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第50回サントリー音楽賞受賞記念コンサート 高関健(指揮)|齋藤俊夫

第50回サントリー音楽賞受賞記念コンサート 高関健(指揮)
Commemorative Concert of the 50th Suntory Music Award Ken Takaseki (Conductor)

2022年8月12日 サントリーホール大ホール
2022/8/12 Suntory Hall, Main Hall
Reviewed by 齋藤俊夫(Toshio Saito)
Photos by 池上直哉/写真提供:サントリーホール 

<演奏>        →foreign language
指揮:高関健
東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団
<曲目>
ノーノ:『2) 進むべき道はない、だが進まねばならない…アンドレ・タルコフスキー』7つのグループのための
マーラー:交響曲第7番ホ短調「夜の歌」
  I.Langsam (Adagio)-Allegro risoluto, ma non toroppo
  II.Nachtmusik(夜曲): Allegro moderato
  III.Scherzo: Schattenhaft(影のように); Fließend, aber nicht schnell(流れるように、しかし速すぎず
  IV.Nachtmusik(夜曲):Andante amoroso
  V.Rondo-Finale: Tempo I (Allegro ordinario)

 

開演前の高関健によるプレトークが高関健という指揮者のキャラクターを如実に示していた。高関はマーラーの楽譜は高関校訂版を使うこと、ノーノの楽器の配置と聴き方についてなどを極めて実直に、飾りなく述べているだけだが、その実直さ、飾りのなさがともすれば華やかだと思われる指揮者という仕事人のイメージから程遠いのだ。こんなにたどたどしくしか喋れない人物に指揮ができるのだろうか、と思った人もいるかもしれない。だが、ひたすら、稀有なほど実直に譜読みをすることによって、譜面の中にこめられた信仰や狂気をありのままに発掘して表現する、それが高関健という指揮者のキャラクターである。実直を通して信仰、狂気にまで至らしめる、そんなことができるのは高関ただ1人であろう。

35年前に他ならぬ高関の指揮により、ここサントリーホールで世界初演されたノーノ『2)進むべき道はない、だが進まねばならない…アンドレ・タルコフスキー』の日本再演、これは会場で聴かねば絶対に得られない、いみじき音楽体験であった。
ステージ上に弦楽合奏団が、会場をぐるりと囲んだ6つのバンダに左右対称的に弦・木管・金管・打楽器の小集団が配置される。この7集団が奏でるのは限界ギリギリまでにか細い紗のような音の薄膜。7つの集団が音を呼び交わす微細なゆらぎに耳をそばだてていると、自分を形作っていた自我の境が雲散霧消し、静けさに満ちた会場全体が自分でありかつ音を発する音源となる。その会場にあまねく満ちたはずの静謐な自己=空間の内から、自己とは異質な轟音が響き渡る!
神話的とすら呼べる崇高なこの音楽体験から、筆者はノーノの生まれた西洋文明・文化の根源たるキリスト教的思索をせざるをえなかった。
静かな空間の中から暴力的な轟音が生まれる体験からは、神に創られし祝福された世界のその中から暴虐が現れる不条理を想起した。創造主とは何ものであるか、何を考えてこの世を創ったのか、何故この世界には美しいものだけでなく悪しきものが存在するのか?
空間全体が自己となる体験からは、神が汎神論的に遍在するならば、我々は常に神と一体であるが、かつ人格神と一対一で出会うことも不可能になるということを考えた。我々はどこに神を求めれば良いのか? 神は我々自身の内に在るのか? それとも遥か彼方に在るというのか?
音、音楽はこういった神学的・人間的思索を喚起しつつ、それとは無関係であるかのような風体でただ鳴り続ける。その神的存在の残酷さを目前にしつつ、我々人間にはキリスト教における3つの聖なる心たる愛・信仰・希望を持ち続けることが可能なのだろうか? この問題は実にタルコフスキー的問いかけとも言えよう。

極めて厳粛で、人間の倫理と美をともに審するがごときノーノの後のマーラー、いや、〈高関の〉マーラー交響曲第7番は、美に憑かれ、美を求めすぎたあまりに、なにかもっと恐ろしいものと化したような音楽であった。

