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特別寄稿|三善三部作を東京で聞き、広島で思う|中村寛

《三善三部作を東京で聞き、広島で思う》

Text by 中村寛(Hiroshi Nakamura)

ステージ上に照らされた演奏家たちの晴れ姿を、客電の落とされた会場の末席で見つめながら、私は、彼らが奏でる音に灯された、心の闇にゆらめく炎を一人、見つめていた。
いや、その演奏は「奏でる」などと言うにはあまりにも壮絶なオーケストラの爆裂、コーラスの絶叫、突き刺すような「血だらけ 血だらけ」(『レクイエム』)「ちぎられて えぐられて」(『詩篇』)… 寄せては返す波のように、それらが混然一体となって襲ってくる阿鼻叫喚が、心の裡の焔をたゆたわせ、あるいは猛火となって私を焼き尽くす。
殊に『詩篇』にあっては、時としてその声すらも、もはや言葉にならないことば、呻きにも似たものと化し、そこに何らかの意味を聞こうとする者を拒むかのようなオーケストラの断末魔に燃やされ、砕かれ溶解してゆく。

終演後、アフタートークでマエストロの山田和樹氏は、ホワイエに残った聴衆に「技術的には、もっと声が聞こえるような演奏も可能なんだけれども、そうじゃない」、そんなことを語っていた。私が知る、最も苛烈な演奏…
マエストロの言葉にふと、ここで『響紋』の初演を聞いたことを思い出す。初の三善体験。ことばがなかった。初めて三善先生にご挨拶したのもここだった。山田氏がマイク片手に語っていた一角は、同じ都響の<東京21世紀カウントダウンコンサート>(2000年大晦日)の終演後、聴衆の皆と年越しを祝ったカクテルパーティーで、畏れ多くも手招きくださった先生と共に乾杯をした、その場所だった。その時の曲目にも『響紋』。「大晦日に『響紋』?!」と申し上げたら先生、はにかむような表情をたたえて笑みを浮かべておられた…

§

広島の平和記念資料館に入って、順路に沿って歩みを進めると、程なく被爆当日の写真、キノコ雲の巨大な3枚のパネルに続いて、<火傷と負傷にあえぐ被爆者>とキャプションのある、市中の人々を写した2枚が目に飛び込んでくる。
爆心地から2キロの御幸橋で、1枚は応急処置を受けている人びとを背後から、もう1枚は、同じ人びとが右手に、欄干に列をなして座りこんでいる人びとが左手に写っている。背後の建物は窓ガラスが吹き飛び、その奥に連なる通り沿いの建物が、座りこんでいる人びとに連なって、崩れかかって並んでいる。
白黒写真に色彩が沈んで、火傷なのか、被爆者たちの黒光りする腕、グチャグチャの髪、煤まみれの服装… 炎なのか煙なのか、墨絵のようなグラデーションに覆われ、闇に沈みゆくかのような空… そして思う、この空の下、見渡す限り至るところに同じ光景、何十万もの人びとが死屍累々、広がっている様子を。
「空が沈んでゆく」(鏡の雲)と『詩篇』の歌詞で歌われる宗左近の詩集『縄文』の一節がよぎる。そして思う、「わたしの綴った日本語の文章は極めて脆弱である。「私の中の生者」の生態の片鱗さえも伝えないでいる」と、そのあとがきでさえ言わざるを得ないもどかしさを。

