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Hiroshima Happy New Ear 32「光と影の物語──タンゴとバッハ」|柿木伸之

Hiroshima Happy New Ear 32「光と影の物語──タンゴとバッハ」
Hiroshima Happy New Ear Concert 32 “History of Light and Shadow — Tango and Bach”

2024年1月10日 JMSアステールプラザオーケストラ等練習場
January 10, 2024 / Rehearsal Space for Orchestra at JMS Aster Plaza
Reviewed by 柿木伸之(Nobuyuki Kakigi)
Photos by shinmei/写真提供:ひろしまオペラ・音楽推進委員会

〈演奏〉        →foreign language
ヴィオラ:赤坂智子
アコーディオン:大田智美
〈曲目〉
ヨハン・ゼバスティアン・バッハ:コラール「人よ、汝の罪の深さを嘆け」(細川俊夫編曲)
同:コラール「主イエス・キリスト、われ汝を呼ぶ」BWV 639
同:コラール「おお神よ、汝義なる神よ」BWV 767
同:コラール「目覚めよ、と我に呼ぶ声あり」BWV 645
同:コラール「いざ来ませ、異邦人の救い主」BWV 659
細川俊夫:ヴィオラとアコーディオンのための「時の深みへ」(1994/96)
アストル・ピアソラ「ル・グラン・タンゴ」
同「オブリヴィオン」
同「チェ・タンゴ・チェ」

 

起筆として置かれた一つの音の内奥から、響きが層をなしつつ広がっていく。ただしその過程は、たんなる分化ではない。分かれ出た要素のひとつ一つは、時に形を変えながら別の要素に浸透し、そのことが新たな音響を生成させる。こうした運動の過程が静寂を地としてひと筋の線を浮かび上がらせるのが、細川俊夫の「書(カリグラフィー)」としての音楽である。細川が音楽監督を務めるHiroshima Happy New Earシリーズの第32回の演奏会における彼の「時の深みへ」の演奏は、そのような音楽の特徴を自然な息遣いで鳴り響かせていた。
この作品のヴィオラとアコーディオンのための版において、赤坂智子と大田智美の二重奏は、通常の意味での「デュオ」ではなかった。それは一つの呼吸と化していた。深い呼吸の運動が繰り返されるなか、二つの楽器の音は、新たな一つの響きを重層的に出現させて空間を震わせる。細川は、1990年代半ばにこの作品を、大きな笙を念頭に作曲したという。たしかに今回の演奏は、笙を思わせる新たな楽器を出現させていた。その楽器とは同時に、体温を感じさせる有機体でもあるように思われた。

©shinmei

赤坂のヴィオラと大田のアコーディオンは、それ自体としてはまったく性質の異なる楽器から発せられる音を一つに溶け合わせ、虹のようなグラデーションを示す音響の層を形成する。それは一方では、ヴィオラの音が人の声に近く、楽器の呼吸とも言える仕方で空気とともに響くことが、アコーディオンが風を運ぶのと親和性が高いことに起因していよう。他方で、一つの息と化すまでの緊密なアンサンブルがこれを可能にしていることも忘れられてはならない。それによって細川の「時の深みへ」を一つの持続として聴くことができた。
とはいえ、今回の「時の深みへ」の演奏においては、しなやかな運動も特徴的だった。この曲では、ヴィオラのピツィカートなどが書における点のように鳴るのをきっかけに、響きの層から飛び立つような、あるいは層の上を跳ねるような運動が生じ、一つの流れを形づくっていくが、その移行がごく自然で、そこからは人の心の動き、とりわけ憧れが感じられた。その一方で、アコーディオンの音がヴィオラの特殊奏法と結びつきながら、嵐のように苦悩が湧き上がる動きを出現させていたのも感銘深い。

