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「ライカムで待っとく」(久留米公演)|柿木伸之

「ライカムで待っとく」(久留米公演)|柿木伸之
“Backyard in RyCom” Performance at Kurume-za Theatre, Kurume City Plaza, Fukuoka

2024年6月15日(土)13:00開演/久留米シティプラザ内久留米座
June 15, 2024 / Kurume-za Theatre, Kurume City Plaza, Fukuoka
Reviewed by 柿木伸之(Nobuyuki Kakigi)
Photos by 引地信彦/写真提供:KAAT神奈川芸術劇場(2024年度公演)

企画制作:KAAT神奈川芸術劇場        →foreign language
作:兼島拓也
演出:田中麻衣子
〈出演〉
中山祐一朗(浅野悠一郎)
前田一世(佐久本雄信/藤井秀太)
佐久本宝(佐久本寛二/タクシーの運転手)
蔵下穂波(伊礼ちえ/栄麻美子)
小川ゲン(平豊久)
神田青(嘉数重盛)
魏涼子(浅野知華)
あめくみちこ(金城)

 

2022年の初めに沖縄を旅した際、沖縄県立博物館・美術館で開催されていた「琉球の横顔」展を見た。この展覧会で目にした作品のなかで印象的だった一つに、石垣克子の《ライカム交差点からの眺め》(2017年)がある。鮮やかな緑の芝生に木立や家屋が影を落とす風景を描いた絵画だ。陽射しの強さを感じさせるその画面は、沖縄に基地を置き続けるアメリカ合衆国の軍隊の近さも伝えている。白壁の家は軍人の住宅だろう。それと背後にある巨大な建造物の影には、沖縄の人々が巻き込まれてきた歴史の記憶が滲み出ているように見える。
「ライカム」とは、沖縄本島の中部に置かれていた琉球米軍司令部(Ryukyu Command headquarters)の略称。それは地名として、また沖縄最大のショッピングモールの呼称として定着している。このライカムという名の寓意性を生かしつつ、沖縄戦から現在まで沖縄の人々が軍隊の暴力をつねに身近に感じながら抱え込んできた記憶に迫った劇が久留米シティプラザの久留米座で上演された。兼島拓也作の「ライカムで待っとく」である。伝言のようにも見える表題の言葉は、いったい誰に語りかけられているのだろうのか。

物語の発端になるのは、沖縄出身でパン屋を営む伊礼ちえが、祖父が遺した手記などの膨大な資料を、藤井秀太が編集する雑誌に持ち込んだことである。ベーカリーが横浜にあるという設定は、「ライカムで待っとく」がKAAT神奈川芸術劇場の制作による作品であることと同時に、沖縄の人々が戦後、曲折をたどらざるをえなかったことも暗示しているのかもしれない。彼女の許にあった資料が証言するのは、1964年8月16日に普天間基地の近くで起きた乱闘事件である。この事件で米兵の一人が死亡し、一人が負傷したとされている。
今日も「米兵殺傷事件」として知られるこの事件を掘り起こす記事を雑誌に書くことになった記者、浅野悠一郎は、当時の写真に自分とそっくりの顔を見いだす。その顔の主こそ、伊礼の祖父だった。彼はさらに、沖縄出身の妻、知華の祖父が「殺傷事件」で起訴された若者の一人だったことも知る。浅野は導かれるように、この出来事が起きた60年前の普天間の盛り場に迷い込む。そこに軒を連ねるおでん屋に集う若者たちの姿が、俳優の熱のこもった演技と相まって印象的だった。ウチナーグチを交えた丁々発止のやり取りが小気味よい。

互いにはやし立てる様子から伝わってくるのは、若者たちのひたむきさと、痛切なまでの絆の深さである。その明るく、熱を帯びた情景は、深い影のなかから浮かび上がっている。若者たちのなかには、沖縄戦に巻き込まれ、家族のうちでただ一人生き残った者がいた。強制集団死に追い込まれるなか、家族を手にかけた者もいた。こうした戦争体験の傷を負っているからこそ懸命に生きる若者たちに、沖縄を統治する米軍の暴力が立ちはだかる。おでん屋から帰ろうとした仲間の一人は、途上で米兵が振るう圧倒的な暴力にさらされた。
彼を守ろうとゴルフのクラブを持ち出そうとした佐久本寛二──知華の祖父である──は、兄の雄信に制止される。仲間を守る行動すら封じられていることへの憤りには、自分たちの力では抑えることのできない暴力に絶えずさらされていることへのやるせなさが凝縮されているように見えた。さらに佐久本ら四人の若者は、米国民政府裁判所に提訴される。彼らを有罪へと追い込んでいく英語での尋問は、沖縄の人々をあくまで支配の対象として見下す統治者の眼差しを声のかたちで伝えながら、若者たちの無力さをあぶり出していた。

