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イギリス探訪記|(9)寛容の国?:ウィリアム・バード没後400年祭|能登原由美

イギリス探訪記|(9)寛容の国?:ウィリアム・バード没後400年祭
Another Side of Britain (9) Land with Tolerance?: 400th Anniversary of the Death of William Byrd 

Text and photos by 能登原由美(Yumi Notohara)

 

ウィリアム・バード(c. 1540-1623)

74日はウィリアム・バード(c. 1540-1623)が亡くなってからちょうど400年の命日であった。このイギリス・ルネサンス期を代表する作曲家の大きなアニバーサリーに向けて、すでに昨年末あたりから礼拝やコンサートなどで彼の作品を取り上げる行事が増えていたが、この日の前後には関連の音楽会が様々な場所で開催された。亡くなった日であるにもかかわらず、どこか祝祭的なムードが漂っていたのは一見奇妙だが、本来祝うべき生年月日の確定が難しい古い時代特有の現象と思えば納得もいく。実際、バードについても長年にわたって1543年頃の生まれであると考えられてきた。それよりも少し前の1540年頃に誕生し、出生地についてはロンドンと「推定」されるようになったのは、1990年代も末のことである(1)。一方で、没年について明確な記録が残っているのは、生前からすでにその功名が広く知れ渡っていたという証でもあろう。

各地でバードを記念するイベントが開催されたが、もっとも盛大だったのはリンカーン大聖堂での「バード没後400年祭」。630日から5日間にわたって開催され、礼拝では軒並みバード作品が歌われたほか、ヴィオル・コンソートや鍵盤音楽の演奏会も開かれた。世俗作品でも後世に大きな影響を与えたことを考えると(とりわけ初期鍵盤音楽の発展に果たした功績は非常に大きい)、当然だろう。さらに、最後の2日間ではバード研究の現在を紹介するシンポジウムが開かれ、命日に当たる最終日には、タリス・スコラーズと大聖堂聖歌隊が共演する形でクロージング・コンサートも行われた。

イングランド中部にあるこの大聖堂には、1563年から72年までオルガニストのポストに就いていたことが明らかになっている。若かりしバードが故郷を離れて最初に得た要職であり、結婚や子供の誕生など家族を形成するとともに、創作活動の観点からいえばその初期を彩る作品が生み出された場所である。一方で、僅か9年で当地を去った背景には、自身の宗教問題が影響したと考えられている。バードといえば、国王を首長とする英国国教会がすでに確立していたにもかかわらず、生涯にわたってカトリック教徒としての信念を貫いたことで知られるが、この大聖堂でも簡素な音楽を求める改革派の意向のもと、彼の華麗なオルガン曲は「カトリック的」と批判されるなど教会側と意見の衝突があったらしい。信仰、音楽ともに自らの考えを曲げない一面は、すでに当時から顕著であったようだ。

リンカーン大聖堂

とはいえ、王室礼拝堂のメンバーとしてエリザベス一世直属の音楽家であったばかりか、「国教忌避者」(国教会のしきたりに従わない者はこう呼ばれた)として当局からマークされていたにもかかわらず、楽譜の印刷・出版に関する独占的権利(2)21年にもわたって国王から授与されるなど、音楽家として最大級の厚遇を得ることができたのは女王の特別な配慮があったからともいわれている。宗教的には比較的寛容であったとされるエリザベスだが、自らヴァージナル(3)を弾きダンスを舞うなど、彼女自身が熱心な音楽愛好家であったことも好待遇へと繋がったのかもしれない。さらに、多くの宮廷人たちと新旧の宗派を超えて繋がりをもち、双方に偏りなく作品を献呈していた事実をみる限り、バードは社会における立場と個人のプライベートの領域をうまく住み分けていたといっても良いのではないか。音楽様式的にはルネサンス末期と位置付けられるが、その活動には近代的な要素も予示させているユニークな作曲家である。

リンカーン大聖堂での記念祭に話を戻すと、私は最終日の午後しか参加できなかったが、この作曲家の重要な側面を改めて知ることができた。シンポジウムでは演奏実践に関するものと、先に触れたような社会的側面に光を当てた講演を聞いた。とりわけ後者については、バード研究者として名高いケリー・マッカーシーが、作曲家の家族も含めた一種の「ビジネス・ネットワーク」について語り、大変興味深いものとなった。もちろん、創作への影響関係について答えを出すのは容易ではないが、宗教改革の犠牲者としてのイメージに囚われすぎることなく、むしろ現実主義者として公私のバランスを取りながら生きた作曲家の一面を改めて確認することができた。

バード没後400年を記念して設置されたメモリアル・プレート(リンカーン大聖堂内)