©shinmei

細川の「時の深みへ」の随所でヴィオラとアコーディオンという二つの楽器の音は、一つに溶け合いながら垂直的に響きの層を形成する。それは深い闇から揺れ動くように立ち現われながら光を明滅させる。そこにほのかに浮かび上がるのは、みずからの弱さを、さらには罪を噛みしめる人の姿である。今回の演奏会において興味深かったのは、そのような人の切なる祈りが、バッハの「いざ来ませ、異邦人の救い主」をはじめとするコラールだけでなく、アストル・ピアソラの「オブリヴィオン(忘却)」にも聴かれたことである。
ピアソラの「オブリヴィオン」が、約三百年の時を越えてバッハのコラールと呼応するのには新鮮な驚きを覚えた。それと同時にアコーディオンとヴィオラで奏でられたこれらの曲が、変わることのない人の悔恨をその奥底から響かせながら、苦悩の淵からの救いへの願いを歌っていることをふり返らされた。後ろ髪を引かれつつ、涙を振り払うような「オブリヴィオン」の歌もさることながら、「いざ来ませ、異邦人の救い主よ」の冒頭で開かれた深い闇はとくに印象深い。その奥から救いへの願いが、小さな灯を点すように歌い出されていた。

©shinmei

とはいえ演奏会の前半で演奏されたバッハのコラールから感じられたのは、温かく空間を満たすオルガンの響きに乗って歌う人々の声である。これも少し不思議なことではあるが、器楽の二重奏によって、コラールが聖堂における人々の集いのなかで飾り気なく歌われていることが想起させられた。町や村の素朴さを残す教会に集い、神を讃美する人々の息遣い。それは時に歌う喜びに満たされ、踊るような肉体の運動を誘発する。そのことがバッハのコラールの演奏に聴かれたのも新鮮だった。
「目覚めよ、と我に呼ぶ声あり」の冒頭からコラールのオブリガートのように続く旋律を、赤坂は、聴き慣れたこの曲の印象からするとかなり速いテンポで、弾むように、舞曲のメロディとして奏でた。手をつなぎ、体を揺らす会衆の姿が目に浮かぶ。その動きのなかから、大田のアコーディオンによってコラールの旋律が力強く湧き上がるところには、人が集い、声を合わせる営みが目指すものが暗示されているように思われた。祈りを分かち合える喜び。これもバッハが鳴り響かせようとしていたものの一つにちがいない。

赤坂と大田のデュオが示そうとしたのは、「目覚めよ、と我に呼ぶ声あり」が聖堂に響かせた喜びと、ダンスホールのような世俗的な空間にみなぎる喜びがけっして別のものではないことかもしれない。バッハのコラールの喜びは、ピアソラの「チェ・タンゴ・チェ」の歌にも流れ込んでいることも、今回の演奏から感じ取ることができた。同じピアソラの「ル・グラン・タンゴ」の闊達な表現は、一つのユートピアとして、タンゴが人々のあいだに息づく世界を、その広がりとともに表わしていたように思われる。
対照的に、バッハのコラール「人よ、汝の罪の深さを嘆け」の細川俊夫による編曲の演奏は、彼の「時の深みへ」に通じる緊密に組み合わせられた響きによって、人間の根源的な弱さから祈りを紡いでいく。その過程を、人々の苦難が続く今たどることの意味も顧みないではいられなかった。Hiroshima Happy New Earの演奏会では細川の「時の深みへ」以外、赤坂と大田のアルバム『キアロスクーロ』(日本アコースティックレコーズ)から曲が選ばれていたが、次回は細川の師だった尹伊桑の作品も二人のデュオで聴いてみたい。

(2024/02/15)

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[Performers]
Viola: Tomoko Akasaka
Accordion: Tomomi Ota
[Program]
Johann Sebastian Bach: Choral “O Mensch, bewein Dein Sünde groß” (arranged by Toshio Hosokawa)
J.S. Bach: Choral “Ich ruf zu Dir, Herr Jesu Christ” BWV 639
J.S. Bach: Choral “O Gott, Du frommer Gott”
J.S. Bach: Choral “Wachet auf, ruft uns die Stimme” BWV 645
J.S. Bach: Choral “Nun komm der Heiden Heiland” BWV 659
Toshio Hosokawa: “In die Tiefe der Zeit / Into the Depth of Time” for Viola and Accordion (1994/96)
Astor Piazzolla: “Le Grand Tango”
A. Piazzolla: “Oblivion”
A. Piazzolla: “Che Tango Che”