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Pick Up (2022/05/15)|展覧会「Masking / Unmasking Death 死をマスクする/仮面を剥がす」|田中 里奈

東京藝大AAI特別企画
「Masking/Unmasking Death 死をマスクする/仮面を剥がす」
東京藝術大学大学美術館 陳列館、2022年5月1日~10日(鑑賞日:5月2日)

→Exhibition “Masking/Unmasking Death” (in English)

Text by 田中里奈(Rina Tanaka)
写真提供:UPN

主催:東京藝術大学大学院 国際芸術創造研究科 アートプロデュース専攻(GA)毛利嘉孝研究室、東京藝術大学グローバルサポートセンター(東京藝大AAI)、合同会社UPN
助成:公益財団法人東京都歴史文化財団アーツカウンシル東京[スタートアップ助成]、公益財団法人 花王芸術・科学財団

キュレーター:居原田遥
アーティスト:カミズ
企画協力:TERASIA

展覧会「Masking/Unmasking Death 死をマスクする/仮面を剥がす」

「アジアの文化芸術」に焦点を当てる東京藝大AAI(アジア・アート・イニシアティブ)による特別企画展である。2021年2月にミャンマーで起こったクーデターから今日に至るまでに犠牲になった人々の顔を象ったペーパーマスク100点を展示する。マスクの制作者はミャンマー出身アーティストのカミズ。身の安全を守るため、匿名でなおかつ顔を隠しての遠隔参加である。

まず確認しておきたいのは、展覧会の実現にあたって、東京藝大AAI、キュレーターの居原田遥、そしてアジア横断型のアート・プロジェクト「テラジア|隔離の時代を旅する演劇」という、3つの経糸が組み合わさっていることだ。展覧会のきっかけは3つ目に挙げたプロジェクト「テラジア」だ(本誌でも、同プロジェクトから生まれた『TERA เถระ』(タイ、2020)(1)や『テラ 京都編』(京都、2021)(2)を過去に取り上げている。また、この記事を書いている筆者は、外部観察者(3)という形で同プロジェクトにたびたび関わってきたことを先に断っておきたい)。同プロジェクトに関わっていた東京藝術大学の卒業生たちを介して、アジアのアートや文化的実践を研究する居原田や東京藝大AAIが参加するに至った(4)


「倒れた英雄たち」との対峙

陳列館を入って2階に向かうと、天井が高くて奥行きのある真っ白な空間が広がっていた。空間のちょうど中央には紙でできた白い湖が広がっていて、その周囲を複数の白い蚊帳がぐるりと取り囲んでいる。入口から見て奥側には、こちらも紙でできた木々が置かれている。

(写真:冨田了平)

幻想的な空間の向かい側、入口脇の壁面には、ミャンマーでの2021年2月クーデターから今までのタイムラインが書かれている。その横にあるスクリーンに、本展覧会に作品を託したカミズからのメッセージ動画が映されている。

(写真:冨田了平)

蚊帳それぞれの内側には、「倒れた英雄たち(Fallen Heroes)」のマスクが6~7面ずつかけられている。足元の床にはマスクと同じ数のQRコードが貼られていて、スマートフォンで読み込むと、マスクそれぞれに対応した死者の情報がビルマ語・日本語・英語の三言語で表示される。名前や性別、年齢、死亡した日と場所、職業、死因、そして生前の顔写真。拷問や遺体の損傷について触れたものは複数あり、死亡日がつい先月になっているものもあった。

QRコードの情報を読み取るために屈み込んで、各情報に対応したマスクを確認しようと蚊帳を見上げると、紙のマスクに書き込まれた黒い眼と、あたかも目が合ったように錯覚することがあった。最初に対峙した時には無機物の作品に見えていたマスクの群れが個々人の像として立ち現れてくるのだ。一見して幻想的だと思っていた展示の場が、喪の空間へと様変わりしていることに気づく。

(写真:冨田了平)

