イギリス探訪記|(1)英国王の死|能登原由美
(1)英国王の死|能登原由美
Another side of Britain (1) The death of the Queen
Text & Photos by 能登原由美(Yumi Notohara)
2022年の9月からロンドンに来ている。これから1年間、King’s College Londonの客員研究員として、20世紀初頭のイギリス音楽の研究に従事するためだ。とりわけ、イギリスではGreat Warと称されるほどのダメージを受けた第一次世界大戦から、第二次世界大戦が勃発するまでの「戦間期」に焦点を当て、戦争と音楽の相互作用、あるいは協働と言ってもいいような複雑な関係性について見ていきたいと考えている。もちろん、ジャンルや作曲家、作品など、すでにある程度の的は絞っているが、こちらに来て1週間ほど経った時に目の当たりにした歴史的出来事―それが今月のこのエッセイのテーマとなる―によって、当初の狙いにも新たな視点が加わってきたところだ。そこで、残り1年足らずの間とはなるけれども、イギリスでの体験を通じて見えてきたことを、この場を借りてリポートしていきたいと思う。
*****
9月8日、70年にわたって英国王の座に君臨したエリザベス女王が亡くなった。ちょうどその夜はロイヤル・アルバート・ホールでBBCプロムスの演奏会があり、ホールの裏手にあるカフェでお茶を飲んでいるときに店のテレビに映された画面でその報を知った。急いで会場に向かうと、予定されていたネゼ=セガン指揮、フィラデルフィア管弦楽団のコンサートは中止となり、代わりにイギリス国歌が演奏されることなどを聞かされる。開演までまだ1時間以上もあったが、少しずつ増えてくる来場者に逐一説明していくホール・スタッフの言葉遣いはいつも以上に丁寧で、まだあどけなさの残る彼らの顔に暗い影が濃く表れているのを見ていると、まさに今尋常ではない出来事が起こっているのだと実感した。
もちろん、ここまで来たのだから聴かないという選択肢はない。確保していた座席に行き開演を待つ。事前にコンサートのキャンセルを知って会場に来なかった人も多かったのだろう。周辺の客席は空いたままだ。そうした中で、日本人―あるいは東アジアからの人々―の姿を何人も見かけたのは印象的だった。なにせ、100年以上もの伝統をもち、夏の風物詩にもなっている音楽祭である。値段が手頃ということもあって観光客も多い。もしかすると今この会場にいる人々の多くは現地の人ではないのかもしれない。そればかりか、これから舞台で演奏するのもアメリカからやってきた団体だ。その場に居合わせた自分も含め、異国の君主の死に哀悼を捧げる外国人の集団を想像すると、何とも奇妙な心持ちになった。
定刻になると奏者たちが舞台に現れ、続いてネゼ=セガンが登場した。1〜2分間の黙祷に続き、国歌を演奏。そればかりか、その後さらに英国を代表する作曲家、エルガーの《エニグマ変奏曲》より〈ニムロット〉を奏し始める。これは事前に知らされていなかったこともあり、冒頭のフレーズが堂内に響き渡ると、前方で聴いていた人々が小さく声を上げ涙ぐむ姿が見えた。確かにあの旋律は美しいのだが、今日の演奏は実にしみじみとしていて、悲しみに打ちひしがれた心に柔らかく寄り添ってくる。あるいは、一人一人が心の中で亡き人を想いながら口ずさむ歌にひっそりと耳を傾けているようだ。追悼の調べとは、まさにこのようなものを言うのであろう。誰もが心の準備もできぬままに迎えた瞬間だからこそ生まれた偶然性の音と言えるかもしれない。その後繰り返し耳にすることになる「格式高い」儀式のそれとは異なり、決して再現し得ない響きであることは間違いない。
会場を出ると、すでにホール内には女王のレリーフが至るところに掲げられていた。この建物が王室ゆかりの場所(19世紀に君臨したヴィクトリア女王の夫君、アルバート公に因む)であるから当然であろうが、実はここばかりではなく、道すがら通るバス停や地下鉄、スーパー、商店など、あらゆるところで弔辞と共にレリーフが置かれているのを目にすることになった。それがなんとも自然なのだが、この女王だからなのか、あるいはこの国の君主制が固く根付いているためなのかはまだわからない。
その後、ロンドンで弔問が開始されるとその列に私も加わった。
5日にわたる一般開放期間初日の夜9時から並び始めたこともあり、その週末に見られた24時間にも及ぶ待ち時間とまでは至らなかったが、それでも遺体の安置された部屋に入ったのは翌朝の5時半前、実に8時間半もかかった。道中では、長蛇の列を整理すべく多くの警察官、警備員、ボランティア・スタッフが配置され、人々を手際よく誘導すると共に、質問などに答えたり調子の悪そうな人々に声をかけたりしていた。かくいう私もあまりの眠気にしゃがみ込んで突っ伏していると、「大丈夫か?」と警察に声をかけられた。高齢者や、一人で並んでいる女性も少なからずいたが、これほど多くの人々に見守れられているのであれば不安はない。
唯一心配したのが排泄だが、こちらもすでに要所要所にかなりの数の仮設トイレが設置されており、むしろそのあまりの準備の良さに戸惑いもした。一方、並んでいる側もたくましく、食べ物や防寒具、折り畳み椅子などそれぞれ必要と思うものを手に抱えている。それに対しこちらは何も持っていない。まだ列がそれほどでもないのを見て3時間程度で行けるのではと、急遽列に加わった見込みの甘さは否定できないが、必ず目的地まで辿り着くぞという意気込みだけは負けてはいなかった。
