五線紙のパンセ|疑わしい音楽(2)|池田拓実
Text by 池田拓実(Takumi Ikeda)
■音楽の外側
音楽はコミュニケーションツールであるという主張が存在する。私見では、楽譜は間違いなくコミュニケーションツールであるが、音楽それ自体は果たしてどうか。言語について考えると、確かに人間はコミュニケーションのために言語を用いるが、コミュニケーションのためだけに言語を用いているのでもあるまい。恐らく多くの人々は、物事を考える時にも頭の中や紙の上、画面上で言語を用いる。
音を媒介として物事を考えることもまた音楽実践である。音楽を聴くことは音楽実践の一つだが、音楽を聴いている最中に何らかの考えが浮かぶことがある。それは只今聴いているものに関することや、さほど関係がない事柄でもあり得る。これら一切の思考を締め出して、純粋に音楽を聴くことは瞑想に似ている。
瞑想の一つとして、物事をあるがままに観察するというものがある。あるがままに、とは主観的判断を介さないということである。様々な雑念が瞑想を妨害するが、雑念を回避する方法の一つとして言葉によるラベリングがある。瞑想の最中に次々に生じる思考や気付き、自己の心的状態、自らの身体が感じた感覚などに言葉でラベルを貼って行く作業である。ラベリングには極力主観を含まない言葉を用いる。
瞑想は必ずしも静かに座って行うものとは限らず、雑念を交えず没頭できる行為であれば、トレッキングやプログラミングの最中にも似たような時間があると筆者は考える。何かしら難点があるとすれば、主観の排除に徹するあまり全てが他人事に思われ無感動になる惧れがあるということである。手段と目的とを混同してはならない。
このようなラベリング等によって雑念を回避した上での、純粋な音楽聴取について思考実験してみる。確かに聴取という行為そのものには集中できるだろうが、これは筆者が求める音楽ないし音楽実践ではないという気がする。筆者が求める音楽とは結局、雑念も含めて何かしらの思考を喚起するものである。聴取の対象が自身の趣味趣向とは完全に異質のものだったり、不愉快極まるものだったとしても、そこから何かしらの気付きが得られれば収穫があったと言える。
音楽の聴取や作品作りの場面において、音を使って何ができるのかについて考えることがある。紙や画面の上で言葉を扱うことと同じように、楽器を演奏する人ならば実際の音を用いて思考するかも知れない。楽器を演奏しない筆者の場合は、主にコンピュータで音を出しながらの作業になるが、作曲の場合は専ら自作の音並べプログラム【池田2016】を用いる。
あらゆるプログラムがその内部で扱っているものは、実のところ数値や記号などのデータであり、それらのデータはそれ自体では音(この場合は楽音)や音楽とは何の関係もない。だから筆者は作曲プログラムではなく、音並べプログラムと呼ぶのだが、多少なりとも旋律的なものを書こうとすると、単に音を並べただけでは全く話にもならないことは、プログラムの出力から直ちに理解される。
恐らく旋律とは単なる音の羅列ではなく多層的な現象なのだが、何をどう組み合わせれば旋律らしきものに近づくのか、わかっているならプログラムで書けば良い話で、それがわからないから旋律やリズム、和音などの既知のカテゴリーを一旦解体してみようという考えが生じる。楽音とは言わば音というよりは記号であり、複数の音の間の関係性によって何ものかを構成するための材料に他ならない。他方、プログラムが扱っているものはもとより音ではなく記号なので、既知のカテゴリーに囚われる必要がない。
音楽から時間を取り除く【池田2022】[VIDEO]とか、声楽から旋律を取り除く、あるいは合唱を体鳴楽器と見做す【池田2023】といった厄介な問題設定も、こうした手探りの延長にある。何らかの要素や前提を取り除くという方法は筆者の近作に頻出する。
旋律をどう定義すれば良いのかわからないという状況は、大規模言語モデル(LLM)によるAIが自然言語のバックボーンとなる身体知を持たず、つまりは現実の事物に触れた経験がなく、言うなれば辞書と共に閉じ込められた部屋の中で、文脈を理解することなく大量の自然言語処理を行っている【今井・秋田2023】という状況にも似ている。この場合AIにおける現実経験の欠如は、筆者が楽器を演奏しないことと対応する。楽音に対する理解にしても、筆者と演奏家とでは本質的に異なるものであり得るだろう。うっかり演奏不可能なフレーズを書いてしまう、ということよりも何か決定的な差異があるように思う。
