パリ・東京雑感|孤独と独裁の親密な関係|松浦茂長
孤独と独裁の親密な関係
The Authoritarians Best Thrive in a Broken Ethical Ecosystem
Text by 松浦茂長(Shigenaga Matsuura)
湘南新宿ラインに乗った50歳の男性が、出発後まもなく心筋梗塞で亡くなり、死体となったまま12時間、652,7キロの旅をしていたというニュースがあった。一日の輸送を終え、回送される前にやっと駅員に発見されたという。心筋梗塞はとても苦しい病気なのに、隣の乗客に気付かれずに死ぬことがあり得るのだろうか? 死んだ人は、隣の客にもたれかかったりしないのだろうか? 隣の人は死にそうな病人に関わるのがいやだから、別の席に移ったのでは? いやいや湘南新宿ラインは、そんなに空席がない。ホラー映画より恐ろしい空想が次々と浮んできた。
聖書学者の太田道子さんが、「スーパーマーケットで気分が悪くなって、しゃがみ込んでしまったけれど、誰一人声をかけてくれなかった」と怒っていたのを思い出す。いろんな国で働いた方だから、「声をかけない」日本人が異様に見えたのだ。
たしかに日本人にくらべると、フランス人はおせっかいだ。パリの美術館で、足も目も疲れ果てて、ベンチに座って目をつぶっていると、必ず誰かが「大丈夫ですか」と僕の顔をのぞき込む。今にも死にそうな、痩せた年寄りに見えるに違いない。どんなに疲れていても、背中を真っ直ぐに立てて、目を見開いて座らないと、「大丈夫ですか」の攻勢に合うのが、フランスのやっかいなところである。
そういえば混んだ山手線で、ふしぎなことがあった。妻の前の席が空くと、電光石火、どこからか現われた若い男がその席に突進し、席に着くやいなや、しあわせそうに目をつぶった。若者は立っていられないほど疲れている? 彼には老人から席を奪ったなどという意識はなかった? 空いた席があることしか、彼の意識にのぼらず、空席の前の人間は視野に入りさえしなかった?
乗客という他者は消え去り、自分以外の人間は透明化してしまった。
もしかしたら、湘南新宿ラインで死者の隣に座った人たちも、山手線の若者のように、他者が視界から消え去る、孤独盲目症を患っていたのかもしれない。
死者と並んで過ごしたことに気付かない社会は、不気味だ。いや、「不気味」だけですむだろうか? 他者が消え、人が孤独のからに閉じこもった社会はもろい。強い絶対的権力にやすやすと身を委ねる社会なのではないか?
世界の動きを眺めてみよう。プーチンと習近平が終身独裁制を固め、インドのモディ首相がヒンズー教強権政治、トルコのエルドアン大統領がイスラム強権ポピュリズム、イランには、ガザのハマスやレバノンのヒズボラやイエメンのフーシに代理戦争をさせている、物騒なシーア派神権政治、ヨーロッパでもハンガリーのオルバン首相のようなポピュリストが、民主的制度を破壊している。このうえ「もしトラ」になれば、東から西まで、地球は強権ネットワークで囲まれる形勢だ。
快進撃を続ける強権主義に対し、民主主義は劣勢を嘆くだけで、なすすべもないように見える。なぜこんなことになったのだろう?
