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評論|西村朗 考・覚書(32)室内オペラ『絵師』(1)〜芥川龍之介と三島由紀夫の『地獄変』|丘山万里子

西村朗 考・覚書(32)室内オペラ『絵師』(1)〜芥川龍之介と三島由紀夫の『地獄変』
Notes on Akira Nishimura(32) “ESHI” (Der Maler) Kammeroper für Sopran, Kammerensemble, eineTänzerin und drei Tänzer

Text by 丘山万里子(Mariko Okayama)

室内オペラ『絵師』(1999)は芥川龍之介『地獄変』を原作に西村本人が台本を書いた。
まず、芥川の『地獄変』を見ておこう。あらすじはこうだ。

時は平安時代。絵師良秀は天下一の腕を持つと都で評判だが、醜怪な容貌の老人でその立ち居振る舞いも猿のようだとて猿秀のあだ名があった。吝嗇、慳貪、厚顔無恥、強欲であったが、その絵は常人離れしたもので、大殿も一目置く絵師であった。彼には15歳になる愛娘がいたが、ある日、良秀と名づけられた猿が若殿に追われるのを見て、許しを乞うて以来、彼女に懐き従うので、周囲のいじめも止んだという。その愛らしさと心根が大殿に知れ、召されたのを良秀は返して欲しいと事あるごとに言上するのであった。
そんなある時、大殿から「地獄変」(地獄変相図)の屏風絵を描くよう命じられる。受けた良秀は「実際に見たものしか描けない」と弟子を鎖で縛り上げ苛む、あるいはミミズクに襲わせるなど、その苦悶凄惨の様を冷厳に画布に活写するのであった。こうしてほぼ出来上がったものの、燃え上がる牛車の中で焼け死ぬ女の姿を仕上げに描きたいと思うがどうしても描けない。そこで大殿に「どうか檳榔毛の車(牛車)を一輌、私の見ているところで、火にかけていただきとうございまする。」と言上する。大殿は異様に一笑ののちそれを約し、数日後の夜に良秀を呼びつける。
眼前には牛車。簾が上がるとそこにいるのは良秀の娘。良秀が駆け寄る間も無く火が放たれ、めらめら舌を吐き牛車に絡む紅蓮の炎に髪を口に噛みながら縛の鎖も切れるばかりに身悶えする娘、と、その焦熱地獄に飛び込む黒い影はあの猿。そうしてもろとも黒煙に消え、残った轟々たる火柱に、それまで地獄の責苦にあった良秀は「今は言いようのない輝きを、さながら恍惚とした法悦の輝きを、皺だらけな満面に浮べながら」その場に佇んでいるのであった。
こうして書き上げた地獄絵屏風を献上の翌日、絵師は自室で縊死するのである。1)

西村はこれをほぼ1時間の室内オペラに仕立てた。ドイツのハノーファー現代音楽協会の委嘱で、ソプラノと7人の奏者(fl,cl,pft,perc,vln,vla,vlc)2)と4人のダンサーのための作品となっている。西村のオペラ作品については1986年にNHK委嘱によるTVオペラ『8月の熱い雨』があるが、本格的オペラはこの『絵師』が第1作と言えよう。《ハノーファー・ビエンナーレ》の最終日にBalhofという古い館での初演で、マーチン・ブラウス指揮アンサンブル・ムジカ・ヴィヴァ・ハノーファー、ノリコ・オガワ・ヤタケsop、振付ジュンコ・ヒカサ。これにダンサー4人の扮する絵師、将軍、娘、弟子という編成。ソプラノが4役の声を歌い分け、ダンサーがそれを演じるという趣向である。文楽を念頭にソプラノは太夫(語り)、ダンサーたちは人形とのことだ。その後、2002年ハンブルク、ドルトムント、次いで2004年デュッセルドルフで上演された。なお、委嘱者の要望で台本は日本語のまま作曲されている。
日本初演は2001年大阪いずみホールで、本名徹次指揮いずみシンフォニエッタ大阪。畑田弘美sop、振付石井潤。ダンサーは堀登、佐藤崇有貴、中村美佳、佐々木淳史。また2006年草津夏期国際音楽アカデミー&フェスティバルでは飯森範親指揮、観世榮夫、清水寛二、西村高夫、柴田稔を迎え能楽仕立てで上演された。演奏は畑田弘美sop.のほか、碇山典子pf,高木和弘vn,百武由紀va, 苅田雅治vc,西田直孝fl,亀井良信cl,永曽重光percという顔ぶれ。
筆者はハンブルク公演のDVDと草津の録画を拝借、視聴したが、全く別の作品のようであった。これについては第2回で触れる。