以前、とある尊敬する音楽家から「コンピュータから何か凄い音が出てきても、そのこと自体は別に凄くも何ともない」と言われ、大いに首肯したことがあった。問題は出力としての音というよりも、コンピュータで何をしているかである。少なくともコンピュータにしか出来ないことをしなければ意味がない。本来コンピュータは音楽とは関係がない情報処理装置である。コンピュータに楽器の代わりは務まらないし、それをあたかも楽器の如く扱うというあらゆる試みには本質的に意味がない【久保田2017】。
もとよりコンピュータとは音楽の外側にある存在である。ならばコンピュータ音楽家という肩書に至っては、尚更奇妙に思えるが(今日、コンピュータを使って制作を行う音楽家は無数に存在するだろうが、わざわざコンピュータ音楽家とは名乗らない)常日頃こうして音楽の外側を彷徨しているためか、音を介して物事を考える時に筆者の意識はしばしば音楽の外側へと向かう。
音楽に外側があるならば、対する内側があり、両側の間に何らかの境界がある、ということになりそうである。音楽の外側とは音楽以外のあらゆる物事を意味するから、ここでは外側の存在を示唆するに留める。その一つである「物」については追って議論するとして、まずは音楽の境界について検討する。
実のところ、どこまでを音楽と捉えるかによってこの境界は変動し得る。ガムランのように共同体の活動として音楽があるならば、共同体と切り離して音楽のみを論じることには注意を要するかも知れない。同様に、音楽と政治が全くの無関係とも言い難い。クリストファー・スモール【スモール2023】が指摘したように音楽とは行為であるならば、少しの政治性も含まない行為というものも想像し難い。現代社会で生きる者にとって、何を食べるかという選択一つとっても政治と無縁ではあり得ない。音楽は時間芸術であると言われるが、音楽によって表象される幾何学化された時間概念もまた強い政治性を帯びている【池田2022】。少なくとも創作者はこのことを意識すべきである。
音楽の定義に人為との関わりを挙げることも考えられる。その場合、音響の生成に人為が直接的に介在しない、犬の遠吠え[AUDIO_1]や、象が演奏するガムラン[AUDIO_2]、水田のフィールドレコーディング[AUDIO_3]などは、果たして音楽と言えるのか。勿論、水田を整備したり、象の目の前にガムランを設えたのは人為に他ならないが、明らかに水田は音楽の為に作られたものではない。
再び、音楽とは行為であるならば、人為との関わりが薄いそれらの音響を記録し、聴き出すことをして音楽と呼ぶことは可能だろう。だがベンジャミン・リベットの実験——人がある動作をする時、動作に対する意志を自覚する約0.5秒前には動作に関する脳活動が観測される。つまり動作をしようとする0.5秒前には既に動作が「始まって」いる【リベット2021】——が示唆するように、脳が生み出す幻覚とは言わずとも、自由意志なるものの在りようが多少とも怪しいものだとすれば、積極的な人為というよりは、脳が勝手に音楽と認識したものを意識の側が受動的に聴かされている、と言う方が事態に即するようにも思える。
楽器や演奏者の身体の存在をも捨象して、その場に発生している音響しか相手にしないといった極端な捉え方も可能ではある。あるいは何かしらのイデアこそが音楽であって、現実の音響すら不要と言うこともできる。ピタゴラスからケプラーの時代まで度々取り沙汰された「天球の音楽」という発想に至っては、天体の運行によって生じるとされる、人間には不可聴の音楽もまた音楽であり、しかも人為とは無縁に存在するとされる。しかしながら、ここまで話が拡大すると逆に音楽から外側が消えてしまいそうでもある。あらゆる物事が音楽だというような極論に与することはできない。
かつて「音楽以前である」という有名な評があったように、ある人にとっての音楽が別の人には音楽ではないという事態は往々にしてあり得る。人が神経学的に多様ならば、人の数だけ異なる音楽が存在して然るべきである。その中には一聴して理解できない、あるいは耐え難いものも少なからず存在するだろう。
理解できない物事が存在することは、世界にとっては美点である。いかなる音楽も聴けばわかるというのは「話せばわかる」のような驕慢に他ならず、最終的に理解し得ない他者を敵と見做す思想にも接続し得る。むしろ理解を超越した他者に遭遇するための、身近なポータルとして音楽は機能する。
