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カデンツァ|新しい風…務川慧悟、ファン&カントロフ|丘山万里子 

新しい風…務川慧悟、ファン&カントロフ

Text by 丘山万里子(Mariko Okayama)
Photos by 池上夢貢/写真提供:NEXUS(務川)
Photos by 大窪道治/写真提供:トッパンホール(ファン&カントロフ)

謹賀新年。
本誌も本号でなんと100号を迎えた。
びっくりだ。
改めて読者、関係者、執筆者諸氏にお御礼申し上げます。

世界中を恐怖に陥れたパンデミックも感染症5類移行で日常が戻り、ホールも賑わい、マスクも減った昨今、接するステージに「新しい風」をつくづく実感する。
コロナ以降(以前からも多少)、それはたびたび指摘してきたことで、直近では『憧れるのをやめましょう』(2023/7/15)でも述べている。大谷翔平のこの一言は日本中の人々の背を、どんな哲学者や思想家の言葉より強く押したと思う。
そうだ、その通り!もう、そういう時代なんだ!と。

戦後日本の音楽教育が目覚ましい成果(国際コンクール優勝その他)をあげ、世界の檜舞台に日本の若い音楽家たちが進出、その音楽家たちが一時代を築き、我が成功譚を弟子に刷り込み、コンクール覇者輩出の90年代以降。だが、その種の音楽消費期ももう終わった。幕を下ろしたのは、やはりパンデミックだと思う。
今の20~30代の音楽家たちは、さあ、これからと言う時に音楽する場を機を失った。その飢えが、彼らに「音楽することの意味」を考えさせ、教えたのだろう。幼少から専門教育で鍛えられた彼らに、そもそも「音楽が好き」などという自然な「愛情や喜び」があったかどうか。音楽に何を聴くか、求めるかは人それぞれだが、「好き」が感じられない演奏に私は心を動かされない。
だから、また舞台に立てた、お客さんが居てくれる、仲間と音楽できる、その喜びを純粋に爆発させている彼らに、「やっと会えたね」(音楽に、人に、自分に)としみじみ拍手を惜しまない。

その「新しい風」を2つ。
12月、出かけたコンサートで大拍手したのはピアノの務川慧悟。昨夏、NHKのTV収録で西村朗『2台のピアノと管弦楽のヘテロフォニー』を彼と實川風(指揮:齋藤友香理、管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団)が弾くリハーサルに立ち合わせていただき、改めてその魅力に刮目、ようやく実演に触れる機会を得た。じつに凝った曲目構成で、バッハ2曲、ブゾーニ編曲版2曲の間にフランク、レーガーが挿入され、最後がショスタコーヴィチ。
「音楽と遊べる」。そこがたまらない。崩す、とか言うのでない、時々の自分の感興を何より大切に音楽を滑走させる、戯れる。特にバッハ。バッハはそれを許す、それができるたとえようもない音の大海なのだ。澄明な響きとカッティング、ヴィヴィッドな律動、知的な読み込みが伝わる独自の(だが基本を押さえた)構築感。パリに学び、フォルテピアノも修める彼の、古典から現代に至る音の透視図の中に置かれた作品たち。僕にはこう見える、だからこう弾く、と広げてくれる音楽世界。ブゾーニ編曲版の華やかなピアニズムもまた、務川の斬新なセンスを大いに盛り立てる。楽しい。
ミーハーと承知でうるうるしたのは『シャコンヌ』で、幾度も私は胸が痛くなり、つまり「清らで聖なる尊きもの」とは、どの世にも誰にでも降りてくるものなのだ、こういう音楽さえあれば、と思ったのだった。
藤田真央がモーツァルトと友達みたいな音楽をするように、務川はバッハと遊ぶ。最後、飛びかかるように躍り込んだショスタコーヴィチでのギラギラした豹の眼の疾駆!
「僕は、」という主語をはっきり持つピアニストに、私は大いに鼓舞されたのだった。
「我道に引きずりこむ独善自己愛タイプ」とそっぽを向く人もあろうが、かまうことない。思い通りに弾けば良い。
昔、「音楽というもの」を教えてくれた師(チェロの青木十良)が言っていた。近代や現代物は親切に詳しく譜面が書いてあるから考えなくても弾ける。バッハやモーツァルトは時代のコンセンサスがバックにあったから書く必要がなかった。設計図が至ってシンプル。それをどう読むかに演奏の醍醐味がある、と。
当たり前だが演奏は想像・創造行為で、務川も「僕は演奏は創造だと思っています」とアフタートークで言っていた。
たぶん、そう人前で言い切る若者たちは「先生、これでいいですか?」と見上げる習慣を、コロナで「完全に」吹っ切ったのだろう。人生は有限、これまで散々周りの言うこと聞いて努力してきたんだから、もういいでしょ。好きにさせてよね。
上下左右に「鏡よ鏡...」的路線から外れ、楽しく生き生き行く道をずんずん歩き始めた彼らの、へえ、これがバッハ?とかに私はワクワクする。
しかもそこに必ず、今を生きる心の底からのメッセージ(例えばうるうる『シャコンヌ』)が潜んでいるのは、なんと素晴らしいことだろう(勝手な思い込みだろうが、そう聴けたもん勝ち)。
私が聴いたのは連続演奏会5夜の第1夜だったが、第3夜には早坂文雄『室内のためのピアノ小品集より』があり、次回は最低3夜は聴くぞ!と意気込むのであった。
ついでに言うと、こうした若手たちの挑戦の背を押す器量がどこの音楽現場にも現れてきているのも頼もしい限り。

