、見かたも変わっていくだろう。
ニーバーの祈りを考案したとされるラインホルド・ニーバーは、オバマも著書を愛読していることで知られる著名な神学者だが、二次大戦中の言動については評価が分かれる。リアリストでもあった二ーバーは、アメリカでナチスが問題視される前からドイツや日本を脅威と目し、日本への経済制裁を求め、戦争を肯定して核兵器開発も推進、広島と長崎での原爆には肯定しかねたものの、地上戦で多くの自国の兵士を失うことを考えれば必然悪だったとして、核兵器使用を命じたトルーマンを弁護した。二ーバーは、日本を制圧することを「変えることのできるもの」と理解したのだろうか。
二ーバーが支持した米軍と核兵器によって完膚なきまでに叩き潰され、決定的に「変わって」しまった長崎。そのミッションスクールで二ーバーの祈りが唱えられているというのは、いったいどういう皮肉なのか。神が見守っていようとも、破滅を逃れることはできない。永遠に続く平和はない。ならば人間ができることは、「それを受け入れるだけの心の平穏を」誰かが与えてくれるのを待つだけなのだろうか。
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きみのバイト先の本屋で、シスター日吉子が買い求めるエンデの《はてしない物語》。《ネバーエンディング・ストーリー》(1984)として映画化されたので覚えている人もいるだろう、読書好きで、しかし学校に居場所のない少年が、古本屋で出逢った「はてしない物語」の中で冒険を体験し、現実へ戻ってくる。そこで古本屋の主人も、かつて物語の中の世界を訪れていたことが分かる。
今は少女たちを導く日吉子も、少女だった時分はロックバンドのメンバーだった。敬虔で彼女を慕うトツ子も、いつか日吉子のようにシスターになるのかもしれない。《はてしない物語》はそうした未来、反復を暗示する。
これは《けいおん!》で、軽音部の顧問の過去が主人公たちに重ねられていくことの再演でもある。しかし《平家物語》を経由すると、事情は変わっていく。諸行は無常で、今は平穏であろうとも、悲劇はふたたび舞い戻ってくる。それが戦争なのか災害なのか、それとも何かの事件なのかは分からないが、悲劇は誰の身にも起こり得る。
トツ子たちの苦悩は幸いにも小さな悩みだったが、この先もっと決定的な何かが振りかからないとも限らない。トツ子たちがそれを乗り越え、大人になり、やがて目の前に苦悩の最中にある若者と出会ったら、日吉子がそうしたように、彼らを導いてやってほしい。こうした継承のうちに、繰り返す悲劇から身を守る方法があるのではないか。
一見穏やかな《きみの色》の世界でも、悲劇の予兆は立ち上がっている。劇中で聖歌隊が歌う讃美歌〈いつくしみ深き〉は、婚約者を事故と病気で二度も失った牧師が、それでもイエスを信じて書いた曲だ。トツ子たちがステージに立った聖バレンタイン祭は、ローマの迫害によって殉教した聖ウァレンティヌスに由来する。
ここでトツ子が見る「色」の話に移りたい。トツ子がきみから感じた「青」は、キリスト教において聖母マリアを指す。信心深いトツ子はそこに惹かれたのだろう。またルイの「緑」は生命や回復、新たな始まりを表し、ラストで大学に旅立つ姿を示唆する。ではトツ子が最後に自分のものとして気付いた色、「赤」は何か。殉教者の色だ。
もうひとつ。トツ子は幼いころバレエに憧れ、〈ジゼル〉を踊ることを夢見ていたが挫折する。それから年月が経ち、自らの「赤」に気付いたトツ子は、幸福感に満たされながら〈ジゼル〉を舞う。なんとも美麗なシーンだが、〈ジゼル〉は死で彩られた演目でもある。自らの過ちで愛する少女ジゼルを死なせてしまった男が、死者の世界まで彼女を追いかけていくが、目論みは潰え、ジゼルの力で男だけが生還する。彼女の墓の前で呆然と立ち尽くす男を残し、幕は降りる。
天真爛漫ながら、「赤」を纏い、ジゼルを踊るトツ子は、山田作品における「天使」の系譜にある。悲劇が永劫に繰り返される現実世界において、死の世界から生の側へ、失意の人をそっと送り返す者がいるとすれば、それはトツ子のような者だろう。
トツ子には、日吉子より優秀なシスターになり得る素質があるのかもしれない。未来を見通す能力を持ちながら無力感に耐えるしかないびわの延長線上に、山田尚子はトツ子という存在を生み出した。それはきっと、悲劇を乗り越え、失意の果てから何かを掴み取ろうとしたということなのだろう。
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ニーバーが影響を受けたというキルケゴールは——キルケゴールの《不安の概念》には、ハーマンから引いた「なぜならソクラテスが偉大だったのは、『彼が自分の知っていたことと知らなかったこととを区別したこと』による」(斎藤信治訳)というエピグラフがある——世界の不条理に対してどのように対峙すればいいか、キリスト教の教義と結び付けて考えた。それを実存主義へと導いたカミュは、神の怒りにより大きな岩を山頂に運び続ける罰を受けながらも、その運命に挑み続けるシーシュポスを肯定した。《カリギュラ》もシーシュポスの系譜に立つ者で、不条理と戦おうとする狂気の男として企図された。
ランティモスは《カリギュラ》を受けて、《憐れみの3章》で不条理に振り回される男女を描いたが、はたして彼らは不条理と対峙したと言えるだろうか。《憐れみの3章》を見ていると、ガザやベイルートで起きていることを想起しないではいられないが、ランティモスはこのような光景を不条理のスケッチとして見つめるだけで、その先を指し示すことはしない。
遠い出来事と感じるかもしれないが、日本も例外ではない。不条理な悲劇はいつ、どのようなかたちでやってくるか分からない。いざそうした局面に立ったとき、思わず絶対的な存在にすがらずに正気でいられるか、それは誰にも予測できない。山田尚子が本当に神を信じているのか、それは分からないが、重要なのは山田が不条理に抗って、作品をつくり続けていることだ。
この石の上の結晶のひとつひとつが、夜に満たされたこの山の鉱物質の輝きのひとつひとつが、それだけで、ひとつの世界をかたちづくる。頂上を目がける闘争がただそれだけで、人間の心を満たすのに十分たりるのだ。
(アルベール・カミュ〈シーシュポスの神話〉清水徹訳)
《きみの色》は、娯楽作品として楽しめるような体裁をとってはいるが、その根底には《けいおん!》などの山田の大切な世界と、それを過酷な運命から守ろうとする、孤独な戦いが窺える。それは山田尚子の、監督としての成熟を物語ると同時に、世界を守ろうとする、神への孤独な挑戦でもあるのだ。
(2024/10/15)
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noirse
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