Pick Up (2024/1/15)|リコーダーアンサンブル百花繚乱 vol.5 ウイリアム・バード没後400年|多田圭介
リコーダーアンサンブル百花繚乱 vol.5 ウイリアム・バード没後400年
~安らぎの3声のミサ、愉悦のマスター・ピース(傑作)たち~
Recorder Ensemble Hyakka Ryouran Vol.5 – 400 Years After the Death of William Byrd:
Serene Three-Voice Mass and Joyful Masterpieces
2023年12月2日 札幌豊平教会
2023/12/02 Sapporo Toyohira Church
Text by 多田圭介(Keisuke Tada): Guest
写真提供:細岡ゆき
<演奏>
高橋明日香 / 邉保陽一 / 細岡ゆき(Rec.)
<曲目>
W.バード:キリエとグローリア ~3声のミサ曲より~
二つのファンタジア
G.P.テレマン(W.ミシェル編):トリオソナタ第4番ヘ長調
W.バード:クレド ~3声のミサ曲より~
<休憩>
H.U.シュテープス:サラトガ組曲 ~ソプラノ、アルト、テナーリコーダーの為の~
W.バード:サンクトゥスとベネディクトゥス ~3声のミサ曲より~
作者不詳:3声の器楽作品集
無題 ~ かく眠り続けん(H.イザーク) ~ 無題2 ~ 誰も歌わないなら、我が歌おう~懺悔~無題3
W.バード:アニュス・デイ ~3声のミサ曲より~
ギリシャ語で「呼吸」のことを「プシュケー」という。「呼吸」は身体器官の動作を連想させる。だがこのプシュケーという言葉は同時に身体を超えた(区別された)「精神(≒心)」をも意味する。古代のヨーロッパでは「精神」と「身体」を統合的に捉える世界観があったからだ。中世~ルネサンスまでは概してそうだったが、近世以降に両者は乖離していった。よって音楽でも近世以前の楽器には、精神と身体(身体動作)の統合性が強く感じられる楽器が多い。そのなかでも最もその特徴を持っているのは、おそらくはリコーダーなのではないだろうか。このことは、近世以降にヨーロッパの芸術音楽の表舞台からリコーダーが(表面的には)退いたことと無関係ではない。この事実は、たんにヨーロッパの音楽史の変遷というだけではなく、ヨーロッパで音楽が担った社会的役割の歴史に思いを馳せさせる。
12/2に札幌の豊平教会で開催された「リコーダー・アンサンブル 百花繚乱 vol.5」はこうした広大な歴史的視野を開くほどのインパクトを筆者に与えた。しかも、たんに歴史を「見に行く」のではなく、むしろ自分のほうが「歴史に見られる」ような体験だった。そのことによって、リコーダーというごく親密な楽器のアンサンブルが、個人の生活実感を超えた大きなものへの想像力をかきたてる。そんな力が満ちていた。
そうした想像力はプログラムの構成からもはっきりと窺える。核に据えられたのはW.バード(1543?-1623)の「3声のミサ」。しかも、全曲は「キリエとグローリア」、「クレド」、「サンクトゥスとベネディクトゥス」、「アニュス・デイ」の4つの部分に分けられ、その間に音楽史上の様々な作品が挟まれた。この間に挟まれた作品のチョイスこそがいま述べた想像力の源泉だ。「キリエとグローリア」と「クレド」の間には18世紀のテレマンのトリオソナタ、そして後半の最初の曲(サンクトゥスとベネディクトゥスの前)には、20世紀のH.U.シュテープス(1909-1988)が置かれ、最後のアニュス・デイの前にはルネサンスの作者不詳の曲が並んだのだ。
注目してほしい。18世紀後半のテレマンから20世紀の大戦後のシュテープスに飛んでいる。テレマンのトリオソナタは当時の音楽家にとって「日々のパンのようなもの」(ロジャー・ノース)だった。だが、当日のプログラムですっぽり抜けているその18世紀末から20世紀前半に、ヨーロッパの芸術音楽はどうなったか。
18世紀の末にフランス革命と前後して音楽の主導権が王侯から市民に移った。市民に開かれた公開の演奏会が始まり、そこでは交響曲を主体とするオーケストラの演奏会が中心となっていった。交響曲は「公」の音楽として公共性を表現する役割を担うようになった(ちなみに当時創刊された音楽の批評雑誌は主に交響曲のみを論じていた。なぜなら公の音楽である交響曲こそが公に論じられる価値があると考えられていたからだ)。この「公」は多くの場合「国家」と看做された。だからちょうど同じ時期に大量の「国歌」が生まれた。こうして列強の帝国拡大とともに交響曲が世界に広まったのが、ハイドン以降の音楽史のメインストリームだった。あまりにも慎ましやかなリコーダーという楽器が音楽史の表舞台から退いてゆくのとちょうど時を同じくしている。
