Menu

小人閑居為不善日記 |「物語」から降りるということ——《デッドプール&ウルヴァリン》から《ホールドオーバーズ 置いてけぼりのホリディ》まで |noirse

「物語」から降りるということ——《デッドプール&ウルヴァリン》から《ホールドオーバーズ 置いてけぼりのホリディ》まで 
Getting Off The Story

Text by noirse  : Guest

※《デッドプール&ウルヴァリン》、《フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン》、
《メイ・ディセンバー ゆれる真実》、《ホールドオーバーズ 置いてけぼりのホリディ》
の内容に触れています

 

1

今回は、4本の新作映画を並べ、時評的に見ていきたいと思う。まずは《デッドプール&ウルヴァリン》(2024) だ。デッドプールはマーベルコミックが生んだ〈X-MEN〉シリーズのキャラクター。これまで〈X-MEN〉の映画は20世紀フォックスが製作していたが、マーベルを所有するディズニーにフォックスが買収されたことにより、今回からマーベル・シネマティック・ユニバース(MCU)の作品としてリリースされる運びとなった。

こうした馴染みのない人には分かりにくい事情が、作品のポイントにもなっている。時間変異取締局(TVA)のエージェント、ミスター・パラドックスの陰謀により、デッドプールが所属する世界に破滅が迫る。デッドプールの世界の中心となる存在、ウルヴァリンが死んだことがその要因だ。デッドプールは別の世界軸に向かい、代わりとなるウルヴァリンを連れてきて世界の延命を図ろうとするが、ミスター・パラドックスによって、ふたりともヴォイドという世界へ放り出されてしまう。

そこは一面の荒野で、TVAによって不要と判断されたヒーローたちが追いやられていた。ヴォイド(Void)は空虚とか無効などと訳されるが、役立たずという意味も持つ。役立たずコンビのデッドプールとウルヴァリンは、ヴォイドを支配するカサンドラ・ノヴァを倒し、元の世界へ戻るため、レジスタンスと手を組む。

レジスタンスの中に、ブレイドとエレクトラというキャラクターが登場する。彼らもマーベルの一員で、ウェズリー・スナイプスが演じるブレイドは《ブレイド》(1998)シリーズ、ジェニファー・ガーナー演じるエレクトラは《デアデビル》(2003)に《エレクトラ》(2005)と、フォックス製作のヒーロー映画で活躍していた。しかし《エレクトラ》は興行に失敗しシリーズ化は果たせず、《ブレイド》も3作目で評価を落とし、一般的には忘れ去られていた。それがディズニーのフォックス買収に端を発しての復活劇、ファンは感無量だったろう。

そこで思い出したのは公正世界信念である。人の行為に対して、正しい結果が返ってくるべきという考えだ。遊ぶ時間を犠牲にして勉強や仕事に励み、他人が困っていれば助け、健康に気を使っても、受験や就職に失敗したり、病気や不意の事故に遭い、人生が思い通りにいかないということも、往々にしてある。逆に努力せず、不正な方法で成功する者もいる。前者は報われるべきで、後者は罰されるべきというのが、公正世界信念だ。

ここ数年、マンガやアニメなどで一大勢力となった「異世界もの」ジャンルについて、人気の理由は公正世界信念にあるのではという意見を見かけることがあった。異世界もの作品では、真面目に生きてきたにもかかわらず報われない主人公が異世界へ転生し、今まで培ってきた知見によって成功、尊敬を得るというものが一部ある。これが公正世界信念に基づくということだ。

どこまで当てはまるのか分からないが、それでも一理あるように感じるのは、現代社会が公正世界信念をくすぐるようにアピールしてくるからだ。政治家やSNSが、自国民より移民や外国人が優遇されていると煽ってくるのは日本も欧米も同じだ。そうした志向がエンタテインメントにも反映しているというのは、十分あり得ることだろう。

《デッドプール&ウルヴァリン》にもそうした意識が見て取れる。MCU開始前にもヒーロー映画は色々あったがどれも散発的で、サム・ライミ版《スパイダーマン》(2004)や《ダークナイト》(2008)の成功を経て、《アイアンマン》(2008)でMCUが口火を切るまで、ほとんどが徒花扱いだった。そんな中でも《ブレイド》を追いかけていたことは間違っていなかったという感慨。それはMCUという「公式」に認められた、言い換えれば「正史」に組み込まれた喜びでもあるだろう。

