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日本フィルハーモニー交響楽団 第756回東京定期演奏会|齋藤俊夫

日本フィルハーモニー交響楽団 第756回東京定期演奏会
Japan Philharmonic Orchestra 756th Subscription Concert

2023年12月9日 サントリーホール大ホール
2023/12/9 Suntory Hall Main Hall
Reviewed by 齋藤俊夫(Toshio Saito)
Photos by Ⓒ山口敦/写真提供:日本フィルハーモニー交響楽団

<演奏>        →foreign language
日本フィルハーモニー交響楽団
指揮:カーチュン・ウォン[首席指揮者]
マリンバ:池上英樹
コンサートマスター:田野倉雅秋[日本フィル・ソロ・コンサートマスター]
ソロ・チェロ:門脇大樹[日本フィル・ソロ・チェロ]

<演目>
外山雄三:交響詩『まつら』
伊福部昭:オーケストラとマリンバのための『ラウダ・コンチェルタータ』
(ソリスト・アンコール)『星に願いを』
ショスタコーヴィチ:交響曲第5番ニ短調op.47

 

先月取り上げたOKI DUB AINU BANDのOKIがネットラジオ(Radio Utari 2023年12月25日20時から21時半まで)で興味深い話をしていた。OKIがアイヌ民族としての自己のルーツを求めて北海道に行くもそこではルーツを掴めることはなく、失意のままにアメリカに渡り、そこでレゲエとダブに会うことで自らのアイヌのルーツを音楽として掴むことができた、という話である。自己のルーツは己のみによるものではなく、他者を鏡として初めて自分の姿が見え、そこから自己表現に至ることができるのだ、とまとめることができるだろう。今回のカーチュン・ウォンと外山雄三、伊福部昭、ショスタコーヴィチらの出会いは西洋オーケストラを鏡として自己のルーツを把握・表現することに至った音楽家たちの集結であると言える。

佐賀県唐津市の委嘱による、外山雄三『交響詩《まつら》』(まつらとは唐津の古称で、漢字では松浦と書く)は唐津くんちの祭り囃子を題材にとった叙景的作品。コントラバスのピチカートから弦楽器、木管、ホルンでのどやかな朝日が唐津に射し込む。長二度を重ねた日本的和声と民謡音階で奏でられる旋律が何気ない日常の中にふと見える美しい情景を喚起する。そこから日本的旋律群が対位法的に組み合わされ、街が賑わう。やがて夜の帷が落ちてきたと思うと、唐津くんちの囃子が近づいてくる。オーケストラが膨れ、弾け、実に目出度い奏楽が頂点に達し……全休の後、日本の能管のようなピッコロに金管が上行パパパパパー!太鼓ドン!と終曲。実に真っ直ぐな日本現代音楽であった。

続いて伊福部昭『ラウダ・コンチェルタータ』、最後には思い切りブラボーと叫びたくなる演奏であったが……何故なのだろう、部分部分を聴いている最中と改めて全体を通して味わったときのこのモヤモヤは? それはおそらく、伊福部昭の音楽なのに再現が真っ直ぐでなく、変化球だったのだ。
まず指摘したいのが、スコアでは弱音で指定されているバスドラムが其処此処で相当な強音で打ち鳴らされていたこと、さらにティンパニーのパートをバスドラムに替えていた箇所があったことである。強音・低音の方が〈盛り上がる〉のは確かかもしれないが、それによって伊福部音楽の厳かな宗教性が汚されてしまうのも確かであろう。
宗教性! まさにこれを巡って池上英樹のマリンバとカーチュン・ウォンの采配によるオーケストラがすれ違いを起こし音楽が曲がってしまったのではないか?
池上の大らかに波打つ大洋のようなマリンバには感じ入った。物凄く複雑なアクセントだらけのソロパートの一打一打の強弱法、ニュアンスが全て決まっている。そこから敬虔な祈りの歌が聴こえてくる。而して曲の末尾では猛々しく、祈りと蛮性が一体となって響き渡る。
それに対して、カーチュン・ウォンの采配は機能的過ぎたのだ。音楽にリズムもダイナミズムもあるが、そこに野生の論理・思考が欠けており、「いかに鳴らすか」の効果の段階に踏みとどまってしまい、「何故何のために奏でるか」の精神の域にオーケストラが達していなかった、筆者はそう見る。その典型例が先に述べた〈効果的〉ではあるが〈筆者の考える伊福部音楽とは違う〉バスドラムの解釈・使用法である。
実に惜しい邂逅であったが、まだまだカーチュンと伊福部には先がある、そう信じている。