次は、ズラトミール・ファン(チェロ)&アレクサンドル・カントロフ(ピアノ)のスーパー・デュオ。両者とも2019年チャイコフスキー国際コンクールの覇者。ゴージャスな顔合わせだし、ファンは初来日だから、と出かける。
カントロフについては、『音楽の未来って (11)カントロフの扉』(2021/12/15)ですでに触れ、「ダンテは僕だ」「僕は君だ」と書き、同時に多民族の混淆モザイクである欧州という地の血脈の搏動をそこに聴いた。
今回、このデュオはシベリウス、グリーグを前半に置いたが、一夜を通じその背後に感じたのもまた、地と人の多様性の錯綜多層だった。それはいわゆる西欧的規範をはるかに超えた圧倒的なエネルギーの横溢で、刺激に満ち満ちたものだった。私はプログラム最後のショスタコーヴィチがブラームスに変更されたのを内心残念に思っていたが、彼らがなぜこれを弾きたかったか、冒頭で直ちに理解した。ショスタコーヴィチなら「これこれ!」とニンマリ頷けたにきまってる。彼らはそれをしなかった。「僕らのブラームスを聴いてくれ!」と言ったのだ。
そしてそれは素晴らしく、新しかった。耳タコのこのソナタが、こんなふうに聴こえるなんて。まるで「怒れる若者たち」 みたい。ブラームスの不安と熱情がどこをとっても噴きあがってくるような演奏だ。ファンのボウイングは独特なものがあり、時折、上から振りかぶって懐に差し入れてくる刀を思わせ、そこから生まれる響きの切れ味としなやかさは類がない。そこにガシガシ楔を打ち込むカントロフ。そこには実にいろんな声が渦巻く、蠢く、叫ぶ、歌う。
ファンはブルガリアと中国系の米国人でジュリアードに学んでいる。カントロフはフランス出身だがユダヤ系ロシアの家系。「怒れる若者たち」は1950年代イギリス発祥の階級闘争的文学群像だが、今日、民族多様性の坩堝の中でぐちゃぐちゃに打ち砕かれるフランスの「怒れる若者たち」(2023年7月、アルジェリアがルーツの17歳少年が警官に射殺される事件から起きた暴動に象徴される)を胸底に、「彼らは僕らだ」とファンとカントロフは叫んでいるようだった。
いや、それ、ブラームスの円熟ソナタと関係ないでしょ。
私はそうは思わない。若者はいつの時代でも、飢え、渇き、遠い星と、愛の焦燥に悶えているのだ。怯え、ひるみ、嘆き、のたうっているのだ。さらにどこまでも、光を信じようともがいているのだ。ブラームスだってそう。音楽家はいつだって、怒れる若者、魂の飢えを自分の中に持つ。栄えあるコンクール覇者の2人は、だからこそ、そのことをこれ以上ないくらい激しくぶちまけ、ぶつけてくれた。
文化の軛など、もう彼らにはない。
務川にそれが最早、ないように。

