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『明日の記憶』桒形亜樹子チェンバロリサイタル2022|西村紗知

『明日の記憶』桒形亜樹子チェンバロリサイタル2022
~5世紀を超える音の風景~現在を生きる女性作曲家の作品を中心に

2022年4月8日 ムジカーザ
2022/4/8 MUSICASA
Reviewed by 西村紗知(Sachi Nishimura)
Photos by 深田晃

<演奏>        →foreign language
桒形亜樹子(チェンバロ)

使用楽器:島口孝仁2000年製作、パスカル・タスカン1769年の複製
調律:12等分平均律、a1=440Hz

<プログラム>
ジョン・ブル:御名において
ジェルジュ・リゲティ:ハンガリーのパッサカリア
渋谷由香:Found Impression(委嘱世界初演)
フランソワ・クープラン:ティク・トク・ショック又はマイヨタン
ベッツィ・ジョラス:周りに
田中カレン:香草の庭
1.ローズマリー
2.ニオイスミレ
3.ラヴェンダー
―休憩―
カイヤ・サーリアホ:秘密の庭II(日本初演)
北爪やよひ: ÉNEK XI +α~何処へ~(チェンバロ版初演)
ヨハン・ゼバスティアン・バッハ:シンフォニア第5番変ホ長調
桒形亜樹子:輝石(チェンバロ版初演)
紅石 – 紫水晶 – 黒尖晶石
フアン・バウティスタ・ホセ・カバニーリェス:第1旋法のガリャルダス
※アンコール
クープラン:神秘のバリケード
ヨハン・ゼバスティアン・バッハ:ヴァイオリンソナタ第3番より ラルゴ(編曲:桒形亜樹子)

 

チェンバロの作品を聴いていると、職人の針仕事を眺めているような気分になる。音の刺繡が時間の経過とともに広がっていき、音楽が終わったらその刺繍はたちまち消えてしまう。チェンバロの音楽は、単色の糸で描かれていく、生地の上のファンタジーなのではないかと思う。
あるいは、チェンバロが織りなす音響を、他の楽器や音響現象の模造として鳴っているものとして感じたら、聴き手の耳は、形而下と形而上を想像しつつ行き来するような、不思議な経験をすることになるのだろう。現実そのもの、というよりは現実の写しであるし、でも実際に私の目の前で鳴っているから現実ではあるのだが、その運動は実際の運動でもあるけれども、純化された運動モデルのことでもある、といった具合に。
それは歌の隠喩なのか、それとも単なる音の連なりなのか。描出されたものなのか、描出する側の意識の流れなのか。音楽が語るのか、演奏者が、それとも作曲家が語っているのか。
こうした見立てのなかで、この日の作品それぞれの位相が決まっていく。そんなことをずっと考えていた。

ブルとリゲティ、渋谷とクープランはそれぞれ続けて演奏される。ジョラスと田中もそうだが、前半は6作品を2作品ずつ続けて演奏され、それはそれぞれ別の意味で対照的な関係性にある2作品である。
ブル/リゲティは、人間/人間ではないもの、渋谷/クープランは、印象/表現(ただしこの表現は、印象か表現かという迷いのなさゆえの)、ジョラス/田中は、気まぐれな動態/立ち昇る静態。例えばそんなふうに対照的だったのではないか。
みずみずしい響き。ジョン・ブル「御名において」は3つの声部が活発に絡み合っていく。左手が動き回り、その上に右手が2声の長音をのせていく。のち、左手の方が2声に。作品が人間の姿をしている。
ジェルジュ・リゲティ「ハンガリーのパッサカリア」。これも、右手の3度か6度の和音が上から淡々と降りてきて、左手の動きがだんだん変わっていくことで、音楽が進展していく。ブルとはその点構造が似ているが、似ているのは構造だけだ。人間の姿ではない。生物なのか無機物なのか、人称を欠いた何かなのか。
渋谷由香「Found Impression」。密集した音程でできた和音と、同じくらいの長さの休符とが交互に配置されていく。やがて音価は短くもなる。スタイリッシュだ。和音は後になるとばらばらに鳴らされるようになる。弾く段が変わって音色も微妙に変化し、音域も上方へ、あるいは下方へと、広がっていく。終わりまで性格の異なる断片が休符を挟みつつ登場していくのであった。
急に朗らかな音調に切り替わる。フランソワ・クープランの「ティク・トク・ショック又はマイヨタン」もまた、ブルと同じように、人間の身体性の謂いである。渋谷の方が寒色系のクールな色彩だったとすれば、クープランは暖色系であったように思う。それと、渋谷の音楽はなんらかの客体を造形した、その客体の現前であって、クープランの方はこれまた対照的にナイーブなまでに主体の表現である。踊って歌う身体そのものとでも言えるような。
ベッツィ・ジョラス「周りに」。CからFくらいの間の狭い音域で音がまばらに鳴らされていく。次第に跳躍したり、トレモロのようにして音の塊を成していくようになる。拍は不定形で、展開も予想が難しく、絶えず動き回っている。部分ごとの性格もばらばらだった。
対して、田中カレン「香草の庭」には曲ごとにはっきりとした性格が備わっており、そして発展的な展開もある。1曲目「ローズマリー」はさながらラヴェルの「夜のガスパール」を彷彿させるような闇の叙情を湛える。2曲目「ニオイスミレ」は、プレリュードのような軽やかな音型の反復。3曲目「ラヴェンダー」はばらけた和音がそのまま立ち昇る香気のようで、高揚感が生じるよう組み立てられている。