国民国家なんて、個人の身体感覚(≒生活実感)ではおよそ想像が及ばないような巨大システムである。それが社会の単位となって個人のアイデンティティとなっていったのが19世紀だ。それが公共性という「精神」を表現する。帝国主義は「拡大することの自己目的化」(H.アーレント)で、さらにそこに右肩上がりの成長を要請する資本主義が重なった。こうして人間の「精神」は「身体性」の軛(くびき)を外れた。音楽も、より大きく、より強く、資本主義の成長と歩みを合わせるように、身体性を置き去りにして巨大化していった。オーケストラは金管打楽器が大量投入されるようになり、ピアノには金属のフレームが入り、コンサートホールも2,000人規模にまで膨れ上がった。そうして音楽もナショナリズムを競い合うように巨大化していった。その末に起きたのが人間が危うく滅びかけた2度の世界大戦であった。
世界大戦を挟んでヨーロッパの音楽はどう変化したか。ストレートな感情表現を恥じらうような、そう、「あえて」感動を拒否するような、アイロニカルな擬古典主義(新古典主義)が登場した。当日のプログラムのシュテープスがここで合流する。筆者は、シュテープスという作曲家の作品を初めて聴いた(リコーダー奏者にとってはメジャーな作曲家なのだそうだ)。その息吹には、擬古典的なアイロニーがはっきりと感じられた。精神(理性)を信じて成長し続けた先に起きた世界大戦がきっかけとなって、精神に対する「懐疑」が音楽を変質させた。そのアイロニカルな息吹がはっきりと刻印されていたのだ。右肩上がりに巨大化する帝国主義と資本主義の音楽からリコーダーが退き、その反動として生まれた大戦後の擬古典的な音楽で、手触りのあるリコーダーが戻ってくる。このプログラムには、この歴史性がある。その事実が筆者にとっては「歴史に見られる」ような体験となったのだ。
プログラムの前半にCantus(上声部)を担当した邊保は、饒舌に、親密に、言葉を語りかけるような音楽性を持つ。それに対して、後半から(シュテープスから)Cantusを担当した高橋は、邊保と対照的でクール。アイロニカルな擬古典にぴったりなのだ。邊保と高橋の2人の音楽性の違いがプログラム構成と上手く符合してこうした世界観の奥行きをもたらした。これは偶然だろうか。
前置きが長くなったが、「歴史に見られる」ということについてもう少しだけ。私たちは歴史に思いを馳せようとするとき、たいがい「歴史を見に行く」。グラウンド・ゼロを、原爆ドームを、天安門広場を。だがそうして確認できることは、たかだか教科書的な事実だけだ。その体験はWikipediaをひくのと変わらない。大事なのは「歴史に見られること」だ。人間の想像力を超えたような巨大な破壊は現実にあった(今も起きている)。そうした現実と、私たちが朝起きてコーヒーを飲んだり、まんだらけでフィギュアを買ったり、近所でコンサートに行ったりする身体感覚のある「日常」は地続きなのだ。この感覚に襲われたとき、「あ、自分は歴史に見られている」と気づく。そのとき、自分の身体感覚を超えた遠くのものに正しく想像力が働く。近代が喪失したのは、この身体性と精神(≒想像力)の豊かな「つながり」なのであって、この公演ではリコーダーがその身体と精神のつながりを取り戻す紐帯となっていた。12/2に筆者が豊平教会で触れた音楽はそういう意味で「歴史に見られる」体験だったのだ。
身体性と切り離された精神の感覚を増やしてゆくものは、どこかで自我の異常拡大を誘発する。それは目で見て、手で触れられるものへのマナーを喪失させる。モニターを見てボタンを押すだけならいくらでもミサイルが撃ちこめてしまうように。身体性のリアリティーがないとそうなる。この暴力性は、2020年代の現在、顔と名前を晒さないSNSで再度、加速度的に拡大しているのではあるが。
さて、演奏についても触れなければ。まず、リコーダーの親密な響きが豊かに息づく豊平教会が会場となったことが成功の要因となった。木の楽器と木の建物が互いに浸透し合いながら響く。そのようにして空間が幾重にも拡がりを見せる。近代的なコンサートホールでは実現しなかったことだろう。そして、W.バードの3声のミサは、ルネサンスの厳格で均斉的な模倣の様式よりも、もっと和声的でホモフォニックに書かれている。温かく豊かな全体の響きが優先されている。豊平教会はこうした息づかいを感じるには最適だった。
名手3人によるアンサンブルももちろん素晴らしい。キリエの最初は、単純な3和音で各声部がほんの2度だけ動いて始まる。最小限の音の動きの中からごく静かな祈りの感情が聴こえてくる。ここを聴いただけで「ああ、来てよかった」と胸が熱くなった。和音の透明度もさすがのプロフェッショナル。続くグローリアは動的。3声が同じリズムで重なる箇所に注目させられる。まず、”Laudamus te”(私たちはあなたを讃えます)は、謙虚な祈り。そして”Gratias agimus tibi”(私たちはあなたに感謝を捧げます)で一気に熱烈な感情の吐露となる。リコーダーの編曲だが、言葉が聴こえてくるようだ。