『ニューヨーク・タイムズ』のコラムニスト、デービッド・ブルックスの診断によると、リベラリズムが一人歩きした結果、人々は孤独になり、方向を見失ったことに深い関係があるという。
そもそもリベラルって何だろう? コロナ前の話だが、パリの『憲法カフェ』で政治学者の山口二郎さんが、「リベラル」を肯定的に使ったら、パリ在住の女性たちが一斉に抗議した。フランスで「リベラル」といえば、国境を越えて最大限の利潤を追求する冷血の資本主義をさすから、手厚い福祉に恵まれてきたフランス人にとっては、とんでもないイデオロギーなのだ。
「リベラル」は、なんともやっかいな言葉である。ブルックスのアメリカ流リベラリズムを、どんな日本語に置き換えたら見当違いにならないだろう?「個人主義」はどうだろうか? 夏目漱石の昔から、日本では「個人主義」が讃えられてきた。フランスで「個人主義」というと、人と人の絆を断ち切る消極的なニュアンスが強いけれど、日本の「個人主義」は、明治以来の輝きを失っていない。他人をまね、世間に迎合するのをやめ、真実の自己に忠実に生きることが漱石の個人主義――そして日本人が愛し続けた「個人主義」だった。それはむしろ「人格主義」と呼ぶべきだったかもしれない。(ベルジャーエフは人格主義の視点から個人主義を非難している。)
ブルックスの議論に戻ろう。リベラリズム(個人主義)は、人が何のために生きるかについて口をはさまない。人生の<目的>については、いわば不可知論の立場を取り、法の支配、三権分立、自由な選挙、言論の自由といった<手段>に焦点をしぼる。肝腎なのは、一人一人が選択したゴールに向かって、自由に生きるための公正なシステムを整えることなのである。
では人生の<目的>の方は、どうやって見つけるのだろう? フランスの田舎町に行くと、真ん中に役場と学校があり、大分離れて教会がある。役場が<手段>のセンター、教会が<目的>のセンターであり、相互の距離は、リベラリズムと宗教の緊張関係を象徴しているように見える。キリスト教と民主的システムは時には敵同士でもあったけれど、この緊張をはらんだ共存が、人々の心の安定を支えてきた。
しかし、いま、田舎の教会は無人化し、思想・宗教は衰退し、リベラリズムだけが生き残った。ブルックスはアレクサンドル・ルフェーブルの『生き方としてのリベラリズム』を引用しながら、「多くの人々の人生において、宗教のようなモラル・システムが色あせてしまったため、リベラリズムだけが膨張・拡大し、彼らの魂の空白を埋めようとした。こうして、リベラリズムは精神的・道徳的色合いをおび、人生を導く哲学の役割を果たすようになった。」と見る。リベラリズムが宗教や哲学の代用品になったということだろう。
「私が男と結婚しようと女と結婚しようと、誰にも非難されない」自由は、素晴らしいことに違いない。しかし、「何をやっても良い」こと自体が究極の道徳原理になったとすれば、<手段>が<目的>にすり替えられる逆立ちだ。
逆立ちから道徳破壊が生じる。そのお手本はトランプである。2016年の大統領選挙の前、ポルノ女優との情事が表に出ないよう、大金を使って画策したことをめぐる裁判は、トランプのほかの罪状にくらべ政治的重みは小さいと言われるが、『ニューヨーク・タイムズ』のコラムニスト、トーマス・フリードマンは、「この裁判こそ今日の病めるアメリカの姿をさらけだし、私たちがどれほど歯止めを失った社会に生きているかを教えてくれる。」と書いている。
社会の機能不全を防ぐ歯止めの一つが<恥>だった。「これまでだったら、合衆国大統領に立候補した男が、自分の妻の出産直後にポルノ・スターと性関係を持ち、それを隠蔽するために文書偽造したと言いたてられたら、恥ずかしさのあまり頭を垂れ、選挙戦から身を引き、ベッドの下に身を隠したことだろう。<恥>という歯止めは、トランプによって完全に破壊されてしまったのだ。」
もちろん、高い地位にいる人が恥ずべき行為をするのは、今始まったことではない。以前と違うのは、誰も彼もがこれ見よがしに恥ずべき行動を取り、それが大目に見られることだという。例えばニクソン大統領は悪党だったかもしれないが、恥じ入った風をみせたものだ。トランプはそんな必要を感じない。
トランプは私たちの社会的・法的歯止めを破壊し、倫理エコシステムを破綻させたいのである。なぜなら彼のような連中は、破綻したシステム内にいるとき、最も栄えるからだ。トランプは次から次へ、うそを洪水のようにまき散らし、人々が彼だけを信じるようにさせ、真実とはすなわち彼が「真実」と呼ぶものだという状況を作り出し、私たちの倫理エコシステムの根幹を腐らせ、崩壊に至るまで圧迫し続ける。(トーマス・フリードマン『いかに我々は社会的歯止めを失ったか』ニューヨーク・タイムズ5月28日)
トランプが大統領に就任したとき、式典に集まった群衆の数がオバマ大統領の時より多かったと言い張ったため、誰の目にも明らかなうそを、コンウェイ大統領顧問がalternative factsという素敵な言葉で擁護した。トランプを信じる人々は、彼の言うことだけが事実であり、真実であり、現実であると認識するようになった。トランプは神のように真実の創造者になったのだ。
それにしても、なぜトランプのような大うそつきを崇める気になるのだろう?
