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7月の3公演短評|齋藤俊夫

♪河村絢音による現代ヴァイオリン作品研究シリーズ Vol.2~ヴァイオリンとクラリネット~
♪ヴォクスマーナ第52回定期演奏会
♪音の始源(はじまり)を求めて Vol.4 遺された電子音楽名曲選

♪河村絢音による現代ヴァイオリン作品研究シリーズ Vol.2~ヴァイオリンとクラリネット~→演奏:演目
2024年7月13日 紀尾井町サロンホール

「新しい音楽」「古い音楽」とは何だろうか? 現代音楽ならずとも、あらゆる音楽において古典(classic)、聖典(canon)となったものには「永遠の新しさ」とも言うべきものがある。それに対してただ年代的に年が若い作品が「新しい」と言えはしない。そして、その「新しい音楽」と「古い音楽」を峻別するのはある種の「断絶」である。現れる度に常に経時的な縦の軸と同時代的な横の軸の断絶を体験せざるを得ない音楽こそが真に「新しい音楽」と言える。
ボルヘスの小説に材を取ったミュライユ『円環の廃墟』はヴァイオリンとクラリネットの音色をよく把握し、両者が鍔迫り合いをなすように書かれた作品、中橋祐紀『Shadow Dance』は運動的でありながら全体としては虚無的な雰囲気を漂わすあたり独創的であり、シェルシ『ディヴェルティメント第4番』は1955年ということで未だ晩期ロマン主義の香りも漂うエネルギッシュな作品、奏者の足踏みによる打撃音が拍を打つ中微妙なニュアンスに富んだ旋律線が描かれたのは夏田昌和『先史時代の歌I』、ニュネス『対決I』は2人の音の音高と音価と時間が対位的に、ある種気狂いじみた形相で絡み合う、とまとめられるが、残念ながらどの曲にも筆者が思うような「断絶」は内在していなかった。随分昔に同じようなことを書いたが、音楽が「断絶」を恐れた「歴史的必然」に乗っているままでは音楽シーンもろともに現代音楽は死に絶える。必然を打ち破る「特異的存在」が来たることを望む。

♪ヴォクスマーナ第52回定期演奏会→演奏:演目
2024年7月16日豊洲シビックセンターホール

この評執筆時にまさしくパリオリンピック真っ最中なわけだが、柔道などのスポーツ選手のみならずどんな人にも、もちろん音楽家にも「必殺技」がある。バッハもベートーヴェンも伊福部昭も一聴してすぐに「ああ、これは誰々の作品だ」とわかるのは彼らの音楽的必殺技が音楽の中に聴き取れるからである。今回のヴォクスマーナではアンコール曲含めた作曲家4人がそれぞれの必殺技を惜しみなく出し尽くしたが故の潔い「堂々たるマンネリズム」あるいは「新鮮なマンネリズム」というべきものを感じた。
先日惜しくも亡くなられた湯浅譲二『プロジェクション――人間の声のための』『声のための「音楽(おとがく)」』はどちらもどこを切っても湯浅譲二でしかありえない音楽。「人間の声のための」「声のための」とある通り、声が声のままで、意味をなす言葉になる以前の形態で増殖し広がっていく眼前のコスモロジーの豊かさに改めて巨星の偉業を体感する。
近江典彦『Dom-ino khon Oblique』はル・コルビュジェなどの建築家の遺したテクストを歌詞として用い、どう構成しているのか全くわからない初めて聴く和音と和声進行(微分音が用いられているという)が、平均律でも協和音でもないが「調和」している。快感と困惑が8対2の割合で、しかし爽やかに感じられる音が通り抜けた。
渡辺俊哉『半夜』は萩野なつみの詩を音声と意味の2つのベクトル、さらに歌手の位置パラメータの変化で分解・再構築し、詩の多義性を音楽的多義性として現す。渡辺らしい立体的音像が夜闇の中の朧月夜のように浮かび上がる。
伊左治直のアンコール『彩色宇宙』はオノマトペが最初から最後まで発せられる、中南米的にノリノリな音楽。転じて『世界への睦言』は「うー」「んー」というヴォカリーズで始まり、優しく温かいひそやかな調べでこちらを癒やし、最後は最初と同じヴォカリーズで円環をなすように終わる。
毎度のことながら尋常ではない技量をもって恐るべき完成度の現代合唱の世界を繰り広げるヴォクスマーナに今回もしてやられた。これからも注視せねばなるまい。