立ち止まったのち、再び展示空間をぐるりと歩き回ってみると、各オブジェの解説があちこちの壁に取り付けられている点に目に留まる。白い「蚊帳」はミャンマーに古くから伝わる葬儀で遺体の横たわるベッドを包むものだ。「湖」は浄化と輪廻の象徴である。カミズはこれを、倒れた英雄たちの死後の平穏を願い、さらに、展覧会の来場者が死と向き合い、考えるための場として創り出した、と説明している(5)。「木々」のオブジェの近くには、「死を想う質問」のリストが置かれている。来場者はそこで、死について考えたり、考えた内容を文字や仮面に書き出して、誰かと共有したりすることができる(この一環で、カミズと画面越しに対話するワークショップが会期中に全3回実施された)。


喪の行為、看取り、祈り

この展覧会が、ミャンマーにおけるクーデターに対する抵抗の明確な意思表示であることははっきりしている。だが、その手法は社会の変革を安易に訴えるものでは決してない。他方、品評の対象として自分から切り離して鑑賞できるものでもない。むしろこの試みは、現地でクーデターとそれによる数多の死に直面したアーティストにとって、そうしないことには先に進めない中で編み出されたサバイバルの一手法であると同時に、展覧会における儀礼的行為を通じて、報道やレポートで数値化され匿名になった犠牲者それぞれの人間としての尊厳を取り戻すという、二重の意義を有している。つまり、アーティスト個人の喪の作業であり、他者がそれを看取ることによって初めて成立する儀式でもある。この点で、展覧会は政治的かつ社会的な行為であり、なおかつ私的な体験でもある。

(演奏:田中教順、録音:三浦実穂、西原尚、映像:冨田了平、コンセプト:TERASIA)

この関連で言及しておきたいのは、5月7日、会場内でミャンマー伝統音楽『ကြုံသလေဘုံဘွေ』の無観客独奏の動画が、展覧会公式Facebook上で公開されたことだ(6)。マウン・ザインと呼ばれる、演奏者を取り囲むように置かれた大小さまざまな19個の銅鑼状の打楽器によって演奏されるサイン・ワインの、やわらかで包み込むような独特の音色は祈りのように聴こえる。カミズがマスクの作成を通じて喪の作業を行い、演奏者である田中教順が看取りの役割を担い、さらにその状況に、視聴者たちが時間と空間を隔てて居合わせるという、三重の構造がある。公開された動画では、視聴者が視点を360度自由に動かせるので、舞台上での出来事を「じっと見守る」というよりも、寺社仏閣や教会の観覧スペースから儀式の様子を「覗き見る」感覚に近い。

ただし、この展覧会が作品の成立に来場者を強制的に巻き込もうとしていたわけではないことも、ここで併せて指摘しておきたい。なるほど、ミャンマーの政治情勢や社会的背景についての解説が来場者に提供される。犠牲になった人々の個人情報が来場者個々人の所有する端末に呈示されもする。いずれも強いメッセージ性を含んだものに見える。だが一方で、この展覧会が来場者に求めているのは、デモンストレーションのように明確な形での具体的連帯や支援の表明ではない。そうではなく、展覧会の核にあるのは、「絶望的な現実を受け止めながら、同時に、それらを希望に変える回路を、共に思考してほしい」(7)という切実な願いである。


問いかけへの応答

ところで、『Masking/Unmasking Death』の会場で配られた「死を想う質問」は、クーデターという国レベルの問題からいったん離れて、個人のレベルでの考えを来場者に促していた装置のひとつだ。この質問集は、「私」を主語にした回答を来場者に求めてくる。「あなたにとって人生や生はどんなものですか」、「今までに愛する人や家族を亡くしたことがありますか」、「誰かの死が、あなたに生きるエネルギーや生きる理由を与えたことはありますか。またはその逆で、誰かの死によって、生きることに希望を失ったり、落ち込んだりしたことはありますか」。

(会場配布資料を筆者撮影)