こういったアメコミ映画における歴史の再記述が、ここ数年目に付くようになっている。《スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム》(2021)では、《スパイダーマン》シリーズでスパイダーマンを演じたトビー・マグワイアと、《アメイジング・スパイダーマン》(2012)シリーズで同役を担当したアンドリュー・ガーフィールドが召喚され、DC映画の《ザ・フラッシュ》(2023)には、ティム・バートン版《バットマン》(1989)でバットマンを演じたマイケル・キートンが同役にオファーされた。

歴史は勝者がつくるものという考えかたがある。《アベンジャーズ/エンドゲーム》(2019)によって世界興行収入歴代1位という記録を打ち立てたマーベルは、ハリウッドの勝者と言っていい。《ブレイド》や《エレクトラ》はけして勝者ではなかっただろうが、けれども今回のピックアップによって、これらも勝者のリストに名を連ねることができたのだ。

《デッドプール&ウルヴァリン》は敗者の物語でもある。デッドプールは婚約者にフラれ、アベンジャーズに入ろうとするも果たせず、ヒーローの才能があるにもかかわらず中古車のセールスマンとして生計を立てている。今作でのウルヴァリンは、自らの油断で仲間を殺され、彼らを救えなかったという過去に苛まれており、自分を許せないでいる。

しかし世界を救うことで、ふたりは敗者というレッテルから解放されるだろう。《デッドプール&ウルヴァリン》は、敗者が大逆転し、役立たずだった人生が報われる物語として設計されている。そしてそれは、《ブレイド》や《エレクトラ》が「公正」に、「正史」へと組み込まれていくのと同期しているのだ。

 

2

勝者が歴史を紡いでいく。《フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン》(2024)という映画は、それを異なった角度から語っていく。1969年のアメリカ。マーケティングを商売とするケリーは、政府の関係者と名乗るモーの依頼で、アポロ11号の月面着陸計画の宣伝を担当することになる。ケリーは月面着陸の生中継を提案、プロジェクトは動き出していくが、そこでモーから密命が下る。万が一生中継が失敗したときのために、保険として月面着陸の偽映像を撮影しろと言うのだ。

お察しの通り、これはアポロ計画陰謀論のパロディだ。アポロ11号は月面に着陸などしておらず、生中継された映像はスタンリー・キューブリックが撮影したフェイク映像という陰謀論で、一笑に付されるような妄言だが、これが意外なことに、50年に渡る根強い支持を得ているのだから驚きだ。

《フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン》はアポロ計画陰謀論をうまく劇中に取り入れた上で、結果的には生中継の成功とNASAの努力を謳い上げていく。それにより陰謀論を牽制し、果てはフェイクニュースやポストトゥルースの溢れる現代社会を暗に揶揄しているわけだ。

こうしてみると《フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン》は、《ライトスタッフ》(1983)や《アポロ13》(1995)、《ファースト・マン》(2018)のように、宇宙飛行計画を素材としたプロジェクトものの作品と思えるかもしれない。または《ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書》(2017)や《記者たち 衝撃と畏怖の真実》のように、事実を報道することに賭けた人々を描くことで、トランプ信者や陰謀論者を抑制するような映画と感じるかもしれない。

ところがこの作品、ジャンルとしては直球のロマンティックコメディに仕上がっている。それも時代錯誤なくらいで、コテコテの脚本や演出はまるで1930~40年代のそれだ。そもそも映画の舞台となった1969年といえば《イージー・ライダー》や《明日に向って撃て!》などニューシネマの当たり年であり、ベタなロマコメはとうに主流ではなかった。するとこの映画は、陰謀論を取り込むにあたって、劇中の時代ですらアナクロだった、ロマコメという器をわざわざ用意したことになる。ここにはどういう意図があるのか。

黄金時代のハリウッド映画は、「アメリカの神話」とも称される。もしかしたら《フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン》は、クラシックな映画史の伝統の中に陰謀論を取り込み、武装解除させることによって、「アメリカの神話」に統合することを企図しているのではないか。《ペンタゴン・ペーパーズ》のように、フェイクニュースがはびこる状況へ事実を対抗的にぶつける方法は、同じ土俵に立っているという意味では効果は弱い。そうではなく、フェイクニュースや陰謀論を「神話」の中に組み込むほうが、戦法として適切なのではということだ。