棺が置かれていたのは、葬儀の行われるウェストミンスター寺院そばのホール。その前には広場があるのだが、そこでは列が何重にもつづら折りに設置され、そこを通り抜けるだけで実に2時間以上もかかった。何せ、建物はずっとすぐそこに見えているのに、歩けど歩けど全く近づくことができない。
近くにしてなんと遠いことだろう。いや、この果てしない空間がまさに、かの地に眠る人と我々平民との間の途方もない距離をまざまざと物語っているのではないのか。次第にそうした思いに囚われてきた。ひとつのつづらを折り返す度にほんの少しだけ、まるで一歩一歩、階段ならぬ「階級」を登っていくような、そんな心境になってきさえもした。行列に加わってからすでに6時間ほどが経過し、寒さと疲労と眠気で意識が朦朧としていたせいかもしれない。あるいは、「天高くおわす高貴な人々」への謁見に向かうとはまさにこのようなことか。さまざまな妄想を抱きつつ、最後の気力を振り絞る。お前がそう簡単に近づける存在ではないのだ、その偉大さを思い知るが良い。…いや、もしかするとこれも演出の一環なのだろうか…。もちろん、そのようなことを企図して列を整備したわけではないであろうが、そんな言葉がふと頭をよぎった。
ようやく建物入り口そばに着くと、厳重なセキュリティ・チェックという最後の関門が待ち受けていた。危険物はもちろんのこと、僅かな量でも液体は完全に禁じられ、ここで日本から後生大事に持参してきた携帯消毒スプレーを廃棄することになった。こうして、手荷物と共に自らもボディ・スキャナーによる検査を受けたのち、携帯電話の電源を切るようにとの指示があった。撮影や録音が駄目という理由だけではない。私語も一切禁止。要するに、音を発してはならないのだ。あくまで静粛に、厳粛に、神聖な気持ちで臨むように…。
ホールに入ると、中央に安置された棺の両側を左右4列に分かれて少しずつ歩くように求められた。立ち止まってはいけない。そこに至るまでの警備の厳しさに加えて、ここでも人々を厳重に監視する者たちの目線が気になった。が、それらをくぐり抜けた後でまず目に飛び込んできたのは、棺の上に置かれた宝冠の燦然とした輝きだ。王位を象徴するその冠の眩いばかりの煌めきは、講堂内の灯と呼応しながら周囲を一層白く明るく照らし出している。11世紀に建てられたというこのウェストミンスター・ホール内部の厳かな装飾とも相まって、静けさの中に荘厳な鐘の音を聞くような、なんとも形容し難い空間が生み出されていた。
一方で、周囲を取り囲む王室騎兵たちの姿も実に印象的であった。棺の四方を固めるのはあの赤い制服に長い帽子を被った近衛兵。ここでは誰もが一様に顔を斜め下に傾け、両手を体の前で重ねたまま身じろぎ一つしない。さらにその周りに配置された騎兵たちも同様であった。これこそ悲嘆を表すポーズなのであろうが、この広々とした堂内では全く置物にしか見えない。まさに永遠の眠りにつく権力者とその象徴としての宝飾品、それらを未来永劫守り続ける衛兵たちの姿を見るようであった。あるいは、古代の墳墓がそのまま現代に蘇るとこうした形になるのかもしれない。とはいえ、やはり最後にはその中に臥す死者の安らかな眠りを願わずにはいられなかった。その96年にも及ぶ長い生涯には幾度もの戦争があり、時には国を勝利へと導くための剣ともなった。あるいは、世界で最も注目されるロイヤル・ファミリーの長として、王室廃止論者の舌鋒から王家の歴史と伝統を守る盾ともなった。そうして誰も経験したことのない重石を常に背負い続けていた人なのだ。思えばここに至るまでの8時間半に及ぶ行脚は、その足枷の重さを追体験するものであったと言えるのかもしれない。もちろん、彼女のそれには到底及ぶべくもないのだが。
その5日後の9月19日、国葬が行われた。もちろん葬儀自体を見ることはできないため、それについては自室のテレビで見ることにする。ただし、葬列の一部だけでも見られないか。市内の要所はすでに群衆で一杯であろうと、最後の安息地となるウィンザー城へと向かう。が、ロンドンの30キロ余り西に位置するこの場所へ向かう電車が途中から動かなくなった。もちろん故障なのではない。警備上、計画的に止められたのである。1時間近く待ってようやく着いた時には、すでに城内への道は閉ざされ、パブリック・ビューイングのできる野外広場へと誘導されてしまった。
直に聞こえてくる弔砲の響きこそズシリときたものの、やはりスクリーンに映るその様子は臨場感に乏しい。むしろ、ハンバーガーやらアイスクリームやらを売る屋台がやたらと繁盛している様子を見るにつけ、一つの祝祭的な行事のようにも思えてきた。…ふと見ると、ここにも無数の簡易トイレがある。その準備の良さに幾度も助けられたのは確かだが、やはりこれらは念入りに計画された一大イベントであったのだと改めて実感する。いや、そもそも権力者の葬礼とは、何百年も昔からこのようなものだったに違いないのだけれども。
こうして、女王の崩御から国葬までの一連の行事が終了した。まさに「国家の威信を示す」と言ってもよい出来事だったが、この間、この国とこの首都の全てが完全にそのような色に染まっていたわけでもない。次回のエッセイでは、同時に気づいたもう一つのロンドンについて報告したい。
(2022/10/15)