第1楽章イントロ、弦楽からのテナーホルンの押し出しがまず凄いが、テナーホルンのみならず弦・木管・金管全てが怒涛の寄り身で迫る。そこからダイナミックにドラマチックにオーケストラが幾重にも音の波を送ってくる。弦楽が主導権を握る場所でのその音は甘いどころではなく色気ムンムンな危険な耽美主義。中盤、ハープがグリッサンドを入れるあたり、通常のマーラー解釈ならば平安、安息の音楽が訪れるものだと思うが、高関はあくまで耽美主義でねっとりとまとわりつく。冒頭楽想が回帰して少し落ち着いたと思えば、そこから盛り上がっての頂点、シンバルで大解放されて音の奔流が押し寄せる。なのに崩れないシティ・フィルと高関。情念を描くのに自らが情念に押し流されてはならないということか? 終盤、やっぱり安息ではなく官能を追い求め、タンバリン4人、トライアングル3人(この2パートの人数はスコアには指定がなく、通常ならば1人である)が動員されての〈モノスゴイ〉結末に至る。
第2楽章冒頭、対位法的書法だったと改めて知る。朗らかな楽想で「夜曲」らしい安らぎが訪れるかと思うと厚塗りのオーケストラがそれを裏切り続ける。それでも中盤、ハープと木管楽器による夜の鳥の声のような所では夢を見ているかのよう……でいて、どうも悪夢を見させられているかのような……夜曲と呼ぶにはケレンが勝ちすぎている。というかカウベルをこんなにガンガン鳴らしてよいのだろうか?と思っても、高関のマーラー解釈に沿えばきっとアリに違いない、と納得させられてしまう。
第3楽章はゴシックホラーの趣。黄昏を過ぎた古城から聴こえてくる音楽。弦を中心に、各楽器が妙に昂ぶった音楽を奏でる。高関のマーラーは、あたかも安らぎに至ったかのように思えてもその期待(?)を常に裏切り、強迫的な美が舞台上から立ち現れる。精神平衡を失ったかのような不気味かつ奇天烈な終結に至るまで一瞬たりとも気を抜いて聴くことができないスリリングな音楽。
第4楽章で今度こそ本当の「夜曲」の安らぎを迎えられるに違いない、と思っても、不穏因子たるギターとマンドリンがオーケストラを内側から侵食していく。いや、この奏者2人にはなんの悪意もないのだろうが、マーラーと高関は明らかにこの2つの楽器を異物として音楽を撹乱しようと企んでいる。眠り≒死への憧れと表裏一体の「夜曲」の〈安らぎ〉をギターとマンドリンは異化し、目を醒まさせる。だが眠り≒死と現実の生とどちらが美しいのだろうか?
ティンパニーソロから弦を経て金管楽器のファンファーレの冒頭が眩しい第5楽章は、それまでの現実離れ、現実の異化、現実外への憧れに満ちた音楽から一変して現実肯定的な音楽と聴こえる。だがそこは高関、現世ではない〈過剰な現実〉とでも言うべき、妄想に等しい、音楽だけが作り出せる虚構を積み上げる。実直にかつ徹底的に楽譜を腑分けすることによって可能となった美と狂気の融合。ロンド形式によって何回も押し寄せる楽想によって精神がへばってきて、もうこれ以上の音楽は限界だ、と言いたくなっても許してはくれない。そして最後の冒頭楽想回帰で鐘数台とカウベル何個もが耳も頭も割れよと打ち鳴らされ、感官と脳の神経が恐慌をきたすほどの〈モノスゴイ〉ことになって、目の前にサイケデリックな色が散ったような気がしたが、無事演奏会は終わった。

俄然興奮した。「やられた」と思った。こちらの想定をことごとく越え、想像以上のノーノとマーラーを聴かされた。驚くべきは高関の譜読みを超えた譜読みの力。全てを――ノーノの楽器の特殊配置とそこから聴こえてくる音も、マーラーの豪奢なオーケストラの響きも――あらかじめ把握し尽くしたからこそ可能な音楽であった。自らを飾ることを知らない指揮者が音楽をかくも美しく構築してくれたのだ。

(2022/9/15)

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<players>
Conductor: Ken Takaseki
Tokyo City Philharmonic Orchestra
<曲目>
Luigi Nono:2) No hay caminos, hay que caminar… Andrej Tarkowskij for Seven Instrumental Groups

Gustav Mahler: Symphony No.7 in E Minor, “Lied der Nacht”
  I.Langsam (Adagio)-Allegro risoluto, ma non toroppo
  II.Nachtmusik: Allegro moderato
  III.Scherzo: Schattenhaft; Fließend, aber nicht schnell
  IV.Nachtmusik:Andante amoroso
  V.Rondo-Finale: Tempo I (Allegro ordinario)