まず、文楽をモデルに、だが。
文楽とは人形浄瑠璃文楽のことで、発祥は大阪、太夫・三味線・人形の三業(さんぎょう)による技芸である。歌舞伎・浄瑠璃作家、近松門左衛門(1653-1725)の『曽根崎心中』(1703)あたりがすぐと想起されよう。近松は竹本義太夫が座本となって起こした竹本座(道頓堀)の座付作者となり多くの浄瑠璃を書いた。
この芥川『地獄変』については、三島由紀夫が竹本劇(上述の義太夫語りを含む歌舞伎)のために書き下ろした『地獄変』(1953)がある。初演は歌舞伎座で、中村吉右衛門劇団により中村歌右衛門、中村勘三郎らが共演、三島の最初の歌舞伎戯曲となった。歌舞伎座からの依頼での執筆だが、子供の頃から歌舞伎、特に丸本物が好きだった彼は「現代語や中途半端の新歌舞伎調セリフの新作がきらいで」、いずれ「形式もセリフもことごとく歌舞伎に則つた新作を書きたい」と考えていたところで、渡りに舟と快諾した。ちなみに丸本物とは人形浄瑠璃から歌舞伎へ移された演目で、上述の竹本義太夫節の語りで物語が進行、音楽的・様式的な演技や演出が多いものを言う。
執筆にあたり、三島は浄瑠璃の文体を採り入れるのに苦労、その難しさをこう語っている。

しかしやつてみると、ただ擬古文といふだけでなく、浄瑠璃のあのグロテスクな素朴なユーモアをたたへた悪趣味きはまる文体の再現は、実にむづかしかつた。(中略)大体浄瑠璃作者の頭には日本や支那の古事に関する耳学問がいつぱい詰つてゐたが、浄瑠璃を書くのにじやまになるやうな教養は一つもなかつた。ところが我々は、文楽をきいた耳でハイフェッツをきき、帰りは酒場でサルトルを論ずるといふ理不尽な生活をしてゐる。これで浄瑠璃を書かうといふのは虫が好すぎる。自慢にもならないが、やつと脱稿して、歌舞伎座で本読みの最中に息がつづかず、脳貧血を起しかけた程である。3)

文楽「椿説弓張月」三島由紀夫

筆者が文楽を見たのは高校生の頃に一度で、何の感興も覚えず興味も持たずにいた。その後、間宮芳生の文楽人形によるオペラ『鳴神』で、雲絶間姫が鳴神上人を誘惑するさまの妖艶にゾクッとして以来、すごい世界だ、と思うようになった。『傾城反魂香』(絵師の話)を観てさらに、これは表現主義の最たるもの、人形それ自体と遣い手の仔細な所作が義太夫、三味線と相まって幾重にも増幅され、かつ凝縮されたドラマが現出するのに衝撃を受けた。もっとも、義太夫節の良し悪しなどわからぬままだが、この三島の言葉、とりわけ日本や支那の耳学問が詰まっているが、我々は文楽をきいた耳でハイフェッツをきき云々、という部分になるほど、と思った。

「地獄變 」雪消の御所の庭の場 東京劇場1935

三島はまた、「竹本劇<地獄変>」という短文の中で、原作の時間の経過を24時間に縮小、三一致の法則(1日のうちに1つの場所で、1つの行為を完結させる作劇)に従い執筆、かつ、小猿を省き、大殿の妻と家来を加え大臣(大殿)と絵師の性格を際立たせた、と述べている。また、大臣に偽善者の性格を見ており、その本質をサド侯爵であり、幼児殺戮者ジル・ド・レエとする。大臣、良秀、娘の三主要人物に感情移入しやすいので、この地獄変の脚色に興味を持ち、自分は大臣のようなブルータルな人物になりたいなどとも述べているが、「娘については、かくの如き嬋娟(せんけん)たる美女を車に入れて焼くことに、私はローマ頽唐(たいとう)期の皇帝の悪趣味を感じて、恍惚として作劇の筆を執ったのであった。」4)

