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読売日本交響楽団 第632回定期演奏会|田中 里奈

読売日本交響楽団 第632回定期演奏会
2023年10月17日、サントリーホール

The Yomiuri Nippon Symphony Orchestra, Subscription Concert No. 632
October 17, 2023, Suntory Hall

Text by 田中 里奈(Rina Tanaka)

Players and Programme in English→

指揮=セバスティアン・ヴァイグレ
ピアノ=ルーカス・ゲニューシャス
ソプラノ=アンナ・ガブラー
メゾ・ソプラノ=クリスタ・マイヤー
バリトン=ディートリヒ・ヘンシェル
バス=ファルク・シュトルックマン
合唱=新国立劇場合唱団
合唱指揮=冨平恭平
語り=黒田大介、丸山泰司、岩本識、大木太郎、真野郁夫
コンサートマスター=長原幸太

字幕:永井拓
字幕操作:Zimakuプラス

主催=読売新聞社、日本テレビ放送網、読売テレビ、読売日本交響楽団
助成=文化庁文化芸術振興費補助金、独立行政法人日本芸術文化振興会、公益財団法人アフィニス文化財団

【プログラム】
パウル・ヒンデミット:主題と変奏 「4つの気質」
(ルーカス・ゲニューシャスによるアンコール…ゴドフスキ:トリアコンタメロン 第11番「懐かしきウィーン」)
ハンス・アイスラー:ドイツ交響曲 作品50(日本初演)

* * *

2019年から読売日本交響楽団の常任指揮者を務めてきたセバスティアン・ヴァイグレ Sebastian Weigleによる、挑戦的なプログラムだ。ハンス・アイスラー Hans Eislerの「ドイツ交響曲 Deutsche Sinfonie」(1959)が日本初演だったのは意外だが、それと組み合わせてパウル・ヒンデミット Paul Hindemithが選ばれている点も目を引く。戦後日本におけるブレヒト・ブーム、あるいは林光に代表されるブレヒト&アイスラーへの注目の中で1、日本初演にこぎつけていてもおかしくなさそうだと思ったが。

ヒンデミットの主題と変奏 「4つの気質Theme and Variations “The Four Temperaments”」(1943)は、公演中止となった2020年3月の定期演奏会に演奏される予定だったもので、ルーカス・ゲニューシャス(ピアノ)を再度迎えてのリベンジではあるのだが、2021年1月の第605回定期演奏会でもヴァイグレがヒンデミットを取り上げていたことは注目して良さそうだ。その時の演奏会では、ナチス・ドイツとさまざまな形で関係した3人の作曲家——リヒャルト・シュトラウス、カール・アマデウス・ハルトマン、そしてヒンデミット——が取り上げられ、そこでヒンデミットの「画家マティス Mathis der Maler」(1934)が演奏された2。同作と言えば、ナチスによる上演禁止措置を受けて、当時ベルリン・フィルとベルリン国立歌劇場の音楽監督で、なおかつナチスの同一化政策の音楽部門であった帝国音楽院総裁のヴィルヘルム・フルトヴェングラーがこれに反発した結果、職を辞任させられたことで有名だ(なお、フルトヴェングラーは翌年にドイツの楽壇に復帰している)。

演劇の視点から注目すべきは、アイスラーが、今日のドイツ演劇につながる潮流に大きな影響力を残した劇作家ベルトルト・ブレヒト Berthold Brechtと協働しており、さらに今回の作品がほとんどブレヒトの詞に基づいているという点だ。ブレヒトという横串を通してこの演奏会を見ると、ブレヒトが、前述したヒンデミット、アイスラー、そして『三文オペラ』ほかのクルト・ヴァイルといった名だたる作曲家——皆、アメリカに亡命していた共通点を持つ——との協働を試みていたことに目が留まる。ブレヒトの分野横断的な試みは、演劇と音楽という両要素を効果的に組み合わせて、観客が物語やキャラクターに感情移入することを一時的に中断させ、メタ的な視点で上演を眺めること(いわゆる「異化効果」)を促した。そこには、演劇で観客を現実逃避させるのではなく、観劇を通して観客に社会の諸問題を改めて考えさせ、社会を変えていこうとするきっかけを作ろうとした、ブレヒトのマルクス主義的な、だが明らかに2つの大戦をめぐるドイツの芸術のあり方に対抗しようとしたアイデアが見て取れる。