しかし、ここで気になってくるのは、「正しい歴史」というイデオロギーである。《フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン》におけるアポロ計画への素朴な賛美は「偉大なアメリカ」への憧憬に溢れていて、これはこれで辟易してしまう。陰謀論には首を傾げるものの、「正しい歴史」の押し付けにも与することはできず、これもまた現在の政治状況の縮図のようで、なんともいえない後味の悪さが残った。

 

3

「物語」との距離において、《メイ・ディセンバー ゆれる真実》(2023)は、その対極にある。30代の女性が12歳の少年と不倫関係となった一大スキャンダル、メイ・ディセンバー事件を発想元とした映画だ。メイ・ディセンバーとは、年の差カップルを意味する。

かつての事件から20年以上の年月が流れ、渦中の男女だったグレイシーとジョーはその後結婚、ジョージア州サバンナの静かな街で、ひっそりと暮らしている。そこに著名な女優エリザベスが訪ねてくる。事件が映画化されることになり、グレイシーを演じるエリザベスが、彼女に取材を申し込んだのだ。サバンナに長期滞在し、グレイシーの家に出入りするようになったエリザベスは、次第にジョーとの距離を縮めていく。ジョーは穏やかな性格の持ち主だが、常に彼の上に立つグレイシーとの関係にいら立ちを抱いており、話を聞いてくれるエリザベスに好感を抱いていく。

エリザベスとジョーは関係を持つ。ところがそのあとエリザベスがジョーの経験を「物語」と表現したことに彼は激高する。「物語だって? ぼくにとっては人生だ!」と。ふたりの関係は決裂、エリザベスはサバンナを去り、映画の撮影が始まる。

監督のトッド・ヘインズの代表作といえば、《エデンより彼方に》(2002)か《キャロル》(2015)だろう。両作とも1950年代のアメリカを舞台にしたメロドラマで、古典映画の技法に基づいた着実な演出で高く評価されている。

《エデンより彼方に》は、メロドラマというジャンルを完成させたドイツ出身の巨匠ダグラス・サークの《天はすべて許し給う》(1955)のリメイクでもある。メロドラマというと軽く見られがちだが、サークが挑んだのは、恋愛の過程で社会問題を浮き彫りにするという方法論の確立だった。恋人同士が好き合っているにもかかわらず引き裂かれるのは何故か。それは彼らのあいだに差別やジェンダー、経済格差などの社会問題が立ち塞がるからだ。サークは恋愛の道行を微に入り細に渡って描き出すことで、当時の封建的な社会を浮き彫りにすることに成功した。

現役時代は娯楽映画の監督として軽視されたサークだったが、晩年再評価が進み、同じくドイツのライナー・ヴェルナー・ファスビンダーや、スペインのペドロ・アルモドバル、ジョン・ウォーターズのような、クセの強い監督からも最大限のリスペクトを得ている。ヘインズもそのひとりで、《メイ・ディセンバー》もサーク流メロドラマの系譜にあるだろう。

一方でヘインズには、《アイム・ノット・ゼア》(2007)のような作品もある。ボブ・ディランの伝記映画という企画だったのだが、結果的には異なった時代に生きる、ディランを基にした人物を6人の俳優が演じるという挑戦的な作品として成就した。ヘインズは《ダーク・ウォーターズ 巨大企業が恐れた男》(2019)のような社会派リアリズム作品も手掛けるが、彼にとって真実とは不確実なシロモノで、作品によってアプローチを使い分けるものなのだろう。

ヘインズは事実を物語化することの危うさを十分認識している。そうした態度が作品の射程を深め、とりわけグレイシーとエリザベスというふたりの女の謎を掘り下げることに成功しているが、同時にジョーという男のよるべなさを炙り出しているのも見逃してはならない。

ジョーはグレイシーに支配されており、そこから脱出したいと望んでいるが、その勇気が出ない。エリザベスと寝たのは、彼女との関係の先にサバンナの外部を見出しているからだ。しかしエリザベスの関心は映画の役作り、つまり「物語」にしかなく、グレイシーのようにジョーを支配することで、彼女に近付こうとしているに過ぎない。

仮にジョーがエリザベスと新たな生活を築いたとしても、そこにはグレイシーが支配する物語とは別の、エリザベスの物語が待ち受けるだけだ。ジョーはそれを拒否するが、だからといって彼には、自分の物語を紡ぎ出す力はない。ジョーがどう言おうが、彼はグレイシーが紡いだ物語の中に生きている。誰かの物語の中でしか生きられない、それがジョーという男の悲劇だ。