さて、西村は台本執筆、作曲に際し、どうだったのであろうか。
なお、『地獄変』は70年万博時に大阪で大栗裕作曲オペラ『地獄変』が関西歌劇団によって上演されているが5)、氏に尋ねたところそのオペラも三島の歌舞伎戯曲も知らないとのこのことだった。また、以下のお返事を頂いた。

「地獄変」を“観た”記憶は、70年万博の頃の映画「地獄変」(仲代達矢主演)です。
火だるまの牛車の中で娘が焼かれるシーンは鮮烈でした。
オペラ「絵師」はこの映画の印象の影響を潜在的に受けているような気がします。

この映画は1969年、『日本海大海戦』の八住利雄が脚本化、『喜劇 駅前開運』の豊田四郎が監督、撮影「連合艦隊司令長官 山本五十六」の山田一夫で制作された。キャストは大殿:萬屋錦之介、絵師良秀:仲代達矢、娘良香:内藤洋子、弟子弘見:大出俊といった顔ぶれであった。
当時、西村16歳、藝大目指しての勉学を開始した頃での視聴である。

ともあれ、西村作品に分け入る前に、原作に戻っておく。
そもそも地獄変とは何であるのか。

芥川龍之介は11歳で母を喪い叔父の養子となり芥川の姓を名乗ったが、この家は旧家の士族で江戸時代、代々徳川家に仕えた奥坊主(御用部屋坊主)であった。芸術・演芸を愛好、江戸の文人的趣味が残る家風ゆえ、漢文にも通じ、和洋の学才をその素養として持っていた。『侏儒の言葉』『西方の人』などの箴言の鋭い洞察と見識に、この時代の文学者に江戸が連綿と生きていたこと、かつそれを土台に西欧文化をも咀嚼しており、その射程の長さ広さを実感する。
『地獄変』も『宇治拾遺物語』(1212〜1221年成立)からのもの。鎌倉前期成立の説話集で、日本、インド、大唐の三国を舞台とし「あはれ」「をかし」「恐ろしき」話など全197話を収録する。本作は「恐ろしき」に属すると思われる。芥川はここから『地獄変』『芋粥』を翻案したが、『羅生門』『鼻』などもこれに並行する『今昔物語集』(1120~1449)6)からである。これら説話集には仏教説話も含まれるが、源信が『往生要集』(985年)で浄土教教化にあたり執筆した極楽往生への道として生々しく地獄の有り様を描いたように、地獄の描写が日本に現れるのは仏教伝来以降のことだ。
なお、これら古代説話集には平安初期、漢文で書かれた日本最古の仏教説話集『日本霊異記』(787~822)の影響が大きく見てとれる。中国渡来の説話も含まれ、かつ奈良末期からの民間仏教草創期の日本民衆の信仰形態も映じている点で興味深く、芥川の『地獄変』もまたその系譜に立つと言えよう。もっとも、仏教的教訓性は彼にはほとんどなく、むしろこれら説話の「怪異性」に興味があったようだ。

「六道絵」閻魔王庁図・阿鼻地獄図・等活地獄図・人道不浄相図 十五幅のうち 国宝 絹本着色 各155.5×68.0cm 13世紀・鎌倉時代 聖衆来迎寺

ちなみにこの『日本霊異記』上巻第三十には死後3日を経て蘇った男が、黄泉の国を往還する話があり、地獄で父親が責苦に苦しむ情景が描かれており、また第三五には六道(地獄)を描いた絵の話がある。日本に残存する最古の地獄図は東大寺(745起工)二月堂十一面観音像光背の幽鬼図とされるが、仏教教化に際し多く描かれるようになったのは平安期から。初期の歌人小野篁(おののたかむら)が昼は朝廷で官吏を、夜は冥府で閻魔大王のもとで裁判補佐を務めた伝説は『今昔物語』の説話に収められ、古浄瑠璃(義太夫節より以前の浄瑠璃)の代表演目における「地獄巡り」へと流れ込んでいる。7)
芥川の『地獄変』、これでもかとばかり描き募る責苦の様子は、筆者など読んで思わず目を逸らすが、『日本霊異記』での地獄もまたかなり怖い。どの時代も宗教は人々の地獄落ちの恐怖を煽るに熱心であったのだ。

