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Books|政治と音楽―国際関係を動かす “ソフトパワー” ―|能登原由美

政治と音楽―国際関係を動かす “ソフトパワー” ―

半澤朝彦 編著
晃洋書房 
2022年4月出版
2800円(税別)

Text by 能登原由美 (Yumi Notohara)

ロシアによるウクライナへの軍事侵攻が始まって以降、世界的指揮者の排斥や、ロシアに対する「文化的制裁」など、政治動向と音楽活動との間には緊密な繋がりがあることが再び明らかとなった(侵攻が始まって直後の経緯については、拙論を参照のこと)。それは、国家や大企業など、富と権力が集中する場にのみ当てはまることではない。ロシア大使館前ではフィンランドの市民がシベリウスの《フィンランディア》を唱和し、廃墟と化した街中ではウクライナのチェリストがバッハを奏でた。その様子は動画となってSNSで拡散され、さらなる抗議活動や人道支援を促していった。いずれも、音楽が政治的行動の重要な媒体として機能していることを示すものだ。もちろん、こうした映像は、20世紀以降、世界各地で勃発する戦争やデモの現場などでも繰り返し撮影され、テレビなどを通じて放映されてきたものであり、むしろ見慣れた光景とも言える。それにもかかわらず、音楽界(とりわけ「西洋芸術音楽」の界隈)の中には、「音楽と政治は別物」として捉える傾向が根強くあったが、彼らにとっても今度の戦争は、両者が相互に作用し依存し合う関係にあることを認めざるを得なかったはずだ。何よりも、アーティストの政治姿勢によってコンサートの中止や変更を行う例が多発した事実を前にすれば、そうした関係性は否定できないであろう。

まさにそのような折に刊行された本書だが、興味深いのは、これが音楽学者や評論家など音楽の専門家によるのではなく、社会科学を専門とする研究者たちによって執筆されていること。総勢19名からなる著者の経歴を見ても、政治学や平和学、国際関係論や現代史など、その多くは音楽以外の分野を対象にしてきたことがわかる。この点については、他の「音楽書」とは大きく異なる特徴である。無論、「音楽と政治」についての研究は今に始まったことではない。すなわち、音楽学分野においては、音楽によるプロパガンダ、プロテストなどの事例が研究対象として幾度となく取り上げられてきた。けれども、編著者の半澤朝彦氏によれば、政治学などの分野では、音楽といえば特殊な能力や専門的知識を要するもの、あるいは「趣味」としてしか見なされないものであり、それが考察対象として取り上げられることはほとんどなかった。音楽などの文化が注目されるようになったのはこの10年ぐらいのことで、「いまや、誰もが文化を語ろうとし始めている」のだという(p. 251)。

こうした執筆陣の特性は、本書を次の点で特徴づけることになる。まずは、「音楽と政治」ではなく、「政治と音楽」というタイトルにも明らかなように、あくまで「政治」に視点が置かれていること。すなわち、「本書における『音楽』とは、作品やアーティストに限るものではない。重要なのは、音楽が引き起こす社会や政治の変化であって、いわば『社会現象としての音楽』である」(p. viii)と述べるように、「作品」や「演奏」、「奏者」に着目するような音楽学研究とは一線を画していることだ。ここで考察の対象となるのは、社会や政治に変化をもたらす様々な音楽的事象なのである。もちろん、こうした捉え方自体は、音楽社会学の分野などで見られたものであり、実際、本書においても「音楽社会学や歴史学の新しい業績に多くを負っている」ことが明示されている。けれども、それに加えて、その「社会現象」を「政治」という観点に特化して追究している点は、他に類書を見ないであろう。

それ以上に重要なのは、サブタイトルにも掲げられている「ソフトパワー」という概念。この用語はこれまでにも、音楽や芸術が政治外交手段の一つとして扱われている場合などに使われてきた。けれども、ここでは、軍事、経済といった「ハードパワー」の対語として挙げられるような、「国家、とくにアメリカのパワー・リソースとしてのそれ」として既に周知されているようなものに留まらないという。そうではなく、本書が目指すのは、「パワー」という言葉の通り、人々に働きかけ、人々を動かす音楽の「力」のことであり、その結果、従来の「ソフトパワーの概念を発展させるステップになることも期待」するものなのだという(pp. x-xi)。実際、本書では、国際問題や外交といったマクロな領域のみならず、個人の日常などミクロな領域も含めたあらゆる機会で発揮される音楽の「パワー」が関心事となっていることがわかる。