ル・クレジオは中央アメリカの先住民族について「インディオたちは旋律(メロディー)に興味がない。旋律は彼らを退屈させる。旋律は罠であって、自己愛にもとづく」等と記している【ル・クレジオ2010】。続く「インディオの音楽」についての記述は、シベリア先住民族の音色ベースの音楽(前回参照)によく似た特徴を持つように思える。
ル・クレジオがエンベラ族やワウナナ族と生活を共にしたのは1970年代前半だった。約半世紀前の当時と現在とでは先住民の生活にも相当の変化が生じているだろうし、ル・クレジオの記述がどこまで客観的と言い得るのかも筆者には判断ができない。だがかつて全く異質の音楽文化が存在したことは読み取れる。
山本精一による「音楽がわからない人」(旋律を恐怖する人)の描写【山本1999】や、オリヴァー・サックスによる失音楽症の記述【サックス2014】は、当事者たちの神経学的特性によって、ある種の音楽から疎外された人々の事例と言える。失音楽症(amusia)は、音楽に関する能力が全面的あるいは部分的に失われる高次脳機能障害であり、音高やリズムの弁別または表出が障害される等、症状は多種多様である。とはいえ件の音楽が周波数ベースの音楽であることによって不都合が生じるのであれば、音色ベースの音楽や電子音響音楽はこうした問題をある程度回避し得るかも知れない。
筆者はある時、演奏の大半が無音というライブに聴衆として居合わせた際に「音楽がわからない人」を聴衆に想定して音楽を作るという発想を得た。このライブは多くの時間が無音に等しい状況にもかかわらず(前回で述べたフェルドマンのピアノ曲のように)極めて濃密な演奏が展開されるという不思議な経験であった。
「音楽がわからない」が何を意味するのかも極めて問題含みであるが、筆者自身を含めてある種の音楽からの疎外を経験する人は少なくないであろう。現実の疎外を解消することが目的ではない。解消し得ない疎外を認めた上で「こちら側」の都合に沿った音楽を勝手に立ち上げることは可能か、というような構想である。筆者自身、旋律で飽和した時間とでも形容すべき状況が苦手であるので、そうした状況の反転も目論んでいる。
これらの発想の実現にコンピュータは必須ではないが、偶さかコンピュータも音楽から縁遠い存在である。コンピュータを使って音楽を作るということは、音楽がわからないコンピュータに音楽を教え込む作業とも言い換えられる。加えて筆者自身もまたある種の「音楽がわからない人」であるから、教師も生徒も音楽の外側で音楽の謎と対峙しているという、些か奇妙な状況ではある。
■物との対話
周波数ベースの音楽の場合、音楽とは基本的に音高と時系列の構造物である。この時、音(楽音)は周波数や持続などのパラメータで記述される、物質における原子のようなものと見做される。あたかも音なるものがそれ自体で独立した存在であるかのようだ。現実の音には、音源であるところの振動する物があり、物の振動を鼓膜まで伝達する媒質があり、振動を励起する行為や現象がある。また演奏会の場合には、多くは会場となる建築がある。
電子音楽においても事態は同様である。電子音には媒質を振動させるスピーカー等があり、振動を励起する電気信号や波形データが存在する。スピーカーや電気信号は音源の一部ではあるが、もちろん音そのものではない。音そのもの以外のこれらの要素はいずれも音楽と密接な関係があるにもかかわらず、録音再生技術はこれらの要素を容易に後景化する。
(周波数ベースの)作曲においては、音源としての楽器を指定することがある。楽器は他の楽器への置き換えが可能であり、この場合は音楽構造の主要な構成要素と言うことができない。音楽と楽器とは関係がないなどという主張は異様であるが、周波数ベースの音楽構造において音色は副次的要素に過ぎない。管弦楽をピアノに置き換えたり、別の楽器のための編曲が可能であるのはそのためだ。
録音再生技術においては問題がより顕著になる。つまり録音を聴いただけでは音源が何であるかがわからないという事態が生じる。人間の演奏家によるアコースティック楽器の演奏だと思ったものがシーケンサーによるソフトウェア音源の演奏だった、逆に電子音だと思ったものが何らかの行為や現象の録音だった、いわゆる特殊奏法だが何の楽器で演奏されているのか皆目見当がつかない等の事態が生じ得る。録音再生技術には言わばこうした「音源を隠す」効果が存在するが、そこから「音なるものがそれ自体で存在する」という錯覚までは数歩もないように思われる。