休憩後1曲目は、カイヤ・サーリアホ「秘密の庭II」。冒頭、C-Cisのトリルがライヴエレクトロニクスで立体的に増長されていく。周期的にしわがれたようなニュアンスのノイズも入り、この演奏中に採録された音が、ときにリズミックに反響する。チェンバロの音楽に備わったそもそもの内密性が、開かれていく。アンビエントな音響体の上に、高音部分で奏でられるメロディーがのせられる。
北爪やよひ「 ÉNEK XI +α~何処へ~」では一転して、簡素な点描的な素材が紡ぐ抒情性の世界。「ラシラミシファミシドソソ……」といった具合の訥々としたメロディーから始まる。この曲の場合メロディーがのせられていくのは、サーリアホの方では持続音だったが北爪では点、つまりAsの音の反復でつくられた伴奏の上である。最後はキーノイズで締めくくられる。
ヨハン・ゼバスティアン・バッハの「シンフォニア第5番変ホ長調」は、装飾音符を極力排したかたちで演奏された。骨格だけとなった音楽の姿が、このプログラムの他の作品との布置関係に置かれ、再度輝き出す。古典であるがゆえの重責から解き放たれて、朗らかな趣を取り戻すのである。
桒形亜樹子「輝石」。ルビー、アメジスト、黒尖晶石とそれぞれ名付けられた即興的な作品。このパフォーマンスは、今回のプログラムに含まれる他の作品では登場しない奏法がよく聞こえてくるように思え、そのため他の作品と相補的な位置付けにあるように思えた。前半にはリゲティの「コンティヌーム」のようなミクロポリフォニーらしい音響が、中盤には「ハンガリアン・ロック」を彷彿とさせる変拍子の断片、そして終盤にはクラスターが登場する。
この日のプログラムの最後は、フアン・バウティスタ・ホセ・カバニーリェス「第1旋法のガリャルダス」。スペイン音楽の朗らかで開放的で、健康的な雰囲気でもって、演奏会が閉じられていく。

この日、約5世紀にわたるチェンバロ作品が一堂に会することとなったわけだが、単に技法の展覧会に留まるものではなかった。それぞれの作品が異なる人間観の提示であり、その現象学的な射程はチェンバロ音楽にのみ尽きるものでもなかったように思う。
聴衆のうちに、この日の音楽は、音楽以上のなにかとして残っていったはずである。

(2022/5/15)

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<Artists>
Cembalo : Akiko KUWAGATA

<Program>
John BULL : In Nomine
György LIGETI : Passacaglia ungherese
Yuka SHIBUYA : Found Impression (Commissioned Work, world premiere)
François COUPERIN : Le Tic-Toc-Choc ou Les Maillotins
Betsy JOLAS : Autour
Karen TANAKA : Jardin des herbes
1. Rosemary 2. Sweet violet 3.Lavender
-intermission-
Kaija SAARIAHO : Jardin Secret II (Japan premiere)
Yayoi KITAZUME : ENEK XI + α(Cembalo ver. premiere)
Johann Sebastian BACH : Sinfonia Nr. 5 Es-Dur BWV 791
Akiko KUWAGATA : 3 stones (Cembalo ver. premiere)
Ruby-Amethyst-Black spinel
Juan Bautista José CABANILLES : Gallardas 1. Tono
*Encore
François COUPERIN : Les Barricades Mystérieuses
Johann Sebastian BACH : Largo from Sonata No.3 for Solo Violin (arr. Akiko KUWAGATA)