「何をやっても良い」自由が歯止めを失い暴走する時代、人は何かに頼りたい、カオスの底におぼれないよう、守られたいと願うだろう。デービッド・ブルックスはこう説明する。
多くの人は精神的に満たされない思いを抱く。彼らは、裸にされ、敵に包囲され、孤独だと感じる。そこで彼らは、政治に手を伸ばし、道徳的にも精神的にもぽっかり穴の空いたような空虚感を埋めあわそうとする。彼らのお父さんやおじいさんの時まで、信仰、家族、大地、国旗から得られた連帯感、道徳的充実感、生きる意味を、政治からつかみ取ろうとする。そのため、政治は、対立する利害を交渉によってまとめるといった地味なものから、<聖戦>へと姿を変える。<聖戦>とは「わが方の正しさは証明済みだ。敵方はインモラルな悪だから破滅させなければならない。」とする闘いである。激烈化した政治は、個人の思想・生活の全体を覆いつくし、残忍無情な社会が現出する。(デービッド・ブルックス『勢いづく権威主義者たち』ニューヨーク・タイムズ5月16日)
トランプに頼る人たちは、心細いのだ。彼らは、「裸にされ、敵に包囲され、孤独」にされたと感じ、トランプだけが彼らを凶悪な世界から守ってくれると信じる。移民の洪水が自分たちの職を奪わないよう国境の守りを堅くし、学歴の高いエリート連中が自分たちを見下し、学校でわが子に歪んだ家族観や自虐的歴史を教えさせないよう……トランプだけが自分たちつつましいキリスト教ファミリーを守ってくれると信じている。
<聖戦>のイメージは、精神的真空状態に漂う人々に、力強い精神的展望を与えるだろう。あちら側には悪い連中、こちら側は正しい私たち。善と悪が戦うマニ教的物語は、闘う仲間に帰属しているというすばらしい一体感を与え、虚無と孤独をいやしてくれるのだ。
幸いにも日本にはファシストや強権ポピュリストへの渇望はない。第二次大戦前夜にくらべられる緊張した世界の中で、日本は桃源郷とでもよびたい静けさだ。でも、死体が12時間電車のイスに座っていた不気味さは、日本社会がひどく病んでいるしるしではないだろうか。
政治史学の御厨貴さんは、日本政治の現状について講演し「昔だったらとっくにクーデターが起こっていた」と警告した。政治も機能不全らしい。危険な兆候は、異常な犯罪からも読み取れる。
秋葉原無差別殺傷事件と京都アニメーション放火事件。犯人は、なぜあそこまで恨みをつのらせたのだろう。自分の「報われない」気持ちを打ち明け合う相手が一人もいない、癌化した個人主義の蔓延と関係ありそうだ。雨宮処凛さんは京アニの犯人についてこんな想像をめぐらしている。
たとえば青葉被告に「自身の小説が京アニに盗作されている」といった話をする相手がいたら、その人から「何を言っているんだ」と笑われて済んだのかもしれない。それが、自分の脳内だけで思考が回り続け、どんどん極端な考え方になっていったのだと思います。
青葉被告に一番平和的な軟着陸の仕方があったとすれば、京アニ好きのコミュニティーに入ることだったかもしれません。ネットだけでもいいので、京アニのよさを話せる場。友人だってできたでしょう。(雨宮処凛『<底辺>自称し孤立 ロスジェネ世代、青葉被告と加藤元死刑囚の違い』朝日新聞7月18日)
日本がふたたび強権軍国主義国家になるのを防ぐためにも、雨宮さんの言う通り、誰もが「話をする相手」をもつ、まともな社会を回復しなければならないのだが……
(2024/08/15)