ピエール・シェフェールの言うオブジェ・ソノールやアクースマティックなどの概念は、この効果を肯定的に捉えたものと言える。ただし前回述べた通り、電子音楽以外の音楽の録音では演奏の現場で起こっていることのごく一部しか伝わらない惧れがある。アクースマティックとは音源を見る(認識する)ことなしに音を聴くことを意味する【檜垣2011】。実はこれは動物として特殊な聴取のモードである。聴覚とは本来、音源を認識し周辺環境に潜む危険を察知するための機能だからだ【スピッツァー2023】。
管楽器の独奏中、仮に運指によるキーノイズが頻繁に発生している状況でも、音楽として聴いている間はこれらのノイズを文字通り消音してしまう能力が人間の聴覚には存在する(選択的聴取)。脳は耳に入る全ての音を聴いているのではなく、無意識のうちに「聴きたい音」を取捨選択しており、聴きたくない音は都合よく無視することができる(尚、筆者は軽度聴覚情報処理障害のため、こうした選択的聴取が不得意である)。さらには楽器の演奏を、単に楽器の音としてではなく素晴らしい音楽として聴くということにも認知機能の関わりがある【サックス2014】。
筆者の疑いは、録音による音楽鑑賞や、周波数ベースの音楽に触れ続けることによって我々の思考の枠組みが決定付けられているのではないかということにある。例えば、電子音を除いて音の存在には必ず物質が関わっているはずだが、言うなれば音楽の聴取は物質を意識の外に追いやっているのではないか、といったことである。
人間にとって、声を発することと道具を使うことは互いに独立した能力である。したがって、声の音楽と楽器(物、道具)の音楽とは本来異なる起源を持つ別種の音楽と言える。楽器は、弦楽器や管楽器等の周波数ベースの楽器と、それ以外の、明確な音高を持たないか、音高を制御できない体鳴楽器等に大別できる。前者に属する笛は、旋律の演奏の他、狩猟の際に動物の声を模倣して獲物をおびき寄せる用途もあった。人間や動物の声の模倣に由来するという点で、周波数ベースの楽器を広義の「声の音楽」のためのツールに含めることもできよう。
近年、ネアンデルタール人が6万年前に加工したと見られる、穴の開いたホラアナグマの大腿骨が、実験の結果「世界最古のフルート」であることが確認された【Turk et al. 2020】。無論これが文字通りに世界最古の楽器であるとは限らない。人間が道具を作る能力を獲得する以前、二足歩行への移行によって両手が自由に使えるようになった段階で、自らの身体を含め手近な物は何でも叩いたりすることができただろう。
確認されている最古の石器はおよそ300万年前のものであり、その使用者は現生人類とは属を異にするパラントロプスとされる。パラントロプスが石器を用いてリズムなど何らかの音楽らしきものを演奏したのかは不明であるが、道具の出現をもって器楽の始まりを300万年前と考えることもできる。尚、この頃はまだ言語は存在しなかったとされる。
人間以外の動物にも道具を用いるものがあるが、道具の使用とコミュニケーションは概ね独立した能力と考えられている。例えば隔離されたカラスが他の個体から学ぶことなく道具を使えるようになるという実験結果が存在する【西川2017】。勿論、道具の進化や複雑化にとって言語使用による知識の蓄積・伝達は不可欠の要素である。
素手や道具を使って叩くと金属的な音を発する、ロックゴングと呼ばれる天然の岩が、アフリカとその他の地域で発見されている【Tahir 2012】。タンザニアのセレンゲティ国立公園に存在するロックゴングには多数の打痕が残り、大昔から打ち鳴らされてきたことが想像できる。インドの岩面彫刻の遺跡から発見されたロックゴングも存在する。この場合、彫刻が表すところの宗教的な意味合いか何かが、ロックゴングの響きに付与されていたことが想像される。太古の人間はロックゴングを用いて音楽を演奏したのか、それとも全く別の目的で叩き続けたのかなどの疑問は残る。とはいえ彼らが他の岩には存在しない、ロックゴングの響きの特殊性を認識していたことは間違いがないであろう。
現代の我々にとって、音楽と言えば即ち周波数ベースの音楽を意味する。その起源とは歌であり、音声コミュニケーションであろう。しかしそれが音楽の全てだろうか。ロックゴングのような変わった音のする物を発見し、その音に驚く、あるいは任意のタイミングで音を鳴らすなど音のコントロールの仕方を知る、といった「物との対話」、あれこれいじくり回すこと(ティンカリング)【Resnick & Rosenbaum 2013】はもう一つの音楽の起源だろう。であるならば、器楽の起源は声楽の起源よりも100万年ほど遡るかも知れない。もちろんそれほど古い「音楽」は我々が想像可能なものとは似ても似つかないのだろうが。