撮影:引地信彦

こうして軍隊の暴力にさらされてきた若者たちが、それによって罪を負わされるに至る過程を雑誌の記事に浮かび上がらせようとするとき、もはや書いているのは浅野の意識ではない。彼は普天間の若者たちの魂に、彼らを見守る周囲の人々の魂によって書かされているのだ。それとともに浅野は、彼らを裁く裁判の陪審員の一人だった伊礼の祖父の立場と重なるかたちで、沖縄の人々の犠牲が積み上げられていく歴史を前へ進めることを迫られる。浅野自身もその歴史に巻き込まれながら。今や追う者が追われている。
どこか安部公房の『燃えつきた地図』の興信所員を思い起こさせる地点へ浅野を導いたのは、霊媒の金城とタクシーの運転手だった。これらのユーモラスな登場人物をはじめ、「ライカムで待っとく」には、現在に生きる者を、沖縄の人々が翻弄されてきた歴史をめぐる問いに巻き込む仕掛けがいくつも織り込まれている。久留米座の舞台では、その演出も綿密な考証にもとづいているように思われた。そのことは例えば、過去へ向かうタクシーの座席の位置がいつしか入れ替わっているところにも表われていたかもしれない。

撮影:引地信彦

こうした仕掛けに導かれて観客が歴史への問いを抱こうとすると、同時に突き放すような力が働くのが「ライカムで待っとく」の特徴と言えよう。同情を拒むように繰り出される寓意的な表現には、ひたすら犠牲が積み上がっていくことに対する沖縄の人々の絶望の深さを感じないではいられない。その一方で、こうした表現によって問いが掘り下げられないもどかしさも残る。年老いた霊媒が「アーカイヴ」といった言葉を駆使するのには思わず引き込まれるが、このとき「アーカイヴ」と呼ばれているものが何かは問われうるのだろうか。
浅野とその妻は、行方が途絶えた娘の運命への不吉な予感を抱きながら、ライカムの跡地に造られたショッピングモールのバックヤードへ導かれる。このとき二人は、沖縄は「日本のバックヤード」だと聞かされる。ある場所とそこで働く人々のイメージを伴って響くこのような言葉は、歴史への洞察を感じさせる一方で、人を分かった気にさせる危うさも含んでいるのではないか。「ライカムで待っとく」に込められた仕掛けは、まさに問いを喚起する批評性を発揮することによって、問題の焦点を見えにくくしているのではないだろうか。

舞台の後半では寓意的な表現が連ねられるなか、60年前の夏に普天間の若者たちが巻き込まれた出来事は後景へ退いていく。伊礼が持ち込んだ資料の段ボール箱は、どこまで開けられたのだろう。それと重なるかたちで、バックヤードには無数の段ボール箱が積み上がっている。このことに向き合わされるとき、「ライカムで待っとく」という表題の言葉は、観る者にも向けられていよう。今それに応えるとは、もはやただ箱を開けることではない。箱をひっくり返し、犠牲を積み上げ続けている歴史を貫く暴力を見返すことであるはずだ。
60年前の夏、沖縄の若者たちはどのような暴力に抗おうとしたのか。そして抗うとはどのような行動だったのか。そうした問いを突き詰めるところから日本、そしてこれが依存する米軍の暴力に抵抗する潜在力を一人ひとりのうちに探る思考。またしても米兵による誘拐事件が起き、若い女性が性暴力の犠牲になり、さらにそのことが沖縄の人々に伝えられたのは7か月も経った後だったという許容しがたい事実を前にするとき、このような思考を表現し続けることに、人としての生存そのものがかかっていると思わざるをえない。

(2024/7/15)

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Production: The Kanawaga Arts Theatre (KAAT)
Playwright: Takuya Kaneshima
Director: Maiko Tanaka
[Performers]
Yuichiro Nakayama (as Yuichiro Asano)
Issei Maeda (as Yushin Sakumoto and Shuta Fujii)
Takara Sakumoto (as Kanji Sakumoto and a Taxi Driver)
Honami Kurashita (as Chie Irei and Mamiko Sakae)
Gen Ogawa (as Toyohisa Taira)
Ao Kanda (as Shigemori Kakazu)
Ryoko Gi (as Chika: Asano’s Wife)
Michiko Ameku (as Kinjo: a Shaman)