その具体的内容については、目次で示すのが良いであろう(カッコ内は著者名)。

 政治的動員と音楽
  音楽は政治を変えられるか―エストニアの「歌の祭典」― (大中真)
  帝国のこだま―イギリス帝国と公共音楽― (等松春夫)
  政治のための音楽、音楽のための政治―ナチスドイツとアメリカ占領軍政府― (芝崎祐典)
 Column 1 ロックは権力に「飼い慣らされた」のか (福田宏)
 Column 2 体制転換の夢と愛国パンク (浜由樹子)

 音楽とアイデンティティ・表象・規範
  音楽の「色」が投影するもの―ジャズは何色か― (齋藤嘉臣)
  越境するアイデンティティ―アラブ諸国の国歌― (福田義昭)
 補論 「君が代」の起立斉唱拒否 (阿部浩己)
  演奏規範とジェンダー―昭和前期の在日ユダヤ系演奏家と日本の女性ピアニストによる非同調― (山本尚志)
 Column 3 戦時下日本の音楽と商業主義 (辻田真佐憲)
 Column 4 公式の音楽、民衆の歌 (阿部浩己・半澤朝彦)

 グローバリゼーションと音楽
  クラブミュージックと直接民主主義のグローバル化―セカンド・サマー・オブ・ラブ以降の電子音楽が変える世界政治― (五野井郁夫)
  アメリカ軍産メディアエンターテイメント複合体が担う主体形成―政治的なるものとしての日常性― (前田幸男)
  グローバルとローカル―佐渡から見るソフトパワーとしての「鼓童」― (細田晴子)
 Column 5 音楽チャリティーは誰のものか (井上実佳)
 Column 6 モーリシャスの「音」にひそむもの (井手上和代)
 Column 7 ナショナリズム象徴の換骨奪胎―リビア革命歌「われわれは降伏しない」― (池内恵)

 音楽で世界を読み解く
  「歌の人間学」としてのブルース―詞で表現する政治・社会・文化― (佐藤壮広)
  Are you experienced? 体験としての音楽―とある授業の実践摘録― (芝崎厚士)
  ドン・キホーテの風車―サウンドスケープ論の「近代批判」再考― (半澤朝彦)

このように、著者の専門領域が多彩なこともあり、対象とするジャンルや地域、時代もさることながら、歴史資料を考察手段として用いた研究から具体的な授業実践に基づくものまで、アプローチも様々だ。「政治と音楽」の関係についても、国のまつりごとと音楽との関係性を論じたものから、民族や国籍、ジェンダーといったアイデンティティと音楽との多様な関係性を詳らかにしたもの、あるいは、音楽創作を通じて個人と社会、個人と政治との関わりを見るものまで、関心や視角は幅広い。視点の定め方についても、国歌も含めた音楽作品や、特定の奏者、演奏などの「発信の場」から、作品の伝搬や聴取などの「受信の場」に至るまで、執筆者によって大きく異なっている。

もちろん、多くの事象はこうした「枠組み」に収まるものではなく、一つの事例には様々な側面や要素が含まれていることは言うまでもない。このように、一見、捉えどころがないようにも思えるが、「政治と音楽」というテーマ以外の接点があるとすれば、次の点であろう。すなわち、半澤氏が自身の論考の中でマリー・シェーファーの音楽観に見られる「近代批判」を引き合いに出しつつ、またクリストファー・スモールが提唱した「ミュージッキング」の概念を挙げながらその重要性を指摘したもの、つまり、「トータルな『体験』としての音楽を捉えること」(p. 234)である。すでに述べたように、本書における「音楽」とは「社会事象としての音楽」であるが、「作品」や「演奏」を前後の脈絡から切り取り、閉じた出来事として捉えるのではなく、それを取り巻く社会的空間や時間も含めた一連の「体験」として捉えることは、「政治と音楽」を考える上では重要な鍵であり、今後の研究においても見過ごせないファクターになるだろう。

いずれにしても、本書の内容がすでに示しているように、「政治と音楽」の射程は途方もなく広がっていきそうだ。であればなおさら、こうした事例の中に何らかの共通項があるのかが知りたいところではある。あるいは、「政治における音楽」あるいは「音楽の政治性」についてテーゼや法則のようなものが見いだせるのか。音楽自体を考察の対象としてきた筆者にとっては、やはりそれが一番の関心事だが、むしろこれは自らの課題とすべき点かもしれない。

(2022/5/15)