ショスタコーヴィチ交響曲5番、第1楽章、イントロがまず速く、されど重く、込められた感情の深さと不穏さにおののかされる。聴かせたいパートを強調して他のパートを背景に引かせる、単声部的多声部解釈とも言うべき合奏法から聴こえるのは(悲しいことだが)現在にも続くロシアの民の悲劇。ピアノのソロから禍々しさ全開、全体主義のアナロジー的フォルテシモが轟く。スネアドラムの怖さといったらない。頂点のトゥッティは悲しみか怒りか恐怖か。束の間穏やかな長調の〈戦後〉が訪れるが、やがて短調に返ってヴァイオリンの哀歌で了。
第2楽章はガサガサとささくれだった低弦の音が耳をざわつかせる。デュナーミクの突発的変化と引っ切り無しのテンポルバートを繰り返しつつ全パートが(全体主義的に?)スケールが大きく粒が揃っている。道化的な、ヤケクソかもしれない打撃で了。
第3楽章、じっくりと、いや、ねっとりと、いや、粘っこくこの世の悲しみを一身に背負うがごときカーチュンの指揮。楽想が変化・転換しても感情の線が途切れることが一切ない。トゥッティは神を問い詰めるがごとく。何故、どこまで我々はこのような悲劇に会わねばならぬのか、と。弱奏からのハープ&チェレスタそして弦楽の終曲部でも哀しみは決して慰められることなく、しかし歴史は続く。
第4楽章、あまりにも有名なイントロはややゆっくりと、しかし巨大な音量で。そこから突如として高速になる! 旋律を担当するのではないホルンなどの楽器を強く出すと、そこに強烈な不協和音などの合奏を異化する輝ける凶兆が現れる。作品を過剰な表現性でリアライズすることによって作品それ自体が持つキャラクターを暴走させるカーチュンの妙技に完全にしてやられた。個人技を引き出し、かつその個人技が全体の中で占める音楽的位置もまた完璧かつ狂気を帯びている。最後のファンファーレは果たして勝利なのか? 甲高い弦楽と吠える金管群と叩きつけられるバスドラムの音響は曰く言い難い感触を筆者の耳と心に残した。

本誌でも度々取り上げてメンバー皆が毎回驚嘆させられていたカーチュン・ウォン、今回も彼のアグレッシブな挑戦に改めて感嘆させられた。これからも、これからもっとカーチュン・ウォンと日フィルは日本音楽界を面白くしてくれるに違いない。この幸福な出会いよ永遠なれ。

関連評:日本フィルハーモニー交響楽団 第756回 東京定期演奏会​|藤原聡

(2024/01/15)

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<players>
Japan Philharmonic Orchestra
Conductor: Kahchun WONG, Chief Conductor
Marimba: IKEGAMI Hideki
Concertmaster: TANOKURA Masaaki, JPO Concertmaster
Solo Violoncello: KADOWAKI Hiroki, JPO Violoncello

<pieces>
TOYAMA Yuzo: Symphonic Poem “Matsura”
IFUKUBE Akira: LAUDA CONCERTATA per Orchestra e Marimba
(soloist encore) When You Wish upon a Star
Dmitri SHOSTAKOVICH: Symphony No.5 in D-minor, Op.47