「テクストは日本の抵抗詩、つまり戦前からのたくさんの詩人たちの反戦の詩と、特攻隊員たちの遺書を、私自身がコラージュしたものです」(三善晃『ぴあのふぉるて』私自身のこと)と作曲家自身が語る『レクイエム』最後の歌詞は「たまきわる いのちしななむ ゆうばえの ゆるるほなかに いのちしななむ」(宗左近『夕映』反歌)。「昭和三十四年に出たわたしの第一詩集『黒眼鏡』から、戦争中のわたしの苦しい悲しみの濃く匂いでている二行を、鋭く選び出して下さった」(『縄文発進』音楽家)と詩人がエッセイに綴る、その詩集の献辞にはこうある。
「一九四五年一月のある日の夕焼けのなか レイテ島の傾いた黒土のうえに によきによきと生えだしている 鎌首をもたげてやまないでいる しかし明らかに腐りはてている 東京帝国大学フランス文学科二年生 大日本帝国陸軍歩兵伍長 幼稚なマルクシストのなれのはて 私の一番大切な友人 峰岸啓三の 目をむく白眼が焼きついている 目をむく白眼に焼きついている もの の ために」
戦地のその「一番大切な友人」に、彼が書き送った「たまきわる…」への返事。「読んだ、嬉しかった…強い原色の花は苦手だな。そういう土地で、きみの<反歌>を生きることになるかもしれぬ」(『美のなかの美』かなしみは めぐりもあえず)と。

作曲家は語る。「彼自身が大学生だったとき、空襲で母親と生き別れしました。手をつないで炎のなかを逃げる途中で母親だけが力尽き、倒れてしまったのです。宗の学友の多くも特攻隊員として死にました。その経験を宗は、日本の先住民族だった縄文人に託してこの詩を書いたのです」(私自身のこと)。詩人は書く「その作品は、詩の形をとりました。いわば、音楽というものの助けをかりて書かなければ…ほくの奥からわき起こり、ぼくを引き裂く音楽に身をゆだねなければ、ぼくは炎が母を焼く現場に帰れなかったのです」(『絆 ドキュメント・我が母』)。詩集『炎える母』についてそう書いた彼の、『縄文』における一節はこうだ;

「吊り橋はねた 青空さけた どろろん どろろん どろろん どろどろ どろろん」「きみたち死んだ おれたち生きた るぅお るぅお るるぅお おおおお」(滝壺舞踏)

言葉にならないことば、音にならないおと。三善音楽は、かろうじて詩人が語ろうとすることばを歌詞に拾いながら、母が、友たちが呑みこまれた火、沈んだ波、溶けあった雲、そのオノマトペと化した呻き、つまり詩人の言う「音楽」を、文字通りの音の乱舞に転じて、「ぼくを引き裂く音楽に身をゆだねなければ」帰れなかった現場へと、私たちをも引き戻そうとする。
『詩篇』の冒頭で歌われる「きみたちが殺されなければ」(雲)、続く「別れなければ」(天体)「花びらの波が」(夕映え)など、生者と死者を分かつ刹那の歌が、『滝壺舞踏』の歌われる中盤で「鏡の破片」(宗左近『縄文まで』音楽と詩との出会い)となって、オーケストラパートの各所に散りばめられ、「おれたち口に ミミズがいっぱい きみたち口に ほたるがいっぱい」「きみたち死んだ おれたち生きた」の絶叫をばら撒きながら、「きみたち」と「おれたち」を引き裂いてゆくのだ。
だが、その刹那においてさえ、作曲家は楽の音そのものを決して手放そうとはしない。ひとつひとつの詩句に聞き取ったフレーズをここぞと引き寄せながら、どんなにそれがカオスに響こうとも、音が単なるマス化した音塊に堕するのを拒否し、スコアにあまりにも緻密に書き込まれた音型たちを、天空に飛散させてゆく。