1920年代~30年代のドイツにおける芸術と社会の関係への危機感は、今回の演奏会で取り上げられた二人の作曲家に通底するものであろう。ヒンデミットは、ドイツ美術の新即物主義にみられる写実的かつ社会批判的なアプローチを作曲に反映させていた。アイスラーもまた、音楽の社会的役割に絶えず目を向け、ブレヒトとの協働を経て、ますます作曲の中で「考える聴取」を聴衆に要請し続けてきた3。言ってしまえば、今回の演奏会のプログラムは非常に「ドイツ的」であり、分野を超えた芸術の倫理性のような何かについて改めて考えさせてきそうな構成だった。

* * *

実際の演奏会は、休憩を挟んだ二部構成で行われた。前半の主題と変奏 「4つの気質」は、「ドイツ交響曲」の前座と言ってしまうにはあまりにももったいない、聴きごたえ満載の演奏であった。美しく抒情的なのにどこか醒めた雰囲気がつねに音の底にひりついた弦5部のハーモニーに対し、独奏ピアノは、切れ味のいい切迫感を保ちつつ、第1変奏の終盤で弦楽との立ち回りを演じ、あるいは第3変奏でふとジャジーな和音を差し挟んでくる。間の、全5楽章にわたる応酬は見事であった。ゲニューシャスのピアノの音色は硬質でクリアな響きで、この作品によくマッチしていた。なお、アンコールの「懐かしきウィーン」では打って変わって明るく楽しいサウンドであったことにも併せて言及しておきたい。

主題と変奏 「4つの気質」は、音楽の視覚化を目指した振付師ジョージ・バランシンのバレエ作品(1946)として今日までしばしば上演され、コンテンポラリーバレエの先駆けに位置づけられる。なるほど、演奏を実際に聴いて実感したが、この作品の構造は、さまざまな情景やテクニックがある種のカタルシスに到達する寸前にどんどん次の展開に切り替わっていき、決して演奏に酔わせようとしない。それは、クラシックバレエが、幻想の実現という見果てぬ夢を追い求め続けたロマンチックバレエにその極致を見出したのに対し、コンテンポラリーバレエがバレエという自らの枠の限界をつねに意識することによって身体表現の新たな可能性を引き出してみせたこととも通底する。そこまで自己矛盾を徹底する中で不意に現れるユーモラスさも、バランシンの振付とヒンデミットの音楽性に相通ずるものだろう。分野横断という点では、現代ジャズ・オーケストラの先駆である作曲家マリア・シュナイダーが「4つの気質」を好きな楽曲に挙げているが4、読響の演奏が、この作品の広範な影響力を納得させ、その先にある現代のさまざまな文化的シーンを連想させたことは特筆に値する。

©読売日本交響楽団 撮影=藤本崇

* * *

休憩を挟んだ後半の1時間にわたる「ドイツ交響曲」は圧巻だった。全11楽章のうち、8楽章が独唱・合唱によるドイツ語歌唱で、残り3楽章がオーケストラによる演奏だ。パイプオルガンを挟んだ両壁面に字幕が表示されたが、併せて観客の手元には独日の歌詞対訳が配布された。

この作品は、注意深く編集されたコラージュのような音楽と歌詞が、第一次世界大戦から第二次世界大戦、そして終戦後にかけてのドイツを、パノラマ的に、だが極めて自己批判的に描き出す(作品全体の構成については和田ちはるの研究を参照のこと5)。音楽と歌詞が極めて緊密に結びついているだけでなく、ブレヒトほかの詞を引用するにあたってアイスラーが行ったアダプテーションがあり(ブレヒトが第二次世界大戦を予期して書いた詞を、アイスラーはすでに起きてしまった第二次世界大戦を事後的に振り返ることに使っている)、さらに、それを今日に読響で演奏することで不可避的に起こったアダプテーションの妙がある。