テレマンを挟んで続くクレドはおそらくは本プログラムの核心。前半の最後の曲。音楽がいったん終止した後、”Qui propter nos homines ”(その人【主】は私たち人間のために)からアンサンブルの呼吸が一段深くなる。偉大なものに抱かれるような感情が広がる。そして、”secundum Scripturas”(聖なる書物にあるように)で、意を決するように歩みを進め、”et ascendit in caelum”(天へ昇った)で、羽ばたくように上昇した。まるで、この演奏会のプログラムが開いた長大な視野のすべてを温かく包み込むようだった。
クレドの後半では下2声がカノンになる箇所があった。ここの厳粛さもリコーダーの低音の豊かさならでは。そして”Qui cum Patre et filio”(それ【聖霊】は父と子とともに)では、三位一体の秘儀が示されるように3小節に渡って3声が同じリズムを奏でる。この3つの世界が重なる箇所まで聴いて、前述の遠いところへの想像力に思い至った。三位一体の世界は複層的なのだ。複層的な世界とは何か。これこそが「歴史に見られる」体験が開き得る視野だ。最後にそれについて。
話していて退屈な人というのはたいがい自分の人生にしか興味がない。「音楽が好き」なのではなく「音楽を介したコミュニケーション」に興味がある。そこで自分がどう承認されるかばかり気にしている。作品の具体的な「内容」ではなく、作品が社会的にどう評価されるか、あるいは、自分の好みが社会的にどう承認されるかばかり気にする。これらはいわば「人の世界(=世間)」だ。人の世界に埋没している人はスーパーで半額のシールを貼られたサバのような目をしている。だが世界には「物事の世界」もある。音楽だったり、食べ物だったり、自然でもいい。それに触れることで、傷ついたり、幸せになったり、思考が揺り動かされる。世界には、人間とのコミュニケーションではないこうした「物事の世界」がある。この物事の世界に没頭している人の目は輝いている。
世界にはもう一層ある。100年前と比べると現代は格段に安全で豊かな社会が実現している。100年前は生まれてすぐに何割かは死亡してしまうような世の中だった。人類が、目に見える「人の世界」と「物事の世界」よりも、もっと大きなものを想像してきたからより安全な社会が実現した。国際的な安全保障だったり、パイプラインだったり、個人の生活感覚を超えた合理性や歴史と対峙することで視野に入る世界。この世界は「神の世界」といってもいい。人の世界、物事の世界、神の世界。3つが揃って「世界」なのだ。
リコーダーのアンサンブルという、ごく親密で身体感覚のリアルな音楽に触れて、しかも音楽が三位一体の秘儀を示す箇所で、この世界の複雑さとそこへ開かれた人生の美しさを思わずにはいられなかった。「歴史に見られる」とはこうした世界の複雑さに開かれる体験だ。それは、こうした豊かな歴史的蓄積を持つジャンルだからこそ起きた経験だ。
筆者は、このアンサンブルの主催者の細岡ゆきと出会うまでリコーダーのアンサンブルに積極的には触れていなかった。今でも楽器の奏法もレパートリーもほとんど知らない。だが、細岡が企画・主宰する演奏会に足を運ぶと、必ず世界観が押し広げられるようなこうした体験が起きる。いつも新しい世界を見せてくれる。
「リコーダー・アンサンブル 百花繚乱」は2019年に結成され、毎年のように東京と札幌で公演を行っている。これからもどんな世界を見せてくれるか、楽しみでならない。いま札幌で定期的に公演を催している音楽団体で筆者がもっとも注目しており、そして最大限の敬意を払っているアンサンブルの一つ、それが「リコーダー・アンサンブル 百花繚乱」だ。
(2024/1/15)
<Performer>
Recorder: Asuka TAKAHASHI
Recorder: Youichi HENBO
Recorder: Yuki HOSOOKA
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多田圭介(Keisuke Tada)
北海道大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。研究分野は、ドイツ語圏の西洋近現代哲学、近代日本哲学。また、クラシック音楽と舞台芸術の批評、アニメや特撮など表象文化論の研究にも取り組んでいる。クラシック音楽の分野では市民向けの公開講座にも力を入れており、これまでに道新文化センター、朝日カルチャー、NHKカルチャーにて講座を担当している。現在は、藤女子大学講師、同大学キリスト教文化研究所客員所員、ミュージック・ペンクラブ・ジャパン会員、さっぽろ劇場ジャーナル編集長。