♪音の始源(はじまり)を求めて Vol.4 遺された電子音楽名曲選→演奏:演目
2024年7月18日 Artware hub KAKEHASHI MEMORIAL

まず始めにお詫びをしておかねばならないのは、筆者が開演時間を開場時間と間違えてしまい、第1曲柴田南雄『ディスプレイ ’70.2』は完全に聴き逃してしまったということである。実に惜しいことをした。今回の機会以後、また再現される可能性は全くの未知数であるというのに……。
高橋悠治『辿り』はクセナキスがミュージックコンクレートを用いたらこんな音楽を書くだろうなあ、と思わされる作品。聴いていてピアノ、トイピアノの音が聴こえたように思えたが、これは高橋のものであろうか。音源がテープ部分と生演奏部分の合成なのか、それともテープ部分のみだったのかわからなかった。悪くはないが、あまりにもクセナキス的ではないか、と正直に感想を吐露したい。
水野修孝『怒りの日』から第1部と第3部。第1部はスピーカーの左右を激しく行き来しながら純然たるノイズと楽音(だと思う)がテクスチュアを力技で作り出す。色々と破壊的な音響作品。第3部はチューブラーベルを叩く音が幾重にも幾重にも、作曲者のコメントによれば何万個もの音が鳴り響き凄まじい音塊が降り注ぐ。テープ制作時に水野の即興的なアクションが取り入れられたというが、とにかく勢いにまかせてぶちかますドデカイスケールの音楽であった。
そして作曲当時の最新コンピュータ技術で作られた平石博一『回転する時間(とき)』は今回会場の360度を囲むスピーカーから流されたのだが、CD録音で聴ける、当然2チャンネルスピーカーのものとは全く異なる音楽体験をした。水の具体音をサンプリングした第1曲「水」の、会場中あちらこちらから水がしたたり落ちるその残響までが心に波紋を作る。サイン波をサンプラーに通した音で作られている第2曲「波」の体全体を包み込む「波」の心地よさったらない。位置パラメータと音響技術でこんなにも聴取体験が変わるものか。第3曲「音」もサイン波による音楽。アタックの弱い音がフワッフワッと訪れては消えていく。快感! 第4曲「雑音」はソロバンを弾くような音や石を叩くようなサンプリング音による。サンプリング音のオーケストレーション、それも位置パラメータを含んだオーケストレーションがすこぶる巧みだ。第5曲「音楽」は既成の音楽作品のごく小さな断片をサンプリングした曲。水→波→音→雑音と来て、最後に音楽に至って360度のあらゆる方向から飛び交う無限大のスケールの音の群れに陶然となった。
この傑作たちが「お蔵入り」になるのは実に勿体無い。是非音源と共に再生技術も次世代に向けて保存して欲しい、そうつくづく感じた稀有な電子音楽コンサートであった。

(2024/8/15)

♪河村絢音による現代ヴァイオリン作品研究シリーズ Vol.2~ヴァイオリンとクラリネット~
<演奏>
Vn:河村絢音
Cl:片山貴祐(+)
<曲目>
トリスタン・ミュライユ:『円環の廃墟』(2006)(+)
中橋祐紀:『Shadow Dance』(2024,初演)(+)
ジャチント・シェルシ『ディヴェルティメント第4番』(1955)
夏田昌和『先史時代の歌I』(1999)
エマニュエル・ニュネス『対決I』(1982-84)(+)

♪ヴォクスマーナ第52回定期演奏会
<演奏>
混声合唱:ヴォクスマーナ
<曲目>
湯浅譲二『プロジェクション――人間の声のための』(2009委嘱作品・再演)
近江典彦『Dom-ino khon Oblique』(2024委嘱新作・初演)
渡辺俊哉『半夜』(2024委嘱新作・初演)詩:萩野なつみ
湯浅譲二『声のための「音楽(おとがく」』(1991)
(アンコール)伊左治直『彩色宇宙』『世界への睦言』

♪音の始源(はじまり)を求めて Vol.4 遺された電子音楽名曲選
<曲目>
柴田南雄:『ディスプレイ’70.2』(1970)
高橋悠治:『辿り』(1974)
水野修孝:『怒りの日』から第1部と第3部(電子音楽パート)(1972)
平石博一『回転する時間(とき)』(1993)
1.「水」 2.「波」 3.「音」 4.「雑音」 5.「音楽」