©読売日本交響楽団 撮影=藤本崇

では、これらの重層的なコンテクストをヴァイグレはどのように上演したのか。

まず、第1楽章「序曲」と第11楽章「エピローグ Pläudium」は内容が相互に対応しており、この作品全体の外枠を形作っているが、ソプラノのアンナ・ガブラー Anna Gablerが合唱と共にステージ後方の座席でこれを歌い、歌い終わると合唱席から静かに退場した。その一連の動きはあまりに演劇的だった。歌の痛切な訴えに反して淡々と退場するガブラーの姿に、筆者は詞の中に登場する「母」ドイツを無意識に重ねてしまっていた。

ドイツという国に女性のイメージがしばしば投影されるのは、女神ゲルマニアが19世紀の統一ドイツの象徴として繰り返し描かれてきたからだろう。今日、最早それが希望の象徴にはなり得ず、現実が理想像からますます乖離していく虐待の縮図として機能していることも忘れてはならない。ブレヒトとアイスラーが自らの「息子たちの血で[…]汚され」ながら何のアクションも起こさないドイツに痛切に訴えかけているのに対し、ラムシュタイン Rammsteinの「ドイツ Deutschland」(2019)はドイツへの愛憎を歌い上げる——「ドイツ、あなたの愛は祝福であり呪いでもある」。

話を「ドイツ交響曲」に戻そう。第2楽章以降は具体的な情景の音楽的描写が続き、日常的な搾取と弾圧の構造と、不条理の日常化に伴う革命の諦念が、演奏を通して視覚化されていく。ゾンネンブルクの強制収容所、殉死者の葬列、反体制派の弾圧、凶作、不安、裁判、そしてその中を生きる人々の絶望と怒りが、具体的かつ切々と示されていく。この、極めて高い技術と表現を要求する作品を、いま実現してのけたオーケストラと合唱団には大きな拍手を送りたい。特に、第8楽章の「ささやき声の会話(メロドラマ)Flüstergespräch (Melodram)」は台詞のように歌われ、後述するように、今日との関連を最も大きく感じられた場面であった。

ただし、同時代の有名な闘争歌を引用した構成は、同時代において労働運動に少しでも関わっていた聴衆ならば、そのメッセージ性を汲み取ることができたのかもしれないが、今日の、しかもこともあろうに日本でそれが機能するとすれば、検閲か、あるいはスノッブ的な解題の中でしかないだろう。クリスマスソングの労働歌としてのルーツに遡ったミヌク・イム Lim Minoukの野外パフォーマンス「O Tannenbaum(もみの木)」(2018、東京)が皇居周辺でパフォーマンス禁止区間に直面したように。

歴史的背景との接続不良に対して、今日の文脈とのつながりはいっそう大きく感じられた。ちょうどこのコンサートを聴きに行った10月17日の日本時間深夜、パレスチナ自治区ガザ地区のアル・アハリ病院が空爆されたというニュースが報じられた。筆者は第8楽章に登場した次の詞を連想せざるを得なかった。

—戦争はどうなってる?
—昨日また病院を爆撃したよ。
—どっちが?
—文化を押し付けようとしている奴らだ。6

ここで、「文化の押し付け」とイスラエルとを単純に結びつけることはできないし、そうすべきでもない。その後に続く詞(「軍の上層部が、文化を守りたいんだとよ/いったいどんな文化だよ/軍が決める文化だ」)はイタリア・ファシズムに迫害された社会主義者を描いたイニャツィオ・シローネ Ignazio Siloneの小説『パンと葡萄酒 Vino e pane』(1936、独訳は1937年)からの引用だし、引用者のアイスラーはそこからドイツにおける文化統制を連想したことだろう。