 

4

人は歴史や物語なしでは生きられないのか。最後に《ホールドオーバーズ 置いてけぼりのホリディ》(2023)を紹介しよう。1970年のクリスマス、ニューイングランド。都会から離れた寄宿学校、バートン校が舞台。生徒がみな帰郷したり、スキー旅行に向かう中、たったひとり学校に残された問題児アンガスと、彼の世話を押し付けられた歴史教師ハナムが主人公だ。規律を重んじるハナムにアンガスは喰ってかかるが、次第に打ち解けるに従って、アンガスが家庭に問題を抱えており、それが彼の心に影を落としていることが分かっていく。

一方ハナムにも躓きがあった。ハーバード在学中、ハナムが執筆していた論文をルームメイトが盗作し、怒ったハナムは彼を自動車で轢いてしまう。キャリアを棒に振ったハナムに、バートン校の当時の校長が同情し、非常勤講師の席を与えたのだ。ハナムはそうした経歴を恥じていて、誤魔化し見栄を張ってしまう、そうした心の弱さを抱えている。

ハナムはアンガスのある願いを聞き入れ、親や学校に無断で、ひとつの行動に出る。それが明るみになりアンガスの親は激怒、息子を陸軍士官学校に転入させようとする。それに対しハナムは、自分がアンガスを説得してそうしたのだと嘘をつく。アンガスはバートンに留まることを許されるが、ハナムは解雇されてしまう。

監督のアレクサンダー・ペインは、《アバウト・シュミット》(2002)、《サイドウェイ》(2004)、《ファミリー・ツリー》(2011)と、ほとんどの作品で、白人の中年男性が抱える問題を取り上げてきた。そういう意味では《ホールドオーバーズ》も例外ではない。けれども恋人も親友も家族もおらず、容貌も恵まれず、収入も多くはなさそうで、寮学校で住み込みで働いていたためバートンを解雇されれば住む場所がないというハナムは、今までペインが描いてきた作品の中でももっとも孤独で、追いつめられた男だ。

それでも若い友人のために信念をもって行動したハナムは、すべてを失ったにもかかわらず、すがすがしい表情で学校を後にする。普遍的な人生の問題を抑制された演出で描き切った《ホールドオーバーズ》は、ペインの最高傑作と呼んでも過言ではなく、アカデミー賞にもノミネートされ、高い評価が与えられている。

けれども異論もある。映画批評家のリチャード・ブロディは、ニューヨーカー誌に寄せたレビューで、一定の評価はしつつも、《ホールドオーバーズ》は閉鎖的で、歴史を簡略化することで非政治的となっていると批判している。1970年と言えばベトナム戦争の最中で、政治運動もまだまだ盛んだった。《ホールドオーバーズ》にもコックのメアリーの息子がベトナムで戦死するというエピソードが挟み込まれるが、だがそうした政治性が主役のふたりに作用し、突き動かすことはない。ブロディは、政治的対立を巧妙に逸らすことで安全かつノスタルジックに楽しめる作品と化しており、現代も抱え続けている問題を放擲していると論じる。

正しい指摘ではあるだろう。しかしこのようにも言える。歴史を専門とするハナムには、いつでも「歴史」や「物語」に飛びつく準備はできているはずだ。そうした場所でなら、彼の孤独も癒せるかもしれない。けれどもハナムは政治や社会に背を向けて、何にも加担することはなく、自らの弱さを引き受けていく。そうした静かな決断は、1970年という激動の時代だからこそ、より際立つのではないか。

《デッドプール&ウルヴァリン》や《フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン》を見ていると、「敗者」からの逆転への志向や、誰かに認められたいという思い、「歴史」や「物語」と一体化したいという心情が伝わってくる。そういう切実さはよく分かる。けれども《メイ・ディセンバー》のように、「物語」の中に生きることの苦しさ、虚しさというのも確かにある。《ホールドオーバーズ》のように、「歴史」や「物語」から見放されたとしても、だからと言ってそれを希求するのではなく、自らそこから降りていく、そういう選択肢があることも忘れてはいけない。アメリカ大統領選の報道を見ていると、なおさらそう感じられるのだ。

(2024/8/15)

————————————–
noirse
佐々木友輔氏との共著《人間から遠く離れて――ザック・スナイダーと21世紀映画の旅》発売中