質問のリストを見ていて思い出したのは、この展覧会と同じく、「テラジア」プロジェクトから生まれた3つの演劇作品(前述した『テラ』、『TERA เถระ』、『テラ 京都編』)に共通して登場する、108の問答の場面だ。演じ手が打楽器を片手に、生死に関する素朴な、時に哲学的な問いを観客に口頭で投げかけ、それに対して観客がめいめいに打楽器の音で回答する。質問は全部で108個もあるので、問答は上演の相当な割合を占める。ほぼ強制的に参加させられるうえ、かなり個人的な質問を矢継ぎ早に聞かれるという、なかなかハードな場面だが、打楽器を叩いてYES/NOで回答するという匿名性と遊戯性、テンポよいリズム感が参加の敷居を下げ、上演のたびに独特のコロスを形づくる。

今回の展覧会における「死を想う質問」が、この108の問答の流れを汲んでいるものとして解釈することはできる。ただし、この質問リストは会場に置かれた配布物のひとつであり、来場者全員が必ずしも手に取るわけではない。また、回答を他者と共有することが目指されているわけでもない。むしろ、希望する来場者が無理のないタイミングでめいめいに内省することをサポートするためのものである。この点で、「死を想う質問」は《思考による連帯》という展覧会の主軸を、鑑賞とは異なる方法で担っている。連帯の方法は来場者それぞれに委ねられている。だが同時に、以下で述べるメッセージカードや他の方法を通じて、思わぬ形で個々の思考がつながることもあり得たかもしれない。


展覧会の多義的なひろがりを見つめる

『Masking/Unmasking Death』では、「死を想う質問」のほかに、「木」のオブジェにメッセージカードを貼ることができる。会期も終盤に差し掛かる頃には、「木」がメッセージカードでいっぱいになっていた。メッセージの言語や内容は、反戦や非暴力を訴えるものから、個人の死生観を率直に書いたものまで、思った以上にさまざまだった。来場者が自由にメッセージ等を残せる展覧会でたびたび見かける、《正しそう》な回答ばかり並んだメッセージボードとは雰囲気を異にしていた。

『Masking/Unmasking Death』は多義的なひろがりを有した展覧会であるために、それを自立した1つの作品として鑑賞することは困難だ。だがもし、何らかの倫理的な答えを得ようとしてこの展覧会を訪れたり、鑑賞した内容を単なる社会運動として取り出してしまうのならば、その多層的な本質はたやすく壊れてしまうだろう。芸術は、社会的な出来事に対して直接的な処方を下すものではないし、明確なひとつの正しい答えに向けて我々を駆り立てることもしない。鑑賞者が作品をそのように扱った瞬間、芸術としての価値は失われてしまう。もしそうやって作用する芸術があるとすれば、それは芸術の皮を被った別の何かだ。

「絶望的な現実を受け止めながら、同時に、それらを希望に変える回路を、共に思考してほしい」という願いは、自ら思考することを放棄して、もっともらしい意見に流されたがる私たちへの警鐘でもある。もちろん、作品を介して、時間と空間を隔てた遠くまで見渡せる視野を持ちながら、しかも、鑑賞者である自分を放り出さないでいることは決して簡単ではない。しかしながら、他人事として突き放して作品を見るのではなく、さりとて、作品に描かれた出来事と自分との間の差異を無視して、安易に共感するのでもない方法――芸術活動をますますゆるがせにしている今日、それが切実に求められている。ひとつの回路が制限されても、いったん立ち止まって誰かと共に考えを巡らせて、別の回り道を見つけられるように。それは、彼らへの「希望」ではなく、私たちにとっての「希望」でもあるのだ。

(2022/05/15)

(1) 田中里奈「TERA เถระ」『メルキュール・デザール』、2020年11月15日。
(2) チコーニャ・クリスチアン「テラ 京都編 – あなたは誰?」、2021年4月15日。
(3) 田中里奈「TERASIAに外部観察者として関わるとはどういうことか?」『TERASIA テラジア|隔離の時代を旅する演劇』、2021年11月23日。
(4) 居原田遥「キュレーターのメッセージ――「絶望」を越えるために。」(展覧会当日配布資料、公式サイトより全文アクセス可能
(5) 展覧会の会場に掲示および配布された解説(日英)を参照した。
(6) 公式Facebookページ「Masking/Unmasking Death 死をマスクする/仮面を剥がす」における2022年5月7日の投稿。追ってYouTubeでも公開された
(7) 前掲、居原田(展覧会当日配布資料)。