だが一方で、ここで器楽がいったん鳴りを潜め、ほぼ専ら語りの声によって音楽が進行することで、語り手の生の声がクローズアップされ、パフォーマティブな側面がわざと強調されていることは重要である。それによって、社会的な制約を受けて潜伏する人々の声として聞こえるだけでなく、その「どこか」は具体性を欠いて「どこでも」起こりうる出来事であるようにも聞こえる。もちろん、それがドイツ語で発話されることが連想に制約をかけていることも事実だが、それゆえに、直近にドイツで〈検閲〉をめぐって問題になった2つの芸術祭——美術祭「ドクメンタ15 Documenta fifteen」(2022)と「国際演劇祭 Theater der Welt」(2023)——が筆者の脳裏に浮かんだことも事実だ。そこにはむろんイスラエルに対してドイツが取ってきた、そして今も取り続けている立場の問題も含まれる。

* * *

このように、「ドイツ交響曲」が歴史的事象に焦点を当てながら、現代の問題をも想起してみせたことは、アイスラーが予期したことでもあった。アイスラー研究者の和田ちはるは、「ドイツ交響曲」の20数年にわたる長い制作過程を経て、この作品の射程が第二次世界大戦後をも捉えるものに変容したと説明し、次のように締めくくっている。

この作品はその[ファシズムから第二次世界大戦の終結までの]歴史と向き合い、その意味を考え、それを未来へとつなげるきっかけとして機能する。また、[楽章を年代順につなげて]歴史の中へと組み込まれることで、この作品が向かう対象も拡大された。この作品が扱っている問題は、地域や時代を問わず、いわば普遍的に取り組まれる必要のあるものだからである。7

なるほど、「ドイツ交響曲」は2つの大戦におけるドイツの歴史を音楽で克明に描写しつつ、まさしく音楽を通じて、人間に対する暴力への悲しみと怒りの共感を聴衆に誘発しようとする。それは、アイスラーと同時代に生きたエルヴィン・ピスカートアの言葉を借りれば、「世間でよく行われている芝居の夕べではない。〈作品〉ではないのだ」ということになるだろう8。そこには、自分から切り離した対象の鑑賞と享受を楽しむ「音楽の夕べ Musikabend」——夜公演にいそいそと赴く喜びが自動的に連想される——ではなく、奏者と聴衆の間で上演されることによって効果の現出するような、出来事的な側面があるということだ。

だが一方で、この演奏会を今日の国際情勢に即座に結びつけて語ること自体が、火の粉の飛んでこない対岸から尤もらしく言っているだけにすぎないのではないか、という疑念も同時につきまとう。そもそも芸術が社会を変えることに失敗し続けたから、こういう状況が作り出されているのではなかったのか。それも、そうやって火の粉の降り掛かる最中を遠巻きに眺めてきた私たちの存在によって。「ドイツ交響曲」に絶え間なく付随する醒めない悪夢のような居心地の悪さは、その素晴らしい演奏に対して惜しみない拍手を送る聴衆一人ひとりの背後にひたと取り付いてくるようであった。

だが、「アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮である」というアドルノの発言が、「だから詩を書くべきではない」と諦念するためのものではなく、「その前提を引き受けるほかない私たちはそれでもなお詩を書かざるを得ない」あり方に身を置くことだと理解するならば9、その居心地の悪さをしまい込んだり、蓋をしたりせず、それを持て余しながら考えていくほかない。賞賛の拍手を送っている己の矛盾に見て見ぬふりをせず、その居心地の悪さを抱えて生き続けることこそが、ヒンデミットやアイスラーの作品を今日に上演することの意味ではなかったか。