「ウィリアム・バード没後400年記念」と掲げられた夕方の礼拝では、聖堂内陣に新たに埋め込まれたメモリアル・プレートを前に祈りも捧げられた。その後、大聖堂聖歌隊による歌唱のほか、タリス・スコラーズがピーター・フィリップスによる指揮のもと、リンカーン時代の作品であるアンセムDomine, quis habitabitを歌った。各パートに1〜2名という少人数での歌唱は今では珍しくないが、加えてこの声楽アンサンブルの場合、声色や発声、抑揚などの均整美が特質でもあるため、旋律の動きやテクスチュアの変化が一層明瞭に聞こえてくる。この時代のポリフォニーに顕著なファルス・リレーション(対斜)による不協和な響きが、バロック期以降の直截的な感情表出とは一味違う激しさを投げかけてくるとつくづく感じた。一方で、この後のコンサートでも強く感じたことだが、言葉の意味や抑揚をもとにしたバードのテクスト表現の巧みさが非常にクリアになっていた。礼拝開始前に誘導されるままクワイア席に着席したため、思いがけず歌い手たちのすぐ隣で聞くことになったのも幸いだった。柔らかな声の波に終始揺られながら、自らの信ずる神への祈りを一心不乱に書いた作曲家の姿を想像した。

礼拝後に先のプレートを確認すると、100年前の300年忌に作られたプレートでは「c1543」と書かれた生誕年が、「c1540」に改められているのがわかった。次の500年忌、つまりこれから100年後にはどのように刻まれ、どのような歌が鳴り渡り、それを見聞きする私のような会衆は何を思うのだろうか。

バード没後400年記念祭のクロージング・コンサート・プログラム

一連の行事の締めくくりとなるクロージング・コンサートは、夜9時の開演。だが日の長いヨーロッパの夏だけに、再び大聖堂の扉をくぐった時にはまだ残照と呼ぶには早すぎる明るい空が頭上にあった。先の礼拝と同じく、聖歌隊とタリス・スコラーズの共演は約1時間のプログラムで、ラテン語と英語による合唱曲のほか、カトリック、英国国教会双方の礼拝用作品が演奏された。もちろん、当時はこのように2つの信仰が「共存」することなどあり得なかったはずだ。が、微妙な政治・社会状況で生じた間隙をうまく渡り歩いたのがバードである。まさにそれを具現するかのような、この作曲家に相応しい閉幕だったといえるだろう。

いや、ここまでの内容だと、彼があまりにも処世術に長けていたかのような誤解を与えてしまうかもしれない。むしろ逆である。女王の庇護や楽譜出版独占権の保有など恵まれた環境を手にしながらも、バードは50歳を超えるとロンドンの一線から退き、有力な後援者でもある知己のカトリック貴族の暮らす辺境へと移住している。亡くなるまでの約30年を過ごした地域だ。創作意欲はまだ十分にあったが、残りの人生は世俗的な喜びよりも、神の世界の中で生きていくことを選んだといえるだろう。同じ頃に相次いで出版されたラテン語による3つのミサ曲は、今ではもっとも頻繁に演奏されるバードの代表作となったが、楽譜に表紙はなく、出版者や年代も書かれていない。カトリック社会でのみ共有されることを意図していたといわれる作品群だ。もちろん、作者などの情報を伏せた背景には、当時激しさを増していた宗教弾圧が影を落としていたと思われる。それまでにも旧教徒の迫害を抗議する「政治的な」(4)モテトを発表していたが、この時期のバードは国教会に反する典礼曲の出版にとりわけ危険を感じていたのだろう。にもかかわらず、その後もカトリック用音楽を相次いで出版するなど、晩年の彼は社会的名声や商業的成功よりも、心身ともに信仰に重きをおいた日々を送っていたことがわかる。

400年前のこの日、バードがどこで亡くなりどこに埋葬されたのか、今でも正確にはわかっていない。というのも、破門されたカトリック教徒の葬儀と埋葬は、英国国教会の帳簿には残されないためだ。もちろん、最後に信条を分かち合った人々の住む土地のどこかに眠っていることは間違いないだろう。とはいえ、王室礼拝堂の記録は、この当代随一の作曲家の死を報じるとともに、彼のことを「音楽の父」と呼んでいる。その意味するところについては議論も残るが、当時の人々が信仰の如何にかかわらず、その偉大な音楽を讃えていた様子が窺える。この度の音楽祭も、信条の違いを超え、神に仕えた1人の音楽家の存在を振り返るものであった。この国に昔から続くこうした宗教的寛容さが、ウィリアム・バードという人物とその音楽を生み出すことになったのかもしれない。

クロージング・コンサートの終演後。午後10時過ぎにもかかわらず、空にはまだ光が残る(2023/7/4 リンカーン大聖堂)

(1)John Harley, William Byrd: Gentleman of the Chapel Royal (Ashgate Publishin, 1997) 以下、本稿で触れるバードの生涯については同書を参考にした。
(2)1575年から96年まで。当初は師匠のトマス・タリスとの共同保有であったが、1585年のタリスの死後は事実上、独占的保有となった。
(3)チェンバロに似た撥弦楽器。その名の由来は、生涯独身のままであったエリザベス一世に因むという説もある。
(4)Joseph Kerman, “Music and Politics: The Case of William Byrd (1540-1623) Proceedings of the American Philosophical Society, Vol. 144. No. 3. (Sep. 2000) pp. 275-87.


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2023/7/15)