Books|マクロプロスの処方箋|藤堂清
カレル・チャペック作
阿部賢一訳
岩波文庫
2022年8月出版 660円(税込)
Text by 藤堂清 (Kiyoshi Tohdoh)
「――だって、死ぬのがとてつもなく怖いの。」という本の帯にひかれて読んだ。
カレル・チャペックの戯曲『マクロプロスの処方箋』、原題 “Vĕc Makropulos” の翻訳である。この戯曲をもとにしたレオシュ・ヤナーチェクの同名のオペラはある程度知っていたつもりだったのだが、このセリフに該当する箇所が思い当たらなかったというのが大きな理由。もちろんどんなオペラでも、原作に100パーセント忠実ということはあり得ないが、この言葉、主役エミリア・マルティの性格付けにおいて、かなり重要な役割を持ちそうに思えた。
戯曲の翻訳はこれが初めてではないし、オペラもオペラ対訳プロジェクトという活動の成果として、対訳が公開されている(《マクロプロス事件》)。正直なところ筆者は戯曲の方は読んでおらず、オペラとの差異も認識はなかった。
両者の構成をまずあげておこう。
戯曲
第1幕:コレナティ弁護士事務所
第2幕:大きな劇場の舞台
第3幕:ホテルの一室
変身:第3幕と同じホテルの一室(法廷に模様替えされている)
オペラ
第1幕:コレナティ弁護士事務所
第2幕:大きな劇場の舞台
第3幕:ホテルの一室
オペラの第1幕、第2幕、第3幕前半は、戯曲の台詞をかなり踏襲している。したがって、戯曲もオペラも、ストーリーや登場人物にほとんど違いはない。しかし、戯曲の「変身」と名付けられた場面はオペラにはなく、その第3幕後半に抜粋された形で埋め込まれている。
エミリア・マルティはオペラ歌手、聴いた誰もがみとめるすばらしさ、そして若々しさと美貌の持ち主。その彼女が100年前から続く訴訟の決定的な証拠となる遺言の存在を明らかに。なぜそれを知っていたのか?「変身」の中で、彼女がマクロプロスの処方の投与を受け、たびたび名前や姿を変え300年間生きてきたことや、100年前の遺言との関係が明かされる。彼女、本名エリナ・マクロプロスは、不老長寿の期限が迫っていることから、100年前に彼女の当時の愛人に貸した「マクロプロスの処方箋」を取り返し、再度その処方の薬を服用するために来たのであった。彼女は300年という時間の長さの中で何もかも無意味・退屈と感じながらも、「――だって、死ぬのがとてつもなく怖いの。」というのがその理由。処方の効果を皆が信じ、誰がどのように利用するかで議論が起こる。だが、エミリアが処方箋を渡そうとすると、誰もがしり込みする。最後に声をかけられたオペラ歌手を目指す若いクリスティナはそれを受け取り、燃やしてしまう。「これで不滅も終わり!」というエミリアの言葉で幕。
細かく戯曲とオペラを較べると、オペラではエミリアの苦悩や他の者の不老不死への考え方の部分が端折られていることが分かる。最初に挙げた台詞もその一つ。オペラでは、「死が私に向けて手を差し出しているように感じたけど、そんなに酷いものでもないのね。」と逆のニュアンスを持つ台詞が歌われる。またそれぞれの人の対応や反応に関しては、合唱を利用しドラマを速やかに進めている。そのため、ここでの登場人物の会話や考え方の差などがあらわれてこない。最後の場面、オペラはエミリアの主を呼ぶ声と彼女の死で終わる。その点も大きな違いと感じられる。
オペラと原作である戯曲との差異が大きいものも、小さいものもある。
團伊玖磨のオペラ《夕鶴》は、木下順二の戯曲『夕鶴』の台詞を一言一句変えないことを条件に作られたという。だが、そういった例は多くはない。
戯曲でのセリフまわしとオペラにおける歌唱を較べれば、後者の方がより時間がかかることはほぼ確実で、同じ台詞を使った場合、上演時間に大きな差ができ、長いオペラになることは避けられないだろう。多くの場合、オペラの台本は戯曲のものと較べるとだいぶ刈り込まれたものとなっている。
《マクロプロスの処方箋》のように戯曲とオペラが近い関係にある作品、探してみれば意外とみつかるのかもしれない。オペラではカットされてしまった部分がその作品の背景を知る上で役立つといったことも可能性はあるだろう。
書評というには拙いが、本を読んで考えたことを綴ってみた。
(2023/02/15)