つまり、世界はこのように、同時並列現在進行形。
などというと、いかにも情報化時代、のようだがそうではない。
人類史の中で、人は同時多発的に「ではみなさんご一緒に」とステージを変化させてきた。どこか一部が突出し、それが伝播拡大していったのでなく。
それはとても不思議なのだが、事実だ。
最近、世界最古とされてきた洞窟画がスペインのネアンデルタール人(65,000年前)のもので、ホモ・サピエンスではないことが明らかになり、さらにインドネシアの島、カリマンタン島やスラウェシ島で発見された壁画もまたこの年代に匹敵する古さであることが判明した。
人が世界を計量化する以前の人類の歩みの、はるけき力強さよ。
紀元1世紀前後に現れる世界の哲学・思想のステージのタイムラグなど、無いに等しい。
そういう尺で見るなら、私たちは今も、少しも変わらない。
中央と周縁、中心と周辺的な眼鏡を外せば、それらが常に往還流動呼吸するダイナミズムそのものであることが見えてこよう。それこそが、地球という球体の生命力なのではないか。
つまり、風はいつも、吹いている。
そうね、私は「新しい風」と言ったけど、風はいつでも「新しい」。

みなさんの中に、いつも「風」が吹いていますように。

ところで。
たぶん5年ほど前から、私は若い演奏家たち、あるいは個性的なアンサンブルに「これはなんだろう...」と言葉に窮する何かを感取していたが、それはフレーズ、つまり気息の速さ短さのようだ、と思うようになった。
速い。ぷつぷつ切れる。そこにアクセントが来る。
今の世の中に鳴っている音楽や音、響きに私は疎いから「のようだ」としか言えない。
けれど、たとえばゲーム音楽(孫に教えてもらう)などにある「ノリ」「刻み」「弾み」の周期の短さ、ほとんど点描的搏動との類似に、人間の生理(語りの呼吸)の変化なのかも、と思ったりする。
上述2公演にしても、「のようだ」はあったが、それが自然に思えたのはなぜだろう。
これが人類史における次の「ステップ」なのか、はもう私の手に負えない。
この先は、これからの若い書き手たちに、ぜひ語って欲しいと思う次第だ。

もう一度。
誰もの中に、いつも「風」がありますように。

追記)
本稿は昨年大晦日に脱稿したものですが、そのまま掲載させていただきます。
能登半島地震で亡くなられた方々のご冥福をお祈り申し上げるともに、 そのご家族や被災された方々に、心よりお悔やみとお見舞いを申し上げます。
また、羽田空港でのJALと海上保安庁航空機接触炎上で、被災地への救援物資輸送を担われた海保機で亡くなられた乗員の方々のご冥福を心よりお祈り申し上げます。

2024年1月3日記

関連評:務川慧悟 連続演奏会 <第三夜>|西村紗知

(2024/1/15)

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♪務川慧悟 連続演奏会第1夜
2023/12/4@浜離宮朝日ホール
<プログラムA>
J.S.バッハ:フランス風序曲 ロ短調 BWV 831
フランク:プレリュード、コラールとフーガ ロ短調
レーガー:6つのプレリュードとフーガ Op.99より 第2番 ニ長調
J.S.バッハ=ブゾーニ:10のコラール前奏曲より 第4番 ト長調『今ぞ喜べ、愛するキリストのともがらよ』
J.S.バッハ:半音階的幻想曲とフーガ ニ短調 BWV903
J.S.バッハ=ブゾーニ:シャコンヌ ニ短調
ショスタコーヴィチ:24のプレリュードとフーガより 第15番 変ニ長調
(アンコール)
J.S.バッハ:フランス組曲第5番よりサラバンド
ラヴェル:水の戯れ

♪ズラトミール・ファン(チェロ)&アレクサンドル・カントロフ(ピアノ)
2023/12/12@トッパンホール
<プログラム>
シベリウス:メランコリー Op.20
グリーグ:チェロ・ソナタ イ短調 Op.36
ワーグナー(ポッパー編):ロマンス(アルバムの綴り)
ブラームス:チェロ・ソナタ第2番 ヘ長調 Op.99
(アンコール)
チャイコフスキー《エフゲニー・オネーギン》より レンスキーのアリア
ビゼー《カルメン》より ミカエラのアリア(第3幕)
リムスキー=コルサコフ《4つの歌》Op.2より 第2曲 ばらのとりこになったナイチンゲール
ボロディン《小組曲》より 第4曲 マズルカ 変ニ長調