むろん、日本に限らずこの手の説話は世界に広がるが、極楽・地獄、天国・地獄の概念は人間が死というものに向き合った時から生じており、死者を祀る儀式もそこから発生した。したがって地獄は古くは死後の世界、いわゆる常闇、黄泉の国に重なるものであり、世界の古代神話は全てここに通じる。上述、現世から冥府を訪ね地獄を見る男の話は、『古事記』『日本書紀』における黄泉の国(イザナギが妻イザナミを追い黄泉の国を訪ねる)の記述に繋がり、あるいはギリシャ神話『オルフェウス』でもお馴染みである。生死を極楽地獄的に分割するのは、やはり宗教的正邪善悪が規範となって以降のことだろう。ダンテの『神曲』の地獄篇は1307年頃からの執筆とされるが、古代日本説話集に現れる地獄世界はキリスト教圏より一足早く民間で醸成されていたと思われる。

こうしてみると、芥川の『地獄変』は、日本古代の素朴な死生観から仏教教化での地獄極楽路線上にあるものの、前述の通り宗教性ははなはだ薄く、むしろ異界異形世界への強い嗜好を感じさせる。したがって、仏教伝来以前の日本のプリミティブな感性をもその根底に保持していた作家とも言えようか。
『侏儒の言葉』に《地獄》という項があるが、ここで彼は以下のように記す。

人生は地獄よりも地獄的である。地獄の与える苦しみは一定の法則を破ったことはない。例えば餓鬼道の苦しみは目の前の飯を食おうとすれば飯の上に火の燃えるたぐいである。しかし人生の与える苦しみは不幸にもそれほど単純でない。―ー(中略)もし地獄に堕ちたとすれば、わたしは必ず咄嗟の間に餓鬼道の飯も掠め得るであろう。況や針の山や血の池などは二三年其処に住み慣れさえすれば格別跋渉の苦しみを感じないようになってしまう筈である。(p.38,39)

仏道などせせら笑う彼の顔が見えようではないか。
ちなみに彼の俳号は我鬼。
ついでにもう一つご紹介する。
『西方の人』の中にある《女人》で言う。

大勢の女人たちはクリストを愛した。就中マグダラのマリアなどは一度彼に会った為に七つの悪鬼に責められるのを忘れ、彼女の職業を超越した詩的恋愛さえ感じ出した。クリストの命の終わった後、彼女のまっ先に彼を見たのはこう云う恋愛の力である。――(中略)後代は、――或いは後代の男子たちは彼らの詩的恋愛に冷淡だった。(尤も芸術的主題以外には)しかし後代の女人たちはいつもこのマリアを嫉妬していた。
「なぜクリスト様は誰よりも先にお母さんのマリア様に再生をお示しにならなかったのかしら?」
それは彼女らの漏らして来た、最も偽善的な嘆息だった。(p.143,144)

さらについでに言うと『地獄変』の続編『邪宗門』には、「摩利の教」を説く十文字の怪しげな黄金の護符を首から下げた摩利信乃法師という異形の沙門が現れ、横川の僧都(『地獄変』にも登場する僧)の法力比べが行われる。僧都の幻術に摩利信乃法師が打ち勝つところで未完となっているが、クリスト教と仏教の対決など、芥川の独特世界を浮き彫りにするものと筆者は思う。

芥川とは、こういう眼を持つ作家だった。30代半ばでの自死もそれゆえと思う。
したがって、と言うべきか、その『地獄変』も芸術至上主義が色濃く、愛娘の断末魔を嬉しそうに眺めていた良秀について、
「何故か人間とは思われない、夢に見る獅子王の怒りに似た、怪しげな厳かさがございました。」
「おそらくは無心の鳥の眼にも、あの男の頭の上に、円光の如く懸っている不可思議な威厳が見えたのでございましょう。」
「誰でもあの屏風を見るものは、如何に日頃良秀を憎く思っているにせよ、不思議に厳かな心もちに打たれて、灼熱地獄の大苦難を如実に感じるからでもございましょうか。」
などなど書き連ねている。

では三島はどうか。いかんせん、歌舞伎戯曲なので、引用が難しいのだが、簾をあげてあっと驚くシーンは娘が父に白装束で別れを告げる場の挿入に変更され、父の「こりやどうしたわけかいなう。」に、義太夫がこう語る。
答へぬ娘、何事も宿世(すくせ)と心に納めの巻、乗るは思ひの火の車、見返り見返り、愛別の、言葉は涙、目と目にて、別れの言の葉、千巻の経文とても及ぶまじ。P.49