アイスラーは、ナチスによって悪用された「ドイツ」の語をあえて〈交響曲〉のタイトルに冠することで、ドイツから亡命した者も「もう一つのドイツ das andere Deutschland」だと言わんとした10。私はドイツ人でもない。亡命者でもない。だが、教科書的な〈歴史〉の中の古典として無批判に享受するのではなく、自分と切り離された〈他所〉の歴史として一切の関与を諦めるのでもなく、演奏という出来事に居合わせることを通じて、歴史の一端を自分の手の中に握り直すことは可能だと信じたい。人間による惨事からの時間と距離の近さと遠さにかかわらず、「生存者は、その結果に対峙しなければならない。[…]出来事のさなかには、なにもわかっていなかった」としても11そのように機能したとすれば、この演奏会はもはや「ドイツ」的なプログラムとは言えず、その枠を超えるものであった。そこに、これを日本の交響楽団で、しかも新聞社が母体となっている世界唯一の交響楽団で、上演する意義が見出せるであろう。

関連評:読売日本交響楽団 第632回定期演奏会 |藤堂清

(2023/11/15)

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  1. Chiharu Wada. “Kleine Rezeptionsgeschichte von Hanns Eisler in Japan.” Symposion Eisler und die Nachwelt (Berlin), 6-8. September 2012; 和田ちはる「ハンス・アイスラーと〈ドイツ交響曲〉」読売日本交響楽団.
  2. 読売日本交響楽団「第605回定期演奏会」2021年1月19日、サントリーホール。
  3. 和田ちはる「ハンス・アイスラーの 「音楽における愚かさ」 ―民衆からの距離を手がかりにした解釈の試み―」『明治学院大学藝術学研究』27, 2017, 1-15.
  4. James Baker. “Maria Schneider: In Praise of Hindemith.” January 29, 2014.
  5. 和田ちはる「時代とともに変わる音楽作品の意味 : ハンス・アイスラーの《ドイツ交響曲》のあり方をめぐって」『東京藝術大学音楽学部紀要』37, 2011, 201-215.
  6. 当日配布資料の「アイスラー:ドイツ交響曲歌詞対訳」(永井拓)より引用。
  7. 前掲、和田、2011.
  8. Erwin Piscator. „Anmerkungen zu einem großen Thema.“ Schriften 2. Aufsätze Reden Gespräche. Veröffentlichung der Deutschen Akademi der Künste zu Berlin. Ludwig Hoffman, Hrsg. Henschel, 1968, 321-325. 日本語訳は以下に基づく。萩原健『演出家ピスカートアの仕事』(森話社、2017)。
  9. 高安啓介「アウシュヴィッツ以後の芸術」『愛媛大学法文学部論集 人文学科編』29, 2010, 101-115.
  10. アイスラー研究者のアルブレヒト・ドゥムリンク Albrecht Dümlingの発言。翻訳は引用者。Stefan Zednik. „Die „Deutsche Symphonie“ – Hanns Eislers Widerstands-Werk.“ Deutschlandfunk. 24. April 2019.
  11. Dubravka Ugrešić. Lisica. Franktura, 2017. 日本語訳は以下に基づく。ドゥブラヴカ・ウグレシッチ『きつね』奥彩子訳、白水社、2023年。


The Yomiuri Nippon Symphony Orchestra, Subscription Concert No. 632
October 17, 2023, Suntory Hall

Principal Conductor: Sebastian Weigle
Piano: Lukas Geniušas
Soprano: Anna Gabler
Mezzo Soprano: Christa Mayer
Baritone: Dietrich Henschel
Bass: Falk Struckmann
Chorus: New National Theatre Chorus
Chorusmaster: Kyohei Tomihira
Sprechstimme: Daisuke Kuroda, Yasushi Maruyama, Shiki Iwamoto, Taro Ōki, Ikuo Mano
Concertmaster: Kato Nagahara

Japanese subtitles: Taku Nagai
Subtitles operator: Zimaku Plus

Sponsored by Yomiuri Shimbun, Nippon Television Broadcasting Network, Yomiuri Television, Yomiuri Nippon Symphony Orchestra
Granted by Agency for Cultural Affairs Grants for Cultural Affairs, Japan Arts Council, Affinis Arts Foundation

PROGRAMME
Paul Hindemith: Theme and Variations “The Four Temperaments”
(Encore by Lukas Geniušas: Godowsky: Alt-Wien)
Hans Eisler: Deutsche Sinfonie, op. 50 (Japan Premiere)