§

そういえば、マエストロがアフタートークで言及していた三善先生の館長時代、東京文化会館の<舞台創造フェスティヴァル>の公募で拙作の上演をさせていただき、制作で文化会館に日参していたある日。先生と幼時の音楽体験の話になって、「そもそも<聞く>体験が、私の音楽初体験で…」と申し上げたら、「僕も、ベートーヴェンのヴァイオリン・コンチェルトを聞いて…」と。
そんな先生が、キェルケゴールが死に際に語ったという「私の生涯は一つの大きな、誰にもわからず理解もされない苦しみだった」「私は肉の棘を持っていた;だから結婚もしなかったし職にもつかなかった」なんて劇の、どこに興味を持たれたのだろう? ふと、「十代の終わりから私は、ものを、あるいは生き方を…えらぶことができなくなった」「私には、選取するのに迷うべき事柄、また、そのような事態がこなくなってしまった」(『遠方より無へ』)とお書きになる、若き日の三善先生を思った。まるで、言葉が響き合うかのような謂い…
「昭和二十年八月十五日とは、「今夜から電灯を暗くしないでいい」日にすぎなかった。そのことは、飛び上がるほどうれしいことだった。そして、それだけだった」「死が弁別されるべきものとして私のうちにただよいはじめたのは、戦争が終わってからだった」(『同』)。他方、「疎開とか、東京の多摩川で友人が機銃掃射で死んだとか…それらが古傷のように疼いていて」(三善晃、丘山万里子『波のあわいに』)。
ご自身がずっと抱えておられたそれら負の意識を、幼き日に出逢い、自らを託し、信じてきた音に委ねる思い。『詩篇』におけるそれは、「処刑から始まらない旅」(夕焼け)の末に一瞬現れる「啓ちゃんもとめて 花いちもんめ」(鏡の雲)の、生者と死者を引き裂くわらべ歌と、それを取り囲むオーケストラの絶唱へと結えられてゆく。この阿鼻叫喚の刹那にあってなお、歌が人間性の最後の砦、失われたいのちの「憑り代」(音楽と詩との出会い)であるかのように。
「別れなければ」「花びらの波が」のフレーズに「ゆるるほなかに」のこだまを聞くのは、私だけだろうか…

私がいるのはどこか、もはやわからなくなる。広島なのか? 詩人の裡なる母の、友人の間なのか? かつて詩人が<炎える母>を詩で弔った頃、生まれて程ない私は、何も知らずに母親の腕に抱かれて、同じこの場で写真に写っていた。今、こうして被爆者と<鏡>を介して対峙している私とは一体、だれなのか?
何があっても、世界はただ存在している。エマニュエル・レヴィナスの言う「存在することの恐怖」(『実存から実存者へ』)が襲ってきて、<火傷と負傷にあえぐ…>写真の前で、喉の奥から突き上げてくるものに耐えられなくなる。

§

『響紋』初演を聞いた後、宗先生は、彼が誘って演奏会を共にした学生数人と、会場近くへ暫し飲みに行かれたという。その間、誰も、一言もことばを発することができなかったと、そのおひとりから伺った。その沈黙の深さを思う。
山田和樹氏のタクトが奏でる「かごめ かごめ」の童声。オーケストラのどんな暴力をもかわしながら、「存在することの彼方」(レヴィナス)から聞こえてくるかのような歌声が、そっと、しなやかに、私の裡の炎を包み込む。そして、「うしろのしょうめん、だぁれ」。
今も…

©堀田力丸/写真提供:東京都交響楽団

「八月十五日正午…本当に抜けるように晴れあがった大空の青さの奥に、大きな白い雲が一つ浮いていた…「…逝ってしまった母と友人は、いったいどこに帰りつけるというのか。そして、このおれにどうして何が始まりうるというのか」いつまでも、白い雲は動かなかった」(『縄文まで』)。
『詩篇』、そして『縄文』の冒頭はこうだ;
「きみたちが殺されなければ 縄文 などありはしなかったのだ わたしの雲よ」

関連記事:カデンツァ|ヒロシマ―戦争と人間―|丘山万里子
関連評:東京都交響楽団第975回定期演奏会Aシリーズ【三善晃生誕90年/没後10年記念:反戦三部作】|齋藤俊夫

(2023/7/15)

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中村 寛
1965年滋賀県生まれ。タラゴーナ市作曲賞(スペイン)、カジミェシュ・セロツキ作曲賞(ポーランド)、ストレーザ音楽週間作曲賞(イタリア)、ISCM「World Music Days」フェスティヴァル入選(スロヴェニア、スウェーデン)、日本交響楽振興財団作曲賞最上位入賞・日本財団特別奨励賞、東京文化会館舞台創造フェスティヴァル最優秀作品賞、日本音楽コンクール作曲部門第1位、芥川作曲賞ノミネートなど。
セイナヨキ作曲賞・聴衆賞(フィンランド/CD SCOR201601)、アーラウ作曲賞(スイス)。

多田栄一氏、三善晃氏等に個人的に作曲を師事。