あるいは、最後のシーン。
五百由旬8)の焔に包まれ、ぐわらりと崩るる檳榔毛の、なかなる娘は断末魔、知死後に一目父の姿、見返る良秀、後れんとするも迷ひや、妄執のいづれ変わらぬ、絵筆の運び、
(ト車崩れ、娘の断末魔の体あらはるるに、良秀ふと気おくれするが、また、写生にかかりて、大臣と顔を見交はす)
大臣「ウムでかす。」
(ト云ふを柝の頭)
「ムムハハハハハ。」
(ト時平の七笑日の如く大笑ひをなすうちに)
のちの世までもいちじるき。
(ト皆々引張りよろしく、段切りにて)9)

義太夫節であるのでトントンとリズミックな節回しが気持ち良いが、三島の苦労も知れよう。あくまで父を思う娘、我が絵図に夢中の父、してやったりの大臣の高笑いと、ここでは大臣(大殿)が幕切れを飾る。
三島はこの大臣に自身の理想を見たようだから、人生を割腹自殺で終えたのも彼の美学であったのだろう。ともあれ、劇的要素をさらに盛り込み悽愴を極める舞台であったろうことは想像に難くない。

西村もまた文楽にヒントを得たとするが、どのようにこれをオペラ化したか。
幼少から、祖父に地獄絵を見せられ、地獄極楽を素直に信じ、大きくなったらお坊さんになる、と言っていた彼に、地獄変は親しい世界だったに違いない。同時に、しつこいが、寂光院からの帰路の黄昏時に感触した異界と、さらにはヴィシュヌの変化(へんげ)、神々世界が芥川の描くおどろおどろしい奇想世界に共振したであろうことも。
そうして、こうした世界への傾斜あるいは嗜好は、そのままオペラ『紫苑物語』にも映じている。
合わせて、前回記述の通り、光から闇への狭間たる『黄昏の幻影』(1995)から『流れ〜闇の訪れた後に』『蓮華化生』(いずれも1997年)への流れ、つまり黄昏から常闇への下降が、この『地獄変』の背後にあること。
1994年のインド、ベナレスでの日昇・日没と葬いもまた、生死の姿を彼に示す。
西村自身が交響曲の集大成、一つの終着点であり出発点でもあると語る『交響曲第3番』脱稿のちの2003年夏、彼は心臓治療のため入院、そこで自身の生死をも見つめることになる。この『絵師』はその意味でも、重要な作品として位置付けられよう。
続きは次回とする。

 

1)『地獄変・邪宗門・好色・藪の中他七篇』芥川龍之介著 岩波文庫 70-2 岩波書店2002  p.40~82
2)作品目録表示に従う
3) 『決定版三島由紀夫全集28 』「僕の<地獄変>」新潮社 2003 p.338
4)同上「竹本劇<地獄変>」p.221
5)筆者はそのポスターを万博パビリオンで見た。http://mercuredesarts.com/2021/04/14/notes_on_akira_nishimura9-japan_world_exposition_osaka1970-okayama/
6)『宇治拾遺物語』との重複もある。
7)『今昔物語集』巻第20第45話「小野篁、情に依り西三条の大臣を助くる語(小野篁依情助西三条大臣語)」には、病死して閻魔庁に引据えられた藤原良相が篁のとりなしで蘇生したという逸話がある。
8) 由旬とは経典に出てくる数字で、インド思想一般では約14.4kmとされ、仏教ではその半分程度の長さと定義される。つまり、とんでもない長大さということ。
9)『決定版三島由紀夫全集22 』p.53.54

参考資料)
◆書籍
『地獄変・邪宗門・好色・藪の中他七篇』芥川龍之介著 岩波文庫 70-2 岩波書店2022
『決定版三島由紀夫全集28 』新潮社 2003
『決定版三島由紀夫全集22』新潮社 2002
『宇治拾遺物語』全訳注  高橋貢訳 講談社学術文庫 2018
『今昔物語集』全訳注 国東文麿訳 講談社学術文庫 1981
『古事記 (上)』 全訳注 次田真幸 講談社学術文庫 1977

◆Youtube
文楽『義経千本桜』より二段目「伏見稲荷の段」
https://www.youtube.com/watch?v=Gz-pg8kq_Dk

                                   (2023/7/15)

西村朗 覚書(1)~(31)