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〈コンポージアム2022〉ブライアン・ファーニホウの音楽|西村紗知

〈コンポージアム2022〉ブライアン・ファーニホウの音楽
COMPOSIUM 2022 The Music of Brian Ferneyhough

2022年5月24日 東京オペラシティ コンサートホール
2022/5/24 Tokyo Opera City Concert Hall
Reviewed by 西村紗知(Sachi Nishimura)
Photos by (C)大窪道治/提供:東京オペラシティ文化財団

<演奏>        →foreign language
ブラッド・ラブマン(指揮)
ヤーン・ボシエール(クラリネット)*
アンサンブル・モデルン

<プログラム>
ファーニホウ:
想像の牢獄Ⅰ(1982)
イカロスの墜落(1987〜88)*
コントラコールピ(2014〜15)[日本初演]
クロノス・アイオン(2008)[日本初演]

 

音楽の力とは概念を変える力である。音楽の力は、なにもファナティックな側面においてのみ宿り、発現するのではない。制作者が自分で問いを立て、自分の作品でもってその問いの答えとする、そういうものもまた音楽の力である。
この日アンサンブル・モデルンの演奏でブライアン・ファーニホウの作品を聴いていて、その目まぐるしいほどの数の音符で埋め尽くされた、息をするのも忘れてしまいそうなほど緻密な組成に圧倒されながらまず第一に思ったことは、古い前衛音楽作品のことだった。例えば、リゲティの「アトモスフェール」であったり、シュトックハウゼンの「ツァイトマッセ」だったり、ブーレーズの「主のない槌」であったり。
彼らとファーニホウだとどこが違うのか、あるいは、彼らにはどうしてファーニホウのやったことができなかったのか、などと考えるのは適切ではないだろう。作曲家それぞれの作品のことを、単純な差異や能力の程度問題に帰することはできない。問題なのは、継承されたもの、彼らのうちの何がファーニホウに残ったか、ということだ。
ファーニホウの側に、古い概念に対する批判意識が残されたことだろう。
個別の作品の志向やそこから得られる印象は一旦カッコに括るとして、古い前衛音楽において、程度の差こそはあれ概念はいくつも批判され、ときには実際に無効になったことだろう。旋律、伴奏、調性、形式、時間、アンサンブル形態など、枚挙にいとまがない。奏法の拡張とともに、それぞれの楽器の役割は拡張された。新しい音色は、新しい使われ方をされねばならない。この無効化は、音楽の構造にかかわる従属関係の無効化に集約されるものでもあったかもしれない。
ファーニホウの作品のうちに残された批判意識は、音楽素材における関係性に関するものだったのではないか。実演に触れ、「新しい複雑性」というキャッチコピーは、ファーニホウの場合「音素材の新しい関係性構築」と敷衍できるように筆者は思った。
「古い概念は無効だ」、とりわけ「音楽の構造にかかわる従属関係は無効だ」という診断を引き継ぎ、「それではどういう音素材の関係性が可能か」と問いを立て、それに基づき自分の作品を成立させたのではないか、と。
そんなことは多くの作曲家の為すところだ、と思われるだろう。筆者もまたそう思う。ただ、ファーニホウの作品の場合、その関係性の成立に関し、実に意義深いものがある。

「想像の牢獄Ⅰ」。プログラム全体を通じて言えることだが、ニュアンス、表情、音色の特性による表現、曰く言い難い魅力、などのポジティブな要素さえ容赦なく切り詰められている。音はひとつひとつが自己主張して、雲のような塊として把握されることを拒んでいるかのよう。それでいて、無関係な音が存在しないようでもあるから不思議だった。形式のレベルでも、反復や変奏というつくりをちょっと聴いたところだと拒絶している感じがする。それなのに、全体として偶発的だと感じることはない。
「イカロスの墜落」。この作品の場合ソリストが存在するため、コンチェルトらしい形式感はかろうじて残されている。クラリネットが音響上、前にせり出すため、音響には全体的に立体感が生まれることになる。
「コントラコールピ」。パーカッションと微分音調律のキーボードの音調が、作品にニュアンスを添えているのが特徴的だ。そして、次第にわかってくる。特定の楽器の組み合わせが存在するということが。それは特に、木管のセクション、弦楽器のセクションで感じられる。
確かに譜面は真っ黒で、恣意性の介在する余地はないのであろう。偶然性の真逆をいく、という意味ではこれほど自律した作品というのはそうそうないのだろうが、同時に開かれてもいるのである。というのも、最後の「クロノス・アイオン」になると、耳が、次第にファーニホウの作品を聴きながら、問い始めるのである。「どうしてこの音素材の関係性は、現に成立しているのか」と。
例えば、さっきのヴァイオリンとクラリネットの間に、なぜコントラファゴットが必要だったのか、というように。他にも、ひとつの楽器が音域的にはこの楽器と近く、リズムパターン的にはまた別の楽器に近く……といった具合に。ひとつひとつの音に、いわばコネクターがいくつか存在していて、絶えず潜在的に関係し続けているようなのだ。
そうしてファーニホウの作品はひとつの謎となる。謎というのは、閉じているということだ。けれどもそれが謎となるのは、他ならぬ観客の耳が作品に即して問うことによってであろう。

ブライアン・ファーニホウの場合、新しい複雑性とは、新しい、常に複数の可能態であり続ける関係性であり、ひいては新しい自律なのである。

 

(2022/6/15)

関連評:コンポージアム2022「ブライアン・ファーニホウの音楽」|齋藤俊夫
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<Artists>
Brad Lubman (Cond)
Jaan Bossier (Cl)
Ensemble Modern

<Program>
Ferneyhough:
Carceri d’Invenzione I for ensemble (1982)
La Chute d’Icare for solo clarinet and chamber ensemble (1987-88)
Contraccolpi for chamber ensemble (2014-15) [Japanese premiere]
Chronos-Aion for ensemble (2008) [Japanese premiere]