音色ベースの音楽文化の中にもティンカリングの痕跡を見出すことができる。ユリ・シェイキン(1996)は特定の音楽様式を前提としない、原始的な音楽行為のための楽器ないし音具を指すものとして「フォノ楽器」(фоноинструменты)の概念を導入した【Nikolsky et al. 2020】。例えば日本ではぶんぶんゴマと呼ばれる玩具や、ブルロアラーとして知られるものがフォノ楽器に含まれる【Soldatova 2019】。
フォノ楽器は植物片や日用品、動物の骨や爪などを使って作られる。季節性の楽器の中には一回の使用で壊れるほど脆いものもある【Фомин 2018】。フォノ楽器は先史時代から存在するため、同じものが世界各地に存在する。それらは自然の音を模倣したり、しばしば呪術や宗教儀礼のための道具といった説明を伴う。しかしながら、ぶんぶんゴマのようなものが、最初からその用途のために開発されたとは考え難い。恐らくはあれこれと素材を組み合わせる中で偶然に発見された機構が、玩具や呪具に利用されたと考える方がより自然である。
ところで、フォノ楽器に似たものとして、日本では鈴と呼ばれるクロタルベルも世界中に存在する。マラカス等と同じく乾燥した植物の実の中で種子が音を立てることから恐らくは発想され、後に土から作られた土鈴が鈴の起源と考えられる。ゆえに楽器学において鈴はベル(鐘)ではなくラットル(ガラガラ)の一種に分類される。
動物の所在を把握するために取り付ける他、神楽鈴のように宗教儀礼に用いたり、インド舞踊では足首に巻いて踊るなど、鈴の用途は様々である。私見では、恐らく鈴の本来の用途は動物に取り付けることだったのだが、その後に用途を拡げたということは使用者は鈴の用途よりも音の方に用があったのだろうと考える。
ぶんぶんゴマは、紐を使って木片などを高速に回転させることで風切り音を発生させる。先住民族はこれを「風を呼ぶ」ために用いたとされる。コマの回転の速さに応じて風切り音の高さが変わるのだが、楽器と呼ぶには極めて音量が小さい。恐らく鳴らしている本人にしか聴こえないにもかかわらず、先史時代から現代に至るまで存在し続けているのは、音の面白さよりは機構の面白さが関わっていると考える。
現代の楽器は、大勢の聴衆に音を届けるために十分な音量が出せるように改良されてきたと言われる。現代の楽器と比較すると伝統的な楽器は総じて音量が小さく、フォノ楽器はさらに限られた音量しか出せない。大勢の聴衆に音を届けるという動機も極めて現代的であるが、楽器と呼ぶことも躊躇しそうなフォノ楽器をあえて楽器と定義し直したことは、コミュニケーションに傾倒する現代の音楽観に対しての疑義の申し立てと解釈することもできよう。
ところで、プログラミングによる音楽実践はこうした「物との対話」の延長に存在するように思える。特に筆者が常用している音響処理言語SuperCollider【SC】による音楽制作には、DAWによるものとは異なり、何をどうすれば音楽になり得るのかという明確な方法論が存在せず、ほぼ毎回「無」から音楽を構築しなければならない。
この場合、予め綿密な構想を立てて、これを実現しようとすると大抵挫折するか、労多くして功少なしとなるので、とりあえず思いついたコードを片っ端から書いて実行しながら、偶々上手く行ったものを継ぎ足していく、といった作り方に往々にしてなる。ティンカリングそのものである。最初から思い通りの音が出るということはまずないのであるが、思いもしなかった収穫が得られることもある。
(2024/3/15)
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В.П. Фомин, “Детские фоноинструменты южных алтайцев”, 2018 https://cyberleninka.ru/article/n/detskie-fonoinstrumenty-yuzhnyh-altaytsev【Фомин 2018】
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SuperCollider https://supercollider.github.io【SC】
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Yahia Fadl Tahir, “Rock Gongs from the Nile Third Cataract Region: In Archaeological and Traditional Contexts”, 2012 https://www.africanistarchaeology.net/s/Nyame-Akuma-Issue-077-Tahir.pdf【Tahir 2012】
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池田拓実『LotusRoot』2016- https://github.com/piperauritum/LotusRoot【池田2016】
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ベンジャミン・リベット『マインド・タイム 脳と意識の時間』下條信輔 訳、安納令奈 訳、岩波書店、2021【リベット2021】
ル・クレジオ『悪魔祓い』高山鉄男 訳、岩波書店、2010【ル・クレジオ2010】
“Animal Music / Tiermusik: Team of Jeremy Roht: West Dawson, Yukon-Territory”, 2001 https://www.discogs.com/ja/release/893363-No-Artist-Team-of-Jeremy-Roht-West-Dawson-Yukon-Territory https://suppose.bandcamp.com/album/animal-music-team-of-jeremy-roht-west-dawson-yukon-territory[AUDIO_1]
Dave Soldier & Richard Lair, “Thai Elephant Orchestra”, 2000 https://www.discogs.com/ja/master/2228950-Thai-Elephant-Orchestra-with-Dave-Soldier-Richard-Lair-Thai-Elephant-Orchestra https://davesoldier.bandcamp.com/album/thai-elephant-orchestra[AUDIO_2]
Takuya, “Sounds Of Rice Fields”, 2011 https://www.discogs.com/release/6340430-Takuya-Sounds-Of-Rice-Fields[AUDIO_3]
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池田拓実 Takumi Ikeda (1975-)
コンピュータ音楽家。作曲家。主な作曲作品は東京現音計画、実験音楽とシアターのためのアンサンブル、ヴォクスマーナ等の演奏団体、演奏家によって委嘱初演されている。トロンボーンと9軸センサー、バリトンとコンピュータ、ピアノとサウンドトラック、木管二重奏と携帯端末などのエレクトロニクスを伴う作曲作品の他、合唱のための音楽、即興音楽家のための記譜作品等を作曲。Tambuco Percussion Ensembleによる日本人作曲家レジデンシー・プロジェクト(2013)に参加。「映画としての音楽」他、七里圭監督作品の映画音楽の作曲および生演奏付き上映。木下正道・多井智紀と共に「電力音楽」として活動。Ftarriおよび自身のBandcampから複数の作品集、ライブ録音をリリース。作曲補助プログラム「LotusRoot」の開発と公開。第4回AACサウンドパフォーマンス道場優秀賞(2009)。近作にセンサーを装着したダンサーによる屋外パフォーマンス「Unboxing」(阿竹花子、Iannis Zannosとの共作。NIME2023選出)。
公演情報、作品表、ディスコグラフィ、動画リンクなど
https://de-dicto.net/wp/
作曲作品の解説文
https://github.com/piperauritum/ProgramNotes
Unboxing (2023)
https://www.youtube.